風の歌

萩原 歓

父と母・2

 寝台で横たわり、和歌集を眺めているアオキに、乳母がそそっと近づき「アオキ様、湯殿へ参りましょう」と声を掛けてくる。
 そっと本を閉じ、アオキは身体を起こし、乳母について入口まで行くと、少女が土間に立っている。


「そなたが供だってくれるのか」
「はい。おらはユズルハと申します」
「ふむふむ。アオキ様を頼みますよ」
「はい」


 溌剌とした少女はにっこりと笑んで、アオキに「参りましょう」と温泉の方角へ指を差した。


「あ、ああ」
「いってらっしゃいまし」


 乳母はアオキを見送った後、屋敷への手紙を書くために奥に下がった。


 ユズルハはおかっぱ頭に硬そうな麻の着物を着て、裸足でどんどん歩き出す。


「あ、待って」


 慌てて追いかけるアオキにユズルハは戻り、「ああ、ごめんなさい」と頭を下げる。


「いや、こっちこそ、遅くて……」


 ユズルハは笑顔を見せアオキの手をとり「急がなくてもいいよね」とのんびり歩き始める。村の中を突っ切る様に歩く二人を村人はチラッと一瞥をくれるが、なんでもない光景のようにすぐに自分の作業に戻る。
 女たちは長い雑草を細く裂き、丁寧に同じ太さにし、その隣で別の女がそれらを繋いでいる。傍らにはかごに入った赤子たちがすやすやと眠っているようだ。
 男たちは木々を倒し、薪などの燃料を作る若いものと、道具を作る年配のものに分かれている。
 この小さな村は他の村々と交流がないため、村の中ですべてが賄われている。アオキは自分の口に入るもの、身に着けるものがどこからどうやって来るのか考えたことがなく、知り得なかった。与えられる書物にはこのような生活の営みなど書かれていなかった。
 温泉にたどり着くまでのほんの些細な時間はアオキにとって膨大な知識を得る時間であった。


「ここよ。そこで脱いで」


 ユズルハは大きな岩を指さし、彼女自身も手早く簡素な衣服を脱いだ。日焼けしたすんなりとした背中はもやもやとした湯煙の中に消えていく。アオキもおもむろに着物を脱ぎ、彼女の衣服の隣に置いて後をついて行った。
 足の裏の岩がだんだんと熱を帯び、アオキは草履を履いておけばよかったと思い、歩みを遅めているとユズルハの声が湯気の中から発せられた。


「そこの足の隣に桶があるから、それで身体をすすいでからゆっくり浸かるといいでしょう」
「わ、わかった」


 小さな木の桶が転がっておりそれでそっと爪先に湯をかけてみると、思ったよりも熱くはなくじんわりと浸み込むような優しさを感じた。
 だんだんと足から腰に掛け、やがて肩から湯をかけ流した後、アオキはゆっくりと足先を湯へと伸ばした。


「ふう……」
「どう? 気持ちいいでしょう」
「う、うん」


 ちゃぷんと音をさせ、ユズルハはけ伸びをする。広々とした岩風呂は子供にとって、魚の池のようでじっとする場所ではなかった。
 円形の広い風呂を一周して彼女はまた静かに座っているアオキの元へ戻る。


「日が暮れる前に仕事を終えて皆入りに来るから、夜入りたかったら月の明るい時が良いでしょう」
「皆、毎日湯に入るのか?」
「ええ。そのおかげかこの村のものは皆、元気ですよ」


 弱く細い身体がユズルハのようにのびのびとした青竹のような健やかさが得られるのであろうかとアオキは彼女の魚のように泳ぐ様を見つめる。


「他に同じくらいの子供はいないのか?」
「んー。おらと近いものはちょうどおりませぬ。若い大人か赤子ばかりです」
「わたしも、同じだ。周りには大人たちしかおらず、弟が生まれたばかりだ」
「アオキ様がいらして、とても嬉しい」


 ざぶんともぐって、ぷはあと顔をあげたユズルハは目を輝かせ、頬を紅潮させている。


「そうか。わたしも、ユズルハがいるとここの湯治が楽しく思えそうだ」


 初めてアオキは自分が笑んでいることが分かった。身体の緊張がほぐれはじめ、手足をうーんと伸ばしたところで「今日はこの辺であがりましょう」と声がかかった。やっと楽しくなってきたのにと気分は残念であったが、彼は明日もあると素直にユズルハの言う通りに小屋へ戻ることにした。


 こうして半月も過ごすとアオキは健康な男児そのもので、少し日に焼け走る足も速くなった。熱も出すことがなく、食も旺盛で乳母は目を細めて喜び、屋敷へと文をしたためた。
 ひと月経つとアオキは屋敷へと帰ることになる。ユズルハは涙をためて彼を見送った。


「また来る」


 アオキは彼女に筆を残し、去った。

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