浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

20 大いなる犠牲

 劉備の足を洗う湯を魏延文長が持ってやってきた。


「我が君、どうぞ履物をお脱ぎになってください」
「おお、文長、そなたが私の足を洗ってくれるというのか」
「ええ」


 魏延は劉備が荊州を得るときに荊州4郡の一つ長沙太守で彼の主君、韓玄を斬り玄徳を入城させた。主君を裏切る行為に諸葛亮は懸念するが、全ては劉備のためにという熱烈な彼女への支持をはねつけることが出来ず、また武力の高さもあり重用している。
 劉備が履物を脱ぎかけたとき、黄忠がやってきた。


「失礼します、我が君。これから調練のため魏将軍を連れてまいります」
「ああ、そうなのか。忙しいときに。文長下がってよいぞ」
「うっ、そんな。――わかりました。これにて」
「かわりに軍師殿を寄こしますので」


 残念そうな魏延を黄忠は引っ立てるように軍の訓練へ促し出て行く。劉備は歳若く息子ほどの年の魏延が、自分の事を女人として欲していることに気が付かなかった。若い頃であればまだそういう事に気が付いたかもしれないが、もうそのような男女の情交に自分は関わることがないと思っていたからだ。しかし魏延は元々年増好みで、劉備が孫夫人と睦合っていたことも知っていた。孫夫人が江東へ帰り、今が好機とばかりに劉備に触れんと様子をうかがっている。そんな魏延の思いに黄忠は気づいておりこのように彼が劉備に近づきすぎないように注意しているのだった。


「文長よ。主君に対して懸想してはいないだろうな」
「まさか、そ、そこまでは。俺は玄徳様を信奉しているだけだ」
「それならよいが」
「爺様はもう枯れてしまっているから分からないかもしれないが、この想いを押さえるのにどれだけ苦労しているか……」
「まあ、確かに。わしも若ければ……」


――首を失う覚悟で主君の韓玄を斬ったと告げ、劉備の前に出た魏延は思わぬ言葉を掛けられる。


「私のためにそのような罪をかぶってしまうとは……」


 心から自分のために悲しみを湛える瞳に魏延は身も心も奪われてしまう。それからは汚名をすすぎ、とにかく劉備に注目されようと功を急く。多少強引であれども、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮よりも劉備に近づくには功を得るしかなかった。


 黄忠は魏延と違い、主君を裏切って劉備に降ることを最初かたくなに拒んでいた。劉備が会いたいと言いやってきたので、魏延が主君を裏切ってまで仕えようとする者はどんなものなのかと、確認だけしようと屋敷に招き入れる。静かな清らかさを持ち、すぐに降れと説得することもなく淹れた茶を大事に美味そうに飲んで一息をつく。
「ここはあなたの人柄がそのまま出ているようなお屋敷ですね。素朴で温かく華美なものもなく」
「……」
「茶を馳走になりました。私はあなたのような忠義の方にお会いできてホッとしています」
その言葉を聞き、黄忠は膝を折り、劉備に仕えることにした。




 魏延をひきつけてやまない清楚で慈悲深い劉備の魅力は黄忠にも痛いほどよくわかっていた。彼も惹かれてやまないからである。しかし黄忠はもう男としての本能よりも、理性と孫のような魏延を大らかに包み込む心が勝っていた。


 入れ替わりにホウ統士元がやってきた。今の世では『伏龍』、『鳳雛』どちらかの人材を得れば天下を取ったも同然と言われる。彼はその『鳳雛』である。『伏龍』の諸葛亮と並び合う名軍師なのだ。容貌が小太りの小男で顔にあばたもあるため、彼が優れた人材だと思われにくく、なかなか良い主君に巡り合えなかった。最初、劉備も人材を求めるための試験に唯一合格したホウ統を前にした時、彼の埃にまみれた衣服と、顔をあげても袖で隠し目を見せぬ様子に信用が置けず高い位を与えることが出来なかった。試験の際に偽名を使っていたのでなおさらであったが、諸葛亮によってやっと彼が『鳳雛』であるとわかり、重用されることになった。


「我が君、ワシが足をお洗いします」
「おお、軍師どの。忙しいのに」
「いえいえ。喜んでいただけるのであればなんでもいたします」
「ありがとう。士元に洗ってもらうと私はとても良い心地になってしまうから、ついつい甘えてしまうな」
「え、いえ、そ、そんな」


 ホウ統はあばたの顔を赤らめ、ちらりと劉備の白い足を見る。彼女が外見で人を判断しないことは今ではよくわかっていた。彼のあばたの顔を嫌がる素振りも、避ける素振りもない。初めて会ったときに衣服が汚れすぎていたことと、目を合わせなかったことが不信に繋がっていたようだ。今では身なりを清潔に整え、きちんと洗髪もしまっすぐ顔をあげて向き合うことにしている。


「どうぞ、この温かい布を目の上に乗せて身体を倒してくだされ」
「ん、あい、わかった」


ホウ統は玄徳の足を湯で洗いながら、揉んで擦り、気持ちよさそうな声を聴き悦に入る。劉備の白い足を初めて見、洗ったときに女人だということに気づく。しかし息子の阿斗にも父と呼ばせているので彼女が女人であることは伏せられているのであろう。それを知ってから、魏延がやけにぎらついた眼で劉備を見ていることや、趙雲の愛しむような目つきに納得した。ホウ統も劉備を女人として欲さないわけではないが、そこは彼の容貌への自信のなさと慎ましい性格によりこの足を洗うことで十分であった。


「ああ、身体も温まってきた」
「ええ、ではこの辺で終わりましょう」


 足を拭き履物をはかせると劉備は身体を起こし、頬を紅潮させ、潤んだ瞳を見せる。それだけでホウ統は彼女と結ばれたような気持ちになるのだ。


「まったく士元は軍師としても一流であるのにこのような特技があるとは。天はあなたに二物も与えているのですね」
「そ、そんな、我が君。では、これで」


 ほんのり温かい湯の入った桶を抱き、ホウ統は一礼をし、劉備の部屋を出た。一時の喜ばしい時間は湯が冷めるころにはもう消えている。ホウ統は揺らめく波紋を眺めながらもう次に行うべくことを考えている。


「蜀をとる。なんとしてでも」


 水面は彼の細く鋭い目を映しては消し、映しては消した。




 その後、ホウ統士元の自らの死を顧みない策により、劉備は蜀入りを果たす。
彼は劉備がその人徳を穢さぬよう、全ての穢れを己が引き受ける。落鳳坡にてその命が尽きるまで彼は劉備の優しい眼差しと柔らかい白い足に口づけすることを目に浮かべていた。





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