浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

12 王佐の才

 連合軍により董卓軍への攻撃はその後捗らず、盟主、袁紹と共に宴会の日々を送る様子を歯がゆい思いで見ている劉備はここは己の使命を全うできる場所ではないと、関羽、張飛と共に出て行くことに決めた。
ちょうどそこへ董卓の養子となった「人中の呂布、馬中に赤兎」と言われる当代きっての猛将、呂布と赤兎馬が現れる。呂布の圧倒的な強さに連合軍は総崩れするところを、張飛を筆頭に、関羽、劉備三人でなんとか呂布を撃退することが出来る。連合軍もそれに活路を見出し董卓軍に対して有利な立場に立った。しかし董卓は遷都という名の逃亡を幼い天子を連れて洛陽から長安に向かう。
孫堅の手に渡るだろう玉璽だけを残し空っぽとなった洛陽にて袁紹ら、諸侯は勝利の祝宴を催す。その宴会の最中に董卓を追撃し、大敗を喫した曹操が激しい怒りをぶつけ連合軍を後にする。
結局連合軍は解体し、董卓は司徒、王允の「美女連環の計」にて養子の呂布に打たれるという最期を迎え、王允もまた長安を手中に収めたかのように見えたが投降を許さなかった董卓派の武将に包囲され自害する。
呂布は逃げ落ち、その間、曹操もまたじわじわと勢力拡大に努めているのであった。


 劉備はまた公孫サンに誘われて客人として陣営に留まることにした。若いころから彼は劉備に何かしら心惹かれるものがあり親切であった。劉備も学友であったころから彼の親切心をありがたく思っていたが、ふとした瞬間に見せる雄の欲望めいたものに気づき、自分が女であることを打ち明けることは出来なかった。今も肩に置かれている手が撫でるようなそぶりを見せ、関羽と張飛を伴わずに陣中を歩き回らなくて良かったと思っているところだ。


「なあ玄徳、いつまでもここに居てよいのだぞ。お前なら大歓迎だ」
「伯珪。いつもありがとう。この恩は戦いにて返したい」
「うんうん、気にするな」


 彼は劉備の手を取り、ぽんぽんと軽く叩き甲を撫でる。その様子にじっと強い視線を向けるものがいる。劉備は自分に熱い視線が送られているのを感じふっと公孫サンと反対側の左に視線をやる。若々しくも頼もしい風情の若者が身動きせずに、瞬きもせずに自分を見入っていることに気づく。


 彼は関羽の青龍偃月刀や張飛の蛇矛とは違い、左右対称で美しいまっすぐな槍を手にしている。槍の根元についた返り血除けの赤い槍纓のみが風に揺れている。髭を生やしておらずこざっぱりとした容貌はむさくるしい男だらけの陣営で一陣の風のような爽やかさだ。劉備は初めて出会う透明感のある兵士に抗えない魅力を感じる。こちらの視線を受けても反らしたりせずまっすぐ見つめ合う形となった。


 劉備の視線の先に気づき公孫サンが「ああ」と声をあげ、笑顔でその彼を手招きする。
時間がゆっくりと流れるように彼はまっすぐ玄徳を見つめたままそばにやってくる。


「玄徳よ。彼は趙雲子龍というもので、わしを危機から救ってくれた剛の者だ」
「劉玄徳様、お初にお目にかかります。どうかお見知りおきを」
「こちらこそ」


 なんとか挨拶を交わすので劉備と趙雲は精一杯であった。しばらく公孫サンと陣営を見回り、劉備は関羽と張飛の元へ戻った。
ぼんやり虚ろな劉備に張飛が心配そうに声を掛ける。


「兄者、どうしたのだ。疲れているのか?」
「あ、ああ、いや。なんでもない。確かに疲れているのかもしれない」
「ここのところ戦続きでしたからな。少し気が安らいだのでしょう」
「今夜はもう休みましょう」
「冷えます夜故二人の間に挟まれるがよかろう」


 寝食を共にする三人は一つの寝台で狭いながらも肩を寄せ合って眠った。温かさといたわりを感じながらも劉備は今日の趙雲の熱い瞳を思い出し、しばらく安眠が訪れなかった。


********************************
 しばらくは戦士たちの休息の日々が訪れたが、徐州牧の陶謙の部下が金品目当てで曹操の父親を殺害する事態によって状況は緊迫する。


「父上ぇえ! ああ! 何という事! ああっっ!!」


 曹操の嘆き悲しむ大きな叫び声に、許チョは目に涙を浮かべ彼女の悲しみを共有しようとしていた。そこへ軍師の荀彧が通りがかり苦笑しながら黙って通り過ぎた。
その晩、曹操の私室の呼ばれたのは荀彧であった。
軍師の身でありながら引きしまった逞しい細身の体の上で曹操は彼の胸を撫でながら尋ねる。


「私は大げさであったか?」
「いえ。皆、殿の嘆きに胸を打たれていたようです。特に許チョ殿は……」
「ふっ。まあ大半が同情しておればよい」


曹操が父親の死を理由に徐州を攻め落とし手に入れようとしていることは荀彧にはすぐにわかっていた。まるでこの時のためにわざと曹崇に豪華な装いをさせ陶謙のもとへ行かせたかのように。ちょうど黄巾党の残党を多く手に入れた後で戦には都合もよい。


「殿ほど、どんなことでも利用できる人はおりますまい」
「荀彧よ、それは褒めてるのか? それとも」
「勿論、感心しているのですよ」
「まあよい。お前がどう思っているのかは、交わればわかること」
「あの頃と殿は変わりませんなあ。いつまでも毅然として溶けぬ氷のようです」


 荀彧と折り重なり彼女はいつものように問答をする。初めて二人が出会った時からこの問答が行われている。




――黄巾党が各地でのさばっているとき、曹操は都、洛陽を離れ地方で適当な役人をしながらふらついている頃であった。見聞を広めるため荀彧も各地を放浪し、おのが仕える主君を探し求めているところでもあった。
裾の擦り切れた粗末な襤褸をまとった荀彧は初めて見る建造物、人種、小さな文様に到るまで顔を輝かせて事細かに眺めていた。彼は活気ある商いの様子を見た後、町の市井である酒場に赴く。ちょうどそこへ男装ではなく普通に女の装いをしていた曹操が通りがかり、見たことのない男だとあとをつけ、同じく酒場に入った。
曹操は小さな町であればほぼすべての住民を覚えてしまうので、このように少しでも新しい人物を見かけると軽く確認するのであった。


 騒めく酒場に入ると荀彧はもうすでに飲んでいる客と打ち解け楽しそうに話をしている。酔っ払いが何か言うたびに「素晴らしいですね。初めて知りました!」などと興味を示し、目を輝かせている。おかげで話しかけている酔っ払いは上機嫌で荀彧におごり、千鳥足で出て行った。


「ほう。面白い若者であるな」


 曹操はすっと荀彧のとなりに腰かける。


「この町は初めてか?」
「え? あ、は、はい」


 やけに高圧的な女人に荀彧は珍しく緊張し、酒気が吹き飛ぶ。漆黒の髪はどんな闇よりも深く、鋭い目には何の媚びも優しさもない。薄い唇からは刃物が飛び出しそうである。


「名は?」
「荀文若と申します」
「ふうん。王佐の才か。お前が」


 若かりし頃から荀彧の才覚は有名であり、知る人には知られていた。ただ彼は目の前の女性が曹操であることを知らなかった。


「今から世の中はどうなると思う?」
「え? よ、世の中ですか?」


 いきなり酒場には似合わない問いかけをされて荀彧はためらう。しかし答えねばどんな目にあわされるか分からないとなぜか思い必死に答える。


「黄巾党がおさまっても乱世に突入するでしょう」
「それでお前はどうする」
「乱世を生き抜く主に仕えたいと存じます」
「今はそれまでの休息か?」
「ま、まあ。できるだけそれまでにいろいろなものを知っておかねばなりません故」
「そうか、ではお前がもっと知らねばならぬことを教えよう。店を出るぞ」
「え? 私がもっと知らねばならぬこと? なんです?」


 銭を置き、来た時と同じようにすっと曹操は音もなく立ち上がり店を出、屋敷へ歩く。その後ろを荀彧は見失わないように追いかけるようについて行った。
屋敷の彼女の私室に入ると膨大な量の書簡で埋め尽くされており、荀彧の目を奪う。


「なんという……。拝見してもよいですか?」
「よい。こちらの半分は孫子をまとめたもの、こちらは私の詩文だ」
「あ、あなたが、これを」


 量もさることながら内容も素晴らしく荀彧は食い入るように読みふけった。得意な様子も見せず曹操はふわっとあくびをし読みふけっている荀彧の横に横たわり、ぐいっと袖を引いた。


「あ、わっ!」
「そんなものをいくら読んでも意味はない。そなたが知らねばならないのはこの私だ」
「えっ」


 戸惑う彼を上に乗せ、すでに開いた足を腰に絡ませる。


「こ、これは、いったい?」


 何が何だか分からないといったふうの荀彧は人生で初めて混乱を覚える。


「早く抱いてみろ。どんな時でも軍師というものは落ち着いておらねばならぬぞ」


 彼女の言葉にハッとする荀彧にはこの女人が一体誰であるのか見当もつかなかった。しかし氷のようなこの女人を知りたいという欲求が湧き上がりとても落ち着いたとは言えぬ様子で彼女を一晩中抱いた。その時に曹操はまた子を身ごもった。






「あの時に比べると、文若、そなたは随分と落ち着いたな」


 情事の後、甘えることも睦言を言うこともなく彼女はすっと音もなく部屋を去る。




――初めて結ばれた翌朝、彼女は肌を重ねた荀彧に何の執着もせず「また大きくなったら私の元へ来るがよい」と旅路を見送った。その後、荀彧は袁紹に使えるよう周りから勧められたが大業を成す器ではないと判断し、評判の高い曹操の元の赴いた。目通りを願い、髪をかんにまとめ上げ髭の生えたその人の前に頭をたれ、あげた瞬間に酒場で出会った女人だということが一目でわかった。


「やっと参ったか、我が子房」


 そういって曹操は荀彧をもてなし幼い子供たちにも会せた。


「この子たちにも指導を頼むぞ」


曹操は何も言わないが曹丕の目元が自分とそっくりだということに気づく。また幼いながらに力がみなぎっている曹彰はさきほど曹操の私室の前を固く守っている許チョに雰囲気が似ている。曹操は能力の高いもの、良い人材を得て更にはそれを育み、腐敗することのない政を敷き理想国家を作り上げようとしているのだ。荀彧には自分が王佐の才と呼ばれることを若い頃は誇りに思っていたが、曹操を前にするとやはり自分の天命は仕えることなのだと実感した。


 荀彧は曹操の去って行く後姿を見送りごろりと寝台に横たわる。彼女はこれからまだ休まず軍略を建てるだろう。自分の上気した頬を撫で曹操の安息を願い、荀彧は目を閉じた。



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