恋する天然酵母

萩原 歓

9 喫茶店『パトス』

「いい店だね」


「はい。カフェじゃなくて喫茶店って感じが好きなんです。軽食も美味しいですけど」


「さすがに今はいいかな」


「ですよね」


 二人でホットコーヒーを頼んで飲んだ。今どきのカフェではなかなかお目にかかれない、アールヌーボー調のシャンデリアが吊るされており、椅子は緑のベロア生地で使い込まれた木の脚は猫足で艶やかだった。


「こんなとこ知らなかったな。姉貴にも教えてやるか」


「ああ、美里さんも好きになってくれるかな。ちょっと雰囲気は違うかもしれないけど」


「たぶん。好きだと思うよ」


 弘樹は滑らかな木のテーブルを優しく撫でた。


「木っていいよね」


「やっぱり弘樹さんは木が好きなんですね。」


「うん。でも仕事は人付き合いが面倒だからってのが林業やってる大きな理由だけどね」


 笑いながら弘樹はコーヒーカップを傾けた。


「そうなんですか」


「フミちゃんはパンが好きだから?」


「ええ。そうですね。食いしん坊みたいですよね」


 自分で言っておいて恥ずかしくなってしまう。


「いいことだよ」


 まっすぐに見つめられて、フミはさっき自覚した恋心に歯止めが利かなくなってしまいそうになり、慌ててコーヒーを飲み干した。自覚が始まると態度に出るまでのレスポンスが早い。心臓の鼓動まで早くなってきた。時間は七時を過ぎたところで弘樹は少し様子のおかしいフミを見て「眠くなってきた?」と聞く。曖昧に頷いて店を出ることにした。


駐車場に着くともう真っ暗になっていて普段来ることのない場所でフミはためらいがちにゆっくり歩いた。


「そこ、危ないよ」


 弘樹がフミの手首をつかんで動きを止めた。あと一歩のところに直径二十センチばかりのくぼみがあった。


「あ。ありがとうございます」


 つかまれた手首が離された瞬間に熱くなってくる。つかまれた手首を自分でもう一度握ってみた。


「ごめん。痛かった?」


「あ、いえ」


 明らかに挙動不審のフミは、落ち着きなく目を泳がせてくぼみを見つめた。俯いているフミの肩に弘樹がそっと手をのせてくる。見上げるとスッと弘樹の顔が近づき口づけをされた。滑らかで温かい唇が重なる。ゆるゆると唇より少し柔らかい舌先がフミの前歯を越えて舌下をくすぐる。


気づくと身体も密着していてフミは弘樹の腰に手を回していた。夢中でキスが終わったことにも気づかず、フミは突っ立ってしまっていた。


「送るよ」


「あ、はい」


 足が軽い。身体が浮いているような感覚だ。今まで知っているキスと違う。大人のキス。


「着いたよ」


「ありがとうございます」


「じゃ、またね」


 『またね』の言葉を聞いてフミは思い切って告げた。


「あの、私とお付き合いしてください」


 弘樹は数秒静かにフミを見つめて「いいよ」と答えた。フミは安堵と興奮がいっぺんに駆け巡りはじけ飛びそうな気分になった。


「ありがとうございました」


 再度大きな声で言い、家に向かって全力疾走した。後ろから弘樹の声が聞こえたような気がしたが、なぜかゴールを目指すように家のドアを思い描きながら駆け抜けた。



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