浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

36 その身を律し、先見の明を以つ

 次期皇帝に孫権の末子である孫亮がたてられた。幼い孫亮の補佐をし、教え導く師である太子太傅に諸葛恪が任命される。これにより呉の実権は諸葛恪が握ったも同然であった。孫権の死後すぐに魏が南下し攻めてきたがこれを諸葛恪は撃破する。ますます自分の時代が来たと有頂天になり魏を追撃したが大敗を喫する。この失敗と専横により、孫家の一族である孫峻に抹殺されることになる。また諸葛恪のみならず、彼の弟、諸葛融の一族まで皆殺しとなった。


 柴桑で赴任中であった陸抗はこの政変に巻き込まれることはなかったが、屋敷に戻ると妻の姿が消えていた。


「これはどうしたことであろうか?」


 幼い息子たちは、祖母である孫尚香が面倒を見、あやしていた。


「母上。妻をごぞんじありませんか?」
「出て行った。諸葛恪の姪である自分がおれば迷惑がかかるかも知れぬと」
「え? なんですと! 確かに一族であるとは言えども、さすがに姪である妻にまで、私にまで及ぶことはありますまい」
「まあ、そうだとは思う。そなたは陸家であり諸葛家ではないのでな」
「連れ戻しにまいります」
「よせ。その弁は表面的なもので、本当は違うのだ」
「どういうことです?」
尚香は、息子の嫁とのやり取りをどこまで話そうか悩んだ。


――尚香は孫権に孫晧を補佐すべく、この陸抗の屋敷を住いにすることはなかったが、たまに自分の孫を見に来ていた。陸抗がしばらく屋敷に戻らないはずであるのに、嫁の青白い顔と嘔吐に気づき、問いただす。


「どうしたのだ?」
「あ、あのお義母さま、どうも悪い流行りの病かもしれません……」


 経験のある尚香にはそれが病ではなく孕んでいることが原因であるとわかっていた。


「同じ経験をしたことがある。抗が腹におるときじゃ。抗はしばらく見ないのに、どうしてそのようなことになるのか」
「ひぃっ!」


 ぎろりと睨みつけられ嫁はひれ伏して泣くばかりである。彼女の弁解を聞いていると、世話好きでおしゃべりな下人と懇意になってしまったようだ。もともと仲睦まじい夫婦ではなかったのは尚香にも見て取れた。


「今いる息子たちは誰の子じゃ」


 陸晏も陸景も赤子ながら顔立ちはみな陸家のものであるが、念のため尋ねる。


「勿論、主人です! 本当です! 決して嘘はつきません! 今度のことも、隠し立てするつもりはあませんでした……」
「ふむ。では抗とは離縁してそなたはその男のところに行くがよい。ただし、二度と戻らせぬし、息子たちにも会せぬぞ?」
「ええ、ええ。承知の上です」


 悪い女人ではなかったが、大人しい陸抗の妻にしては忍耐力が足りないし、教養は高いが浅はかであった。いつかはこういう日が来るのであったらろうと、責めることもなくほどほどの財産を渡してやり、家を出させた。幸い陸晏も陸景も4歳と3歳であるが母を恋しがる様子はなく、尚香にすぐになついた。


 腹にすでに他の男の子がいるとは告げず、しかし情人ができたことは告げる。そうでなければ陸抗はすぐにでも連れ戻しに行くであろう。


「そうですか……。男が……」
「……」


 母親として尚香は頭を抱えるが、愛情のない夫婦関係にも誠実であろうとする陸抗に、夫の陸遜の面影を感じ、妾を作ればよいなどと思うはずもなかった。


「致し方無い。縁が薄かったのであろう」
「そう、ですね」


 残念ではあるが、やはり愛着はなかったのであろう、陸抗はこの状況を受け止めている。


「それよりも、これからはよく人物を見極めよ。兄上がなくなってすでに一年経つが朝廷はまだまだ安定はせぬ」
「はい」


 素直な陸抗はすでに己のやるべきことに目を向ける。そんな息子の姿を自慢にも思うが、寂しくも感じていた。


 諸葛恪を抹殺し、幼い孫亮を皇帝にたて、孫峻が実権を握る。しかしそれも長くは続かなかった。3年ほどで病死する。死の床のうわ言では「諸葛恪がワシを殴りつけてくる」と何度も繰り返し絶命し果てた。


 続いてその従弟である孫リンが実権を握る。それを覆そうと孫亮は政変を起こそうとするが失敗し、逆に廃されてしまう。孫リンは孫亮の兄である孫権の6男、孫休を皇帝にたて傀儡とする。これもまた2年ほどであっけなく転覆する。お飾りであったはずの孫休に殺害されるのであった。
この孫峻、孫リンは横暴で強欲で傲慢で人から好かれる性質ではなく、その行いは全く人徳とはかけ離れたところにあった。そのため、二人の墓は暴かれ、死後も安眠につくことが出来ず、更には孫休によって一族から外されることになった。


 孫権が死んで数年、孫尚香はこの一連の流れを見ながら、孫と孫晧を育て上げる。才覚をひけらかすこと、目先の欲にとらわれた野心はすぐに身を亡ぼすであろうことを話すと幼い者たちにも理解ができるようで、陸晏と陸景は素直に頷く。しかし16歳になる孫晧は一筋縄ではいかない。


「おばあ様、それはまさに才覚のない者たちであるからでしょう。才覚があればひけらかす必要もありませんし、野心をもたずとも、おのが思う通りになるものでしょう」
「まあ、そうとも言えるな」
「さすが元宗様。おばあさまも納得されておる」
「ふふっ」


 陸晏と陸景に尊敬のまなざしを向けられ孫晧は機嫌よく、二人の頭を撫でた。尚香はこの三人をまとめて育てているが、皇帝の候補であろう孫晧と陸晏と陸景の立場をきちんと上下に分けていた。兄、孫権の二宮事件の二の舞を起こさんがためである。そのおかげか孫晧は二人に対し、主君であると言う態度を見せつけはするものの、安心して兄のように接し、また二人も臣下であるという低い謙遜した立場に自然にいる。また建初寺の康僧会にも良く会い、様々な知恵を身に着けていく。尚香はこのまま孫晧と陸晏、陸景の主君と臣下の縮図が、青年になってもそのままであればどんなに良いであろうかと、叶いそうもない思いを願う。
 その頃入れ違いになった陸抗が建初寺に訪れる。康僧会に深々と頭を下げ尚香の居所を聞くと、ちょうど帰ったところだと言われた。


「そうですか。久しぶりに駐屯地から戻りましたので早く会いたいと思ったのですが」
「幼節殿は孝行息子ですなあ。尚香様も恵まれたお方で」
「あ、いえ、そんな」


照れ臭く俯き、ふっと斜め上に視線を上げると視界に一人の女人が目に入った。粗末な身なりで、痩せているが寺院内を必死に掃き清めている。


「あ、あの方は?」
「ん? ああ、李さんかな。ご主人を亡くされ天涯孤独になってしまってな。ここで働いておりますのじゃ」
「天涯孤独……」
「ええ。他所でもっといい働き口があるのじゃが、仏の教えに熱心でな」


 今まで女人に関心を寄せたことがなかった陸抗はなぜだか彼女が気になってしょうがなく、動きをずっと目で追ってしまっていた。すると視線を感じたのか李氏は顔を上げ、陸抗の方を向く。時間が止まったように二人は見つめ合う。


「……」


 その二人を邪魔せぬよう、そっと康僧会は静かにその場を立ち去った。


 物思いにふける陸抗に、尚香は康僧会からきいた女人の事を尋ねる。


「娶ればどうだ」
「えっ? は、母上? いったい」


 突然、考えを見透かされたように言われ陸抗は今までにない慌てぶりを発揮し、尚香の笑いを誘う。


「ふふふっ。未亡人ならよいではないか。おまけにその女人ならわたしもよく存じておる。字はなく、読み書きができぬようだが、人柄は良い」
「そのようなことなど、私は気にしません」
「ふふっ。そうか。そなたも忙しい身、話と日取りを決めておいてやろう」
「ええ? い、いきなりっ」
「よいであろう。母親としてあまり何もしてやれなかったのでな」
「は、はあ」


 強引かとも思えたが、陸国も抵抗を見せず、嬉しそうにしている。彼に任せていても進むことはないかもしれない。
聞いた話では時間があれば陸抗は建初寺に赴き、李氏に会いに行っているようで、彼女の方も恥じらいながらも嬉しそうなそぶりを見せると言うことだ。
ちょうど今、三国共に大きな動きはない。孫休が即位して朝廷も落ち着きを見せ始めた。今のうちに陸抗の縁談をまとめてやろうと尚香はそそくさと康僧会の元を尋ねた。


 康僧会の教えを熱心に聞き、李氏は頷きながら一言一言ぶつぶつと暗唱しているところである。そんな彼女に好感を持ち、やはり息子の嫁にふさわしいと思いながら邪魔をせず、法話が終わるのを待つ。康僧会が手を合わせ頭を下げると、話を聞きに来ていた者たちは明るい顔でざわめきながら立ち去り、李氏も満足そうな表情をしてまた、掃除にとりかかろうとしていた。


「これ、お待ちなさい」
「あ、これは、尚香様」
「少し話がある。僧会殿、よいか?」


 康僧会は顔を綻ばせ「どうぞどうぞ」と部屋を去った。
李氏に緊張が走り、空気を張り詰めさせる。尚香の眼差しは誰であっても威圧し、動けなくする。


「そう、怯えなくともよい。息子のことで話がある」


 そう告げると李氏はひれ伏し「お許しください。わたくしのようなものが幼節様に親しくしていただき、尚香様にご不快な思いを」と謝り続けるばかりである。ここまで低い態度をとるものは初めてであると面白くもあったが尚香はこれではらちが明かぬと率直に告げることにする。


「いやいや。そなたを叱りに来たのではない。逆だ。息子に嫁いでくれまいか。勿論、息子はそなたを望んでおる」
「え……?」


 全く合点がいかぬようなので尚香は先を続ける。


「そなたの身分も何も気にはせぬ。嫌か? 何か問題があるのか? 息子はそなたを好いておるようだが」
「あ、あの、わたくしが、幼節様のもとに嫁ぐと?」
「そうだ」
「わ、わたくしは、身分も卑しく、とても幼節様にはふさわしくありません」
「だから身分など気にしないと言っておるだろう」


 李氏は委縮してしまい結局、話が進まぬところへ康僧会がやってき、助け舟を出す。


「まあまあ、お二人とも。尚香様。そのように問い詰めるような様子では」
「んん? そういうつもりではないのだが」


 年老いてますます威圧的になる尚香自身、自分がどのような印象を与えているかまるで分っていなかった。身を小さくし震える李氏に康僧会は優しく慈愛を込めた言葉を掛ける。


「李さん、これは仏様のご縁です。幼節殿の元に参りなさい。あなたに字を贈りましょう。『律』と」
「うむ、よいな。律殿、改めて、息子の元へ嫁いでほしい。何も心配しなくてもよい。どうか息子を支えてやって欲しい」


 頭を垂れる尚香に慌てて、李氏は「そのような、わたくしのために」とまたひれ伏す。


「では来てくれるかな?」


 ようやく合点がいき、まるで夢を見ている心持で李氏は「はい。生涯お仕えいたします」と返事をする。
尚香と康僧会は喜び、まるで旧知の友と久しぶりに出会ったかのように肩を叩き合った。


「まさしく、仏様のご縁であるな」
「ええ、ええ。ご身分ではなく、心からの結びつきに存じます」


 三国の戦乱の中、ここに小さな暖かい灯を見出し、尚香は亡き陸遜に包まれた日々を思い出していた。

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