いえいえ。私は元の世界に帰るから結婚は却下しますっ!

月宮明理

ハッピーエンドの物語

 一日、二日。一週間、二週間。そして、一か月。
 時間が解決してくれる物事もあるのだろうけど、私の悩みはそれに該当しなかったらしい。もしくは、まだ時間が足りないのか……。
 結論から言うと、私はあの世界を夢だと割り切ることは出来なかった。
 寝ても覚めても、授業中だろうと、『人魚姫』のことが気になってしょうがない。一番酷かったのは、平均台の上でバランスを取っている時に思い出してそのまま固まってしまったことだ。(その後先輩に怒られた)
 私は机の引き出しに手をのばしては引っ込める。それを何日も繰り返していた。

 だめだ。いつまでも逃げてちゃ。

 そろりと引き出しを開けると、そこには当たり前に『人魚姫』が入っていた。見た目だけはただの絵本そのもの。
 あまりにも普通過ぎて、少し拍子抜けした。
 しかし、心穏やかでいられたのはそこまでだった。
手にとって最後のページを開くと、そこには幸せそうに微笑みながら王子様に寄り添う人魚姫の姿が描かれていたのだ。おそらく結婚式。

「夢じゃないんだ……」

 やっぱり、と思った。
 本来悲恋だったはずの『人魚姫』の物語は、得恋へと変わっていた。
 その結婚式には私……というか、ヒメカの姿もあった。隣にはお母様とお父様の姿もある。
 よかった。お父様は無事に生き返ったんだ。
 そして、私は必死に『彼』の姿を探した。けれど、どのページを探しても影も形もない。
 もともと『彼』は物語の登場人物じゃない。絵本に描かれていないのもうなずける。
 それに私が願ったことを考えると、この状況は当然だろう。

 ――私は最後の瞬間、シグルドから私の記憶がすべて消えるように願ったのだ。

 楽しかったことも、つらかったことも、すべて無くなるように……そう願った。
 だからきっと、記憶のなくなったシグルドは、絵本の登場人物のシグルドではなく、元の絵本自体に戻ったのだろう。
 分かりきっていたことなのに、なぜか目頭が熱くなって、我慢しようと意識する前にスーッと水滴が流れ落ちた。
 もう、私のことを知るシグルドはどこにもいない。何かのきっかけでもう一度人魚姫の世界に行けたとしても、そこにシグルドはいないのだ。
 人魚姫と王子様の幸せそうな姿を見ていると、なんとも複雑な気持ちだった。

 ――うらやましい。もっと言ってしまえば、二人が妬ましい。

 私もシグルドとこんな風に結ばれることができたらどんなに嬉しかったことか……。
 そこまで思って、考えるのを止めた。
 選んだのは私自身。……いや、本当は選べなかったという方が正しいのかもしれない。
 目の前から消えてしまう私を、彼の記憶に残しておくのは残酷というものだろう。記憶を消す以外に彼を救える方法が思いつかなかった。
 私はシグルドを悲しみから救った……はずだ。もう本人に訊くことは出来ないから、本当のところは分からないけれど。
 今の状態が普通。これまでの日常が戻ってきただけ。そう言い聞かせても涙は止まるどころかどんどん溢れてきて、

「あ」

 せっかく大切にしてきた絵本を濡らしてしまう。
 涙と一緒に、押し込めていた感情も溢れてきてしまった。抑え込もうとしても、感情の方が強かった。

 ――会いたい。本当はシグルドと一緒にいたい。

 私がマリンちゃんみたいにもっともっと恋に積極的で、何もかも投げ打って愛に生きられたのなら、私とシグルドの恋の結末も変わっていただろうか。
 マリンちゃんに同情せず、ルカ王子を欺き結婚していたら、シグルドと一緒にいられたかもしれない。

「シグルドぉ……、会いたいよ」

 絵本を抱きしめて呟いたその時、驚くべきことが起こった。
 小さな爆発音のようなものが聞こえたかと思ったら、部屋が煙に包まれていた。同時に、手にしていたはずの絵本の感覚はなくなっていた。

「呼びましたか?」

 聞き覚えのある心地よい声がした。

「なっ!」

 煙が晴れると、そこには現実世界には不釣り合いな格好のシグルドがいた。
 何が起こっているのか分からず呆然とする私を、にっこりと笑って見ているシグルド。しかもかなりの長身だから、部屋がすごく狭く感じる。

「ど、どうして?」

 目の前で起きていることが現実なのか夢のか幻なのかどれとも区別がつかなくて、うわずった声しか出ない。
 現実だったらこんなに嬉しいことはない。けれど他のものだったとしたら――こんなにも残酷なことはない。
 現実なのかを確かめるのは怖かった。確かめた瞬間に、消えてなくなってしまうのではないだろうか。
 私はためらいながら、彼に手を伸ばした。ぬくもりが掌に感じられる。

 ――触れる!

 確かに彼に触れる事ができた。身体の中心から喜びがあふれ出てきそうになるが、ある事に思い当って、一気にそれが引いて行った。
 今、目の前にいるシグルドは、私のことが分かるのだろうか? 私はシグルドの記憶を消したのだ。なのに、覚えているはずが――

「……姫香、会いたかった」

 ガバッと苦しいくらいの抱擁をされ、彼には昔の記憶が残っていると確信した。

「私も、会いたかった……」

 同時に私もシグルドの首に手を回す。

「酷いじゃないですか、僕の記憶を消すなんて……。姫香との時間はこの上ない宝物なんですよ」
「ごめんなさい……。でも、シグルド今は覚えてるんでしょ?」

 冷静になってみると現実世界にシグルドがいることも、記憶が残っていることも、どうも腑に落ちない。

「あの石はもともと僕の魔力の一部ですからね、僕の記憶を完全に消すなんてことはできないんですよ。……といっても、姫香が僕を求めるまでは姫香のことを忘れてしまっていましたが」

 そこでグッとシグルドの声が近くなる。耳に当たる吐息がくすぐったいくらいの距離だ。

「貴女のことを一時でも忘れてしまった僕を許して下さい」
「ゆ、許すから! だから、お願い、耳元でしゃべらないで」

 囁くように言われて、背筋がゾクッとした。
 シグルドの口元は楽しげに弧を描いている。

「もう姫香を悲しませるようなことはしません。ずっと貴女の傍にいますから」
「……ずっと?」
「えぇ」

 当たり前、と言わんばかりに軽く言い切ったけれど……おかしい。

「シグルドは、ここでもその姿でいられるの?」
「はい、いられるようになりました。僕はもう付喪神ですから」
「つくもがみ?」

 聞きなれない単語を聞き返すと、彼は柔らかい笑顔でうなずいた。

「物が感情を持ち、人間の姿になった神様のことです。僕が姫香を絵本の世界に呼ぶことができたのも、きっとその前兆だったのでしょう。姫香と思いが通じあったことで、その力が完全なものとなったようです」
「……」

 頭の中を占めていたのは、信じられないという思いだった。でも、信じたい。大好きな彼がここにいて、もういなくならないということを。

「もう、放しません。愛してます、姫香」
「うん」

 私も、もう手放したりしない。 

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