風の歌

萩原 歓

15 優風吹

 ひと月経つとミズキは体調に異変を感じ、村の薬師でもある産婆のところへ出向いた。村長よりも年老いているはずだが子供の頃に見たときと何ら変わらず、しわくちゃの顔を綻ばせ「こりゃ、赤子じゃて」と腹を撫でた。


「お子が……」
「よかったよかった。今は戦乱が起きているというからな。ここで産んで育てたらなんの心配もいらんだろう」


 未だ平坦な腹をさすりミズキはニシキギと過ごした時が、夢でも幻でもなかったのだと実感した。


「殿……」


 平穏な時であれば町へと情勢を知るために出かけることもできたが、今は難しい。里の男が行商のために出掛けて帰った時に話を聞いたが、まだまだ戦況は落ち着かず、武装した兵士が北上するのを見たといっていた。




 ニシキギと彼の叔父の睨み合いが長く続き戦況は膠着状態であった。話し合いではもう解決できる状況でもない。お互いの戦力と兵糧を比較するとニシキギの方に分が悪かった。


「叔父上は流されていた時から、もう戦をするつもりであったのだろうな」


 ニシキギの貴族のにわか兵士と違い、叔父の軍勢は精鋭で武具も玉鋼を鍛えに鍛えたものである。しかし降参するわけにはいかない。間違った思想が武力によって権力を持つことなど、たとえこの身が砕けようとも許すことは出来ない。疲弊しかけた兵力と最後の決戦へニシキギは向かう。もう大王は崩御し、あれだけ権力を振るっていた大臣たちは部下だけを差し出し、地方に逃げ込んでいる。


「あとは頼んだ。ヤマブキ。いざ!」


 騒めきと呻き声と鋭い金属音と鈍い肉を引き裂く音が交響曲となっていた。




「よく似た目元よ」


 ニシキギの涼し気で切れ長の目を思い出す。産れたばかりであるのにタチバナは美しく優美で父親のニシキギに瓜二つだ。
 まだどこを見ているのかわからないタチバナと庭に植えた色づき始めた錦木を見つめる。もう少し冷え込めば燃えるような紅葉を見せるだろう。
 ふっとミズキの頬を優しく風が撫でる。まるでニシキギの愛撫のように。その瞬間、彼が逝ったのだと言うことがわかった。




 空を仰ぎ見るニシキギの口の中は血潮で辛く、目はもう霞んでいるが苦しくはない。
 丸い小さな雲が二つ、風に吹かれて重なり合ったのを見る。彼は自分も風になってミズキに会いに行こうかと、ふっと笑んだ瞬間に彼女の柔らかく瑞々しい頬に触れた気がした。




 碑もなく墓もなく生きた証もなく、ただただ踏みしめた大地を優しく風は吹き撫でる。何事もなかったように。そしてまた水は沸き炎が揺らめき森羅万象の中に溶けてゆく。






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