月に水まんじゅう

萩原 歓

19 高岡志穂子

「ファミレスなんか来るんですか?」
「ふふ。たまに調査のためにね。片桐さんは来ないの?若いのに」
「うーん。うちがあんまり外食しない家で、兄がアレルギーもあるのでほとんど来たことないです」
「なるほどね。お母さまがちゃんとしてらしたのね」
「そうですね。友達と話しててもうちほど食事に力が入っている家はそうそうないみたいです」
「わかるわあ。あなたの作るまかないを食べるとそういう育ち方してるんだなあって思った」
 高岡志穂子は目尻にしわを作って優しく笑った。
彼女は三十代後半でこのグランドホテルのスーシェフとなった。異例の速さではあったが、実力は申し分なく誰が見ても納得できる腕前だ。
 厨房のスタッフは七割方、男性スタッフで女性スタッフは星奈と志穂子を含めても四人おらず、しかもそのうち二人はパティシエだった。
「片桐さんは、真面目だし技術も高いし文句ないんだけど何か目標はあるの?」
「……。特に……」
「そう。珍しいタイプよね。野心もなさそうだし。そろそろ一年経つじゃない。うちでこれからやるにしてもある程度目標がないと辛いと思うのよね」
「はあ……」
 厨房での仕事は星奈にとって合っているものだった。しかし周囲の人間を見ると、いずれこのホテルのシェフになりたいもの、独立して自分の店を持ちたいもの、もっとランクの上の厨房への転職を考えているものと、黙々とした作業の下でギラギラと野心が燃やしていた。
スタッフたちとの意識のずれが星奈とは大きすぎた。またスタッフがそういう野心を持っているものと思い込んでいる、ディレクターの横山幸平が先ほどのように美味しそうな話をちらつかせ女性社員に付け込んでくるのだ。
「結構きつい仕事じゃない。だから大丈夫なのかなって」
「仕事は好きです。でも……。一生ここで働く自信はないです」
 このホテルは自分の居場所ではないなと、星奈も半年勤めて感じていた。かと言って次の事を考えることもなくそのままにしてきてしまった。
志穂子はおそらく助け舟を出してくれたのであろう。
ここでどんなに長く働いていても、やる気と野心のある新人たちにどんどんポジションを抜かれていき、星奈は雑用のまま終わるだろう。


 てきぱきと合理的に作業を進め、横柄な男性スタッフに臆することなく、後輩たちの面倒見もよい。その辺の男性よりも男らしい、いわゆる男前な彼女とはまさに高岡志穂子のことを言うのだ。
「残念だなあ。そうだと思ってたんだ。片桐さんのまかないって本当に身体の事を考えてるような感じだもの」
 嬉しいような残念なような複雑な評価だった。
「あなたはレストラン向きじゃないのよね」
「そうですよね……」
 志穂子は一息ため息をつき、香りのない色だけのコーヒーを啜り、顔をしかめた。そして黒のクラッチバッグから名刺入れを取り出し、カードを一枚抜き星奈に渡した。
「おおぞら保育園……」
「今度、新設されるのよ。そこの園長が知り合いでね。ちょっと給食の相談に乗ってたんだ」
「給食……ですか」
「うん。食育が大事って言われ始めてまあまあ経つけど、この園もそれに力入れたいみたいでね」
「ご飯大事ですよね」
 にっこりと頷きながら志穂子は満足げな表情をする。忙しいホテルの仕事をこなしながら、保育園の相談にも乗っていた彼女のバイタリティーに星奈は感心した。
「どう?ここに勤めてみない?給食のおばさんになっちゃうけど」
「給食。子供」
「うん。子供。赤ちゃんからいるの。あなたの作ったものが子供たちの身体を作るの」
 星奈は名刺のおおぞらという文字を見ながら自分の中でかちゃっと鍵のかかった箱が開くような気がした。
「よかったら考えて。急ぎはしないけどね」
「あ、あの。やりたいです」
「えっ……。うん。片桐さんならそういうと思った」
 力強い志穂子の眼差しが星奈に力を与えてくれる気がする。そして自分の中に目標が生まれてくる実感が沸いていた。

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