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萩原 歓

10 飯田

 久しぶりに早く仕事を終えることができ、退社しようと思って立ち上がると飯田が声をかけてきた。
「大友、もう終われるのか。ちょっと飲みに付き合わない?」
「あ、ええ。いいですよ」
 断る理由もなく、直樹は飯田についていくことにした。


 会社に近い適当なチェーン店の居酒屋に入る。
直樹と飯田によく似たようなサラリーマンたちでごった返している店だ。
少し広めの座敷に案内され二人はくつろいで足を伸ばした。


「好きなもの頼めよ。勿論おごりだからさ」
 飯田は日に焼けて少し赤くなった鼻の頭にしわを寄せ、精力的に見える濃い眉を上げて直樹にメニューを渡した後、熱いおしぼりで気持ちよさそうに顔を拭いた。
「じゃ、遠慮なく」
 とりあえずの生ビールを大ジョッキで頼み二人でガツンと乾杯した。


「お疲れー」
「お疲れ様です」
 ぐっとあけるとすきっ腹にアルコールが浸み込み、気分が晴れるような気がした。
焼き鳥やら揚げだし豆腐やら適当につまみジョッキを空けると飯田が話し始めた。


「来年あたりさ。俺、本社に転勤なんだ」
「え、そうなんですか。おめでとうございます」
「サンキュ。で、うちの支店の次の主任をお前推そうかと思ってるんだけど、どうだ?」
「え?僕ですか」
「うん」
「ほかに適任者がいっぱいいると思うんですけど」
 平静に言う直樹に飯田は笑った。


「お前さあ。普通、『是非!』っていうぞ」
「はあ……」
「まあ、そういうとこがいいんだけどな。がっついてなくて」
「すみません」
「いや、謝らなくていいんだ。で、嫌か?嫌って奴もいないと思うけどな」
 白い歯が爽やかな飯田はベルで店員を呼び、ビールを二つ追加した。


 直樹は彼の話す出世話を嫌ではないが好ましいとも思っていなかった。
新しく冷えたジョッキを受け取り白い泡を眺めた。
水滴同士がくっつきあって一つの雫になって流れていく様を見ていると飯田は続けて
「大友はあんまり野心なそうだけどさ。一応やりこなせると思うし後々いいぞ。出世しとくと」
 と、セールスポイントを客に話すように清潔感のある声で話す。
「嫌ではないんですけど。ちょっと考えてることがあって」


 彼は入社当時から先輩として直樹の指導係であり、良き相談相手でもあった。
会社勤めにしては珍しく実力で評価されている好人物で、直樹が知る限り表裏なく腹黒さもなかった。
ただし、本社にいくとどうなるかわからないが。


 飯田も直樹の素直な態度に好意的で気に入った後輩として、たまにこうやって誘い掛けてくれる。
あまり社交的ではない直樹が営業職でやってこれたのは飯田のおかげでもあるだろう。
「何でも言ってみろ」


 五つほどしか年が離れていないのに、堂々とした貫録と包容力に安心して直樹は林業について彼に話してみることにした。
「掲示板に前『緑の雇用』ってポスター貼ってたじゃないですか。あれから少し調べてて、林業に携わってみたいと思ってるんです」
「え。あれに食いついたのか」
 飯田は予想外の相談に、少し驚いて飲みかけの傾けていたジョッキを止めて直樹を見入った。
 うなずいて直樹は先を続けた。


「今の仕事はもちろん嫌いじゃないですけど先のビジョンが全く見えないんです。仕事ってそういうものかもしれないですけど」
「うーん。林業なら見えそうなのか?」
「いえ……。わかりません。でも、初めてやってみたいなと思えたんです」
「まいったなあ」
 頭をかきながら飯田は困ったような面白いような複雑な表情をした。
後任を考えていたのに転職の話の流れになってしまい彼は少し唸った。


「なんか、すみません。主任にしか相談できなくて」
「いや、いいんだ。嬉しいよ」
 困り顔だが慕われて悪い気はしないらしくまたジョッキを空にして今度は熱燗を頼んだ。
 直樹は運ばれてきた銚子を手に取り飯田の持つ猪口へ注いだ。
「サンキュ。手酌でいいよ。お前ももっと飲めよ。明日休みだしさ」
「はい」
 直樹もビールをやめて焼酎をロックで頼んだ。


「まああれだな、一回体験してきたらいいんじゃないか。大友は有給全然使ってないだろ。一週間とか林業体験できるんじゃなかったか」
「ええ。あちこちで体験があるみたいです。」
「行って来いよ。考えてもさ、わかんねえだろうし」
「ありがとうございます。感謝祭イベントが終わったらちょっと行ってきます」
「ん。まあでも収入は半分だぞ。結婚とか考えてる相手とかいなかったっけ?彼女にも相談しとけよ」
「ああ。やっぱしないとまずいですかね」
「そりゃそうだろー」


 里佳子のことをすっかり忘れて、自分だけのことを考えていたが飯田に言われ、転職は自分だけの問題ではないことに気づいた。
(年収が半分か)
里佳子がどう思うのか多少想像がついた。
しかし直樹には林業体験をしたい欲求が強く、彼女の反応を気にすることはできなかった。


 転職の相談が一通り終わった後は飯田の仕事の愚痴やら目標やらについて話を聞き、次のイベントについて話し合った。
 昔から兄貴分の先輩に可愛がられることが多かった直樹はどこかしら兄の颯介に似た飯田に親近感を覚えていた。
ああすれば、こうすればと意見はするが直樹の決定事項には口を出さない。
直樹自身、相手の意見にそれほど反発することもなかったが、導きながらも自由意思を認めてくれることがありがたかった。


「じゃ、またな」「ごちそうさまでした」店を出て飯田と別れた。
楽しい時間を過ごせたと思った矢先に、里佳子に話すことの億劫さが、足取りを重くしていることに気が付いた。

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