週末自炊酒
第十二話 アジのなめろう
「…さて、どうしようかこいつ…」
5月中旬の金曜夜、男はクーラーボックスの前で困り果てていた。
この日の夕方、男は課長と共に、部長に釣りへと強制的に連れて行かれた。
曰く、
「お前は先月の残業時間が長かった。長時間労働は健康面が心配だからな。そういう奴は趣味のために早く帰る意識を作ると良い。今日は取り敢えず俺の趣味に付き合ってもらうが、来週からは自分の趣味のために早く帰れよ」
とのことだ。
自分の趣味に付き合わせたいだけでは…と男は思ったが、確かに最近は定時上がりをしていない。
ちなみに残っていたタスクは自分が帰り支度をしているうちに課長と部長で調整をつけてもらったようで、来週の男のタスクは1/3程度になった。
「あの膨大な仕事量をどうやって…」と男が呟き、部長が、
「お前他部署の仕事も押し付けられてるからな。俺が『うちの仕事じゃねぇだろ!』って言ってやったらかなり減ったぞ。うちの仕事かどうか見極めてから、仕事を引き受けることだな」
と返す。
男にとっては身につまされる話である。
なお、課長は呼ばれていないのだが、
「部長と二人きりは大変だろうから」
といって付いてきてくれた。
この時間は夕まずめ、というらしく、早朝以外にも日の入り前後の1時間くらいはよく釣れるらしい。
男にとっては初めての海釣り。
周りに教えてもらいつつ黙々と釣りに興じた。
結果、男はボウズで部長と課長は良く釣れた。
惨めである。
「持ち帰るのが何もないのも可哀想だからな、これ持ってけ」
と部長からアジを2匹ほど渡される。
男は断ったが、結局押し付けられる形で貰った。
その後、アジが2匹入ったクーラーボックスを持って帰路につき、今に至る。
だが、
「魚、捌けないんだよな…」
今回、男が困っている理由がこれだ。
正確には捌いたことがない、が正しい。
何となく苦手意識があり、男は捌く前の魚を今まで扱ったことがないのだ。
「でもまあ、貰って食べずに腐らせるのはダメだからな」
当然である。
だが初めて魚を捌く者の未来は大抵決まっている。
男はネットで捌き方を調べつつ包丁を入れていく。
どうやら開きにしたいらしい。
ぜいごを取り、鱗を刃先で扱き、頭を落として内蔵を洗い流す、ここまでは上手くいった。
だが、開くところから上手くいかない。
「む…背を開く…?内蔵を取ってベロベロの皮しかないぞ?まあ、書いてあるとおりにやってみるか」
と覚束ない手付きで包丁を入れる。
実のところ、このレシピは少々上級者向けの内容なのだが、男は気付いていない。暗雲立ち込める。
背から開いて中骨を断ち切ったあたりで、男は身が骨に沢山付いているのに気付いた。
その後も腹ビレを取ろうとして身を持っていかれたり、腹骨をすく際に必要以上に身を切るなどやってしまった。
「身があんまり無い…」
素人の魚捌きなどそんなものである。
「取り敢えず勿体無いから骨に付いた身を削ぎ取るか」
と、スプーンを使って中骨に付いた身を削ぎ取る。
削ぎ取った後のグチャグチャになった身を見て男は閃く。
「そうだ。なめろうにしよう」
釣りたてで新鮮だが、如何せん見た目がグチャグチャである。
既にこうなのだからもっとグチャグチャにする料理すれば見た目も気にならないと思い立った訳だ。
一人暮らしなのに何に気を遣っているのだろうか。
ともあれ、そうと決まれば善は急げの精神である。幸いにもなめろうに必要な材料は冷蔵庫にある。
だが、酒がない。
男はまな板と包丁を手早く洗い、アジの身をラップにかけて冷蔵庫に入れ、酒屋へと向かった。
カランカランッ
「こんばんは」
ドアの音と共に男は挨拶する。
「いらっしゃい。また来たね。今日はどんな酒を探しているんだい」
酒屋の店主が調子よく言う。
「漁師飯に合う日本酒を探してまして…」
と、男が答える。
「漁師飯たって全国津々浦々色んなものがあるよ。具体的には」
と店主が返す。
それに対して男がなめろうですと答えると、
「なめろうか…なら南房総が発祥だね。えーと、房総の酒、房総…房総…と。これはどうだい?海辺の酒造の山廃仕込だ」
山廃という単語に男が反応する。
生酛と似た仕込方法で、熟成期間が長い分、旨味と酸味が強い傾向にある。
男の好きな仕込みであるし、何よりなめろうのような濃い味付けの料理にも合うだろう。
「では、それでお願いします」
男はその日本酒を買い、急いで家路につく。
家に着き、台所で必要な材料を並べる。
・アジの切り身
・ネギ
・味噌
・醤油
・おろしショウガ
・おろしニンニク
・大葉
流れとしては至極簡単だ。
下処理したアジや薬味、それと調味料を加えて包丁で叩くだけである。
まず、ネギは1/2本みじん切りにしておく。
次いで2匹分のアジの切り身からは皮を剥ぎ取り、血合い骨の辺りを切り出す。
そうして下処理したアジをまな板に乗せたまま、先程のネギと味噌と醤油を大さじ1ずつ、おろしショウガとおろしニンニクを小さじ1ずつ乗せる。
それらを包丁で叩くように細かく刻みつつ、全体的に馴染ませていく。
全体が細かく混ざっても、まだ叩く。
以前に男はテレビで、叩きまくると粘りが出てきて旨くなると見たことがある。
男は、それを思い出しつつ、その粘りに至ろうと叩き続けているようだ。
幾分か叩いたところで、材料がまな板にへばりつくようになったところで完了。
皿に大葉を置き、まな板のなめろうを包丁で器用にすくい取って盛り付けて、完成だ。
先程買った日本酒を猪口に注いで席に付く。
そして一口。
「んぐ…んぐ…はぁ…良いな、この酒」
酸味を伴った旨味が強い。
山廃や生酛特有の味わいだ。通常の仕込み方だとこうするのは難しい。
それを飲み込むと鼻腔の奥から芳醇な余韻が漂ってくる。
男はその余韻が消えないうちになめろうへと箸を伸ばした。
「…うんま!なめろうってこんなに旨いのか」
皿を舐めるほど旨いからなめろう、とはよく言ったものだ。
ニンニクの香りがほのかに香った後に味噌や醤油の風味がやってくる。そして噛めば噛むほどアジの旨味が押し寄せる。それらをネギとショウガの香りがまとめ上げている。
男はすかさず酒を飲んだ。
「んぐ…んぐ…くはぁ…これは止められないな」
元より止めるつもりがない。
先程のなめろうの旨味に山廃の旨味も乗るのだ、旨くないわけがない。
せっかく貰った2本のアジは両方ともこの晩のうちに無くなりそうだ。
5月中旬の金曜夜、男はクーラーボックスの前で困り果てていた。
この日の夕方、男は課長と共に、部長に釣りへと強制的に連れて行かれた。
曰く、
「お前は先月の残業時間が長かった。長時間労働は健康面が心配だからな。そういう奴は趣味のために早く帰る意識を作ると良い。今日は取り敢えず俺の趣味に付き合ってもらうが、来週からは自分の趣味のために早く帰れよ」
とのことだ。
自分の趣味に付き合わせたいだけでは…と男は思ったが、確かに最近は定時上がりをしていない。
ちなみに残っていたタスクは自分が帰り支度をしているうちに課長と部長で調整をつけてもらったようで、来週の男のタスクは1/3程度になった。
「あの膨大な仕事量をどうやって…」と男が呟き、部長が、
「お前他部署の仕事も押し付けられてるからな。俺が『うちの仕事じゃねぇだろ!』って言ってやったらかなり減ったぞ。うちの仕事かどうか見極めてから、仕事を引き受けることだな」
と返す。
男にとっては身につまされる話である。
なお、課長は呼ばれていないのだが、
「部長と二人きりは大変だろうから」
といって付いてきてくれた。
この時間は夕まずめ、というらしく、早朝以外にも日の入り前後の1時間くらいはよく釣れるらしい。
男にとっては初めての海釣り。
周りに教えてもらいつつ黙々と釣りに興じた。
結果、男はボウズで部長と課長は良く釣れた。
惨めである。
「持ち帰るのが何もないのも可哀想だからな、これ持ってけ」
と部長からアジを2匹ほど渡される。
男は断ったが、結局押し付けられる形で貰った。
その後、アジが2匹入ったクーラーボックスを持って帰路につき、今に至る。
だが、
「魚、捌けないんだよな…」
今回、男が困っている理由がこれだ。
正確には捌いたことがない、が正しい。
何となく苦手意識があり、男は捌く前の魚を今まで扱ったことがないのだ。
「でもまあ、貰って食べずに腐らせるのはダメだからな」
当然である。
だが初めて魚を捌く者の未来は大抵決まっている。
男はネットで捌き方を調べつつ包丁を入れていく。
どうやら開きにしたいらしい。
ぜいごを取り、鱗を刃先で扱き、頭を落として内蔵を洗い流す、ここまでは上手くいった。
だが、開くところから上手くいかない。
「む…背を開く…?内蔵を取ってベロベロの皮しかないぞ?まあ、書いてあるとおりにやってみるか」
と覚束ない手付きで包丁を入れる。
実のところ、このレシピは少々上級者向けの内容なのだが、男は気付いていない。暗雲立ち込める。
背から開いて中骨を断ち切ったあたりで、男は身が骨に沢山付いているのに気付いた。
その後も腹ビレを取ろうとして身を持っていかれたり、腹骨をすく際に必要以上に身を切るなどやってしまった。
「身があんまり無い…」
素人の魚捌きなどそんなものである。
「取り敢えず勿体無いから骨に付いた身を削ぎ取るか」
と、スプーンを使って中骨に付いた身を削ぎ取る。
削ぎ取った後のグチャグチャになった身を見て男は閃く。
「そうだ。なめろうにしよう」
釣りたてで新鮮だが、如何せん見た目がグチャグチャである。
既にこうなのだからもっとグチャグチャにする料理すれば見た目も気にならないと思い立った訳だ。
一人暮らしなのに何に気を遣っているのだろうか。
ともあれ、そうと決まれば善は急げの精神である。幸いにもなめろうに必要な材料は冷蔵庫にある。
だが、酒がない。
男はまな板と包丁を手早く洗い、アジの身をラップにかけて冷蔵庫に入れ、酒屋へと向かった。
カランカランッ
「こんばんは」
ドアの音と共に男は挨拶する。
「いらっしゃい。また来たね。今日はどんな酒を探しているんだい」
酒屋の店主が調子よく言う。
「漁師飯に合う日本酒を探してまして…」
と、男が答える。
「漁師飯たって全国津々浦々色んなものがあるよ。具体的には」
と店主が返す。
それに対して男がなめろうですと答えると、
「なめろうか…なら南房総が発祥だね。えーと、房総の酒、房総…房総…と。これはどうだい?海辺の酒造の山廃仕込だ」
山廃という単語に男が反応する。
生酛と似た仕込方法で、熟成期間が長い分、旨味と酸味が強い傾向にある。
男の好きな仕込みであるし、何よりなめろうのような濃い味付けの料理にも合うだろう。
「では、それでお願いします」
男はその日本酒を買い、急いで家路につく。
家に着き、台所で必要な材料を並べる。
・アジの切り身
・ネギ
・味噌
・醤油
・おろしショウガ
・おろしニンニク
・大葉
流れとしては至極簡単だ。
下処理したアジや薬味、それと調味料を加えて包丁で叩くだけである。
まず、ネギは1/2本みじん切りにしておく。
次いで2匹分のアジの切り身からは皮を剥ぎ取り、血合い骨の辺りを切り出す。
そうして下処理したアジをまな板に乗せたまま、先程のネギと味噌と醤油を大さじ1ずつ、おろしショウガとおろしニンニクを小さじ1ずつ乗せる。
それらを包丁で叩くように細かく刻みつつ、全体的に馴染ませていく。
全体が細かく混ざっても、まだ叩く。
以前に男はテレビで、叩きまくると粘りが出てきて旨くなると見たことがある。
男は、それを思い出しつつ、その粘りに至ろうと叩き続けているようだ。
幾分か叩いたところで、材料がまな板にへばりつくようになったところで完了。
皿に大葉を置き、まな板のなめろうを包丁で器用にすくい取って盛り付けて、完成だ。
先程買った日本酒を猪口に注いで席に付く。
そして一口。
「んぐ…んぐ…はぁ…良いな、この酒」
酸味を伴った旨味が強い。
山廃や生酛特有の味わいだ。通常の仕込み方だとこうするのは難しい。
それを飲み込むと鼻腔の奥から芳醇な余韻が漂ってくる。
男はその余韻が消えないうちになめろうへと箸を伸ばした。
「…うんま!なめろうってこんなに旨いのか」
皿を舐めるほど旨いからなめろう、とはよく言ったものだ。
ニンニクの香りがほのかに香った後に味噌や醤油の風味がやってくる。そして噛めば噛むほどアジの旨味が押し寄せる。それらをネギとショウガの香りがまとめ上げている。
男はすかさず酒を飲んだ。
「んぐ…んぐ…くはぁ…これは止められないな」
元より止めるつもりがない。
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