恋する天然酵母

萩原 歓

11 ホテル

 午後はますます雨が強くなってきた。温暖な地方とはいえ一番寒い二月だ。雪になるかもしれない。約束の一時までもう二十分だ。


弘樹は時間には正確な方で、遅れることも早まることも五分くらいだった。


 フミはもう一度姿見で全身をチェックした。美里の店『アダージョ』で購入した緑のニットワンピースはふんわり身体にフィットして着心地がいい。


痩せてはいないが、ほっそりした薄い身体を多少柔らかいラインにしてくれる。女らしいとは言えないスタイルをフミはあまり快くは思っていなかった。女友達に『太らなくていいよね』と言われたことがあるが、大きくならない胸や腰にはコンプレックスがあった。


ニットのおかげで、少しばかり厚みの出た胸に手を置いて弘樹の到着を待った。


外からパァンファンとホーン音が聞こえた。フミはクロワッサンが入った紙袋と、弘樹がクリスマスにプレゼントしてくれた白い滑らかなレザーのショルダーバッグを持って外に出た。素早く車に乗り込んだ。


「こんにちは」


「やあ」


「今日の雨、すごいですね」


「うん、雪にならなきゃいいけどね」


 ゆるゆる車を発進させ弘樹は尋ねる。


「どこか行きたいとこある? 雪になると危ないから遠出は無理かな」


 二人がこうして昼間に出かけるのは、いつも雨の日なので映画館や水族館、ギャラリーやカフェなど屋内が多かった。フミは胸に手を当て軽く咳払いをして喉の調子を整えた。


「あの……」


「ん」


「……ホテルに連れて行ってください」


「え……」


 この二ヶ月間、弘樹は帰り際に優しく口づけをするだけだった。フミもそれで満足してはいたが、女友達に『まだなの?』と言われ『前に見たいになるわよ』とも忠告された。


元カレの健児は確かに付き合ってすぐ身体を求めてきたし、休みが合わなくてゆっくり過ごせなくても彼のアパートで求められ、応じた。慌ただしさが否めないそれでフミはもっと話がしたかった。


いつの間にか身体を求められることが減り、話すことも減っていった。そして健児の変化に気づかないまま恋は終わった。


 フミは弘樹を失いたくないがために無意識に身体で繋ぎ止めるような選択をしていた。


「もうちょっと後でもいいかなと思ってたんだ。ごめんね。女の子から誘わせて」


「いえ」


 不安そうなフミに心配になった弘樹は「本当に行きたいの?」 と、念を押して聞いてくる。


「はい。行きたいんです」


 本当に?と聞かれるとフミ自身わからない。ただ、そうしないといけないような気がしていただけだった。


 それから二人は会えば身体を重ねるようになっていた。時間があればホテルで。なければ弘樹の車で。無機質な車内が二人の息と熱と匂いでいきなり有機的な密室になる。


「車、大きいの買っておいて正解だったな」


 弘樹の求めにはすべて応じていた。しかし以前のようにしょうがないという気持ではない。寧ろ抱いてほしいのは自分のほうじゃないかと思うほどだった。新しい歓びに夢中になっている。いつの間にか身体つきが丸みを帯びていることに気づく。たいしたトラブルを抱えていない肌だがしっとりときめが細かくなっている気がしていた。


 職場でパンの製造のために小麦粉をステンレスの台の上にこぼさないように広げる。白い粉を手で広げながらフミは昨晩の情事を思い出した。


――弘樹の手がフミのサラサラした肌を撫でる。


 小麦粉を丸いドーナツ状に広げその中に卵と牛乳を加えて小麦粉と混ぜ合わせる。


――汗ばんできた身体をしっかりとつかみ揉んだり撫でたり押したり滑らかになるまで丁寧に全体を触る。


 常温のバターを見るときりっとした角は取れ、すくうととろとろと崩れて生地の中に落ち混じりあっていく。


――身体と身体が重なると溶けてしまいそうに熱くなる。


 小さな塊を作り、めん棒で軽く伸ばし、ひし形になった板状の生地をくるっと丸めバターロールの形にした。


――息を荒くしたまま弘樹はフミの身体に沈み込む。フミは彼の重みを感じて愛しさを募らせる。


 イースト菌で膨らんだ生地を眺める。まるっこくて可愛い。


 焼くと幸せな香りが漂ってくる。毎日同じ作業をしてもフミには全然飽きがこなかった。熱い鉄板にのせられた黄金色のバターロール見つめると、自分も弘樹の手によって幸福なパンそのものになったような気がして恍惚とした。

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