恋する天然酵母

萩原 歓

1 失恋とワンピース

 うなだれて雨音が収まった中をフミはとぼとぼと歩く。大通りの裏道は人気も少なくアスファルトもガタついてて物悲しい雰囲気だ。三十分前に男に振られたフミには最高のロケーションだった。
後ろから車の音がしたのでもう少し端によろうと左足を一歩踏み出すと、運の悪いことにへこんだ排水溝のブロックにヒールのつま先を突き入れてしまった。
あっと小さな声を上げてそのまま前のめりに突っ伏してしまう。転んだ瞬間に車が隣りを走り、水たまりの泥水を少し跳ね上げた。フミは倒れ込んだまま何秒かじっとした。すると五メートルほど先でシルバーのSUV車は停まり運転者が下りてきた。


「大丈夫?」


 アイボリーの作業服を着た30代半ばの男がフミに手を差し伸べて起こすのを手伝った。


「は、はい。大丈夫です」


 フミは男が自分のせいで転んだと思ったのではないかと心配して続けた。


「あの、穴に突っかかっただけで平気ですから、すみません。お構いなく……」


 男はフミのワンピースの裾あたりに目をやって言う。


「転ぶなと思ってみたんだ。ゆっくり走ったんだが服を汚してしまったね」


 眼鏡のクールな視線のほうにフミも目をやると白いサテンのワンピースに二,三センチから五、六センチの様々な茶色い楕円が染みを作っていた。


「ああ」


 ついてなさと諦めでフミはため息をついた。
「弁償するよ」との落ち着いたトーンの声にはっとして「いいんです。いいんです。このワンピ今日捨てるとこだったんです」と慌てて言った。


「いや、今すぐならクリーニングすれば落ちるから」
「いえ!……ほんとに……捨てたいんです、これ」


 気が付くと涙がこぼれてきてフミは目の前が滲んできてしまった。知らない男の人の前でやばいと思い下を向いたまま「じゃ、失礼します」と立ち去ろうとした。
その瞬間、手首をつかまれ、「乗って」と男に引っ張られ車に乗せられてしまった。そして男は停めていた車の前の自販機で温かいミルクココアを買いフミに手渡した。
助手席に乗せられて手の中のココアをぼんやり見ていると、さらに男は白いタオルをフミの頭に乗せ、身体が冷えてきているよと言って車を走らせた。手のひらからじんわりと全身に熱が感じられてくるとフミは落ち着きを取り戻し、それと同時に初めてあった男の車に乗っている自分にはっとした。


「あ、あの。もう、ほんと大丈夫ですから」
「落ち着いた? もう着くからそれでも飲んでて」
「え、は、はあ」


 どこに着くというのだろう。とりあえず冷めないうちにココアを飲むとさらにほっと安らいだ。そして今の自分の状況に危機感を感じないでいるのはなぜだろうと思って、ぼんやり窓の外の景色を見た。
町中から大きく外れず、少し住宅街の中を走って小さな雑貨店の前に停まる。『アダージョ』と木目の控えめな看板に書いてある。ほかの立方体の住宅とは趣が違いログハウスで三角屋根のかわいらしい建物だ。
「着いたよ」と男に促されフミは車を降りた。

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