いえいえ。私は元の世界に帰るから結婚は却下しますっ!

月宮明理

夢の終わり

「僕を大切に扱ってくれる姫香に恩返しがしたかった、というのが目的でした。姫香は人魚姫の結末を嘆いていましたからね。それを変えてあげたかったんです」
「でもそれなら、シグルドがただ絵本の内容を変えればいいだけなんじゃない? 管理者なんだよね? わざわざ私を連れてくるなんて、意味がない。それに下手をすれば、ストーリーは変わらないかもしれないし……」

 実際、私は一度人魚姫の世界に残るためにルカ王子と結婚しようとした。

「その通りです。それだけなら姫香を連れてくる意味はありませんでした」
「じゃあ、なんで?」
「……僕は、わがままで自分勝手なんです。そのうえ、平気で嘘を吐きます」

 彼は唐突に自虐の言葉を口にした。

「恩返しというのは建前で、本当は姫香と一緒に暮らしてみたかっただけなんです。人間と絵本としての関係ではなく、人間と人間として。僕はその願望を叶えるためだけに姫香をこの世界に引き込んだのです」
「……」
「僕のことを軽蔑しますか?」

 おずおずとそう言ったシグルド。
 嫌われたくないけれど、嫌われることを覚悟している。そんな風に見えた。

「軽蔑した、と思う。……最初の頃だったら」
「それは、どういう意味ですか?」
「だって、私はシグルドのこと知っちゃったから。シグルドは優しくて、何も知らない私に気を使ってくれたし、大切に扱ってくれた。そんなシグルドを知ってるから、私はシグルドのことを軽蔑なんてしない……できないよ」
「姫香……僕のことを許してくれるんですか?」
「許すだなんて……。私はシグルドが悪いことをしたなんて思ってないもん。何を許せばいいのか分からないよ。ここに連れてきてくれたことに関しては、むしろお礼を言いたいくらいだし。……ありがとね、シグルド」
「……姫香っ!」

 ガバッと力強く抱きすくめられる。身動きができなくなった。

「そんな可愛いことを言うと、帰したくなくなるじゃないですか」
「私だって……ずっとシグルドといたい」

 でも、それは叶わない。それを分かっているからこそ、シグルドは放すものかと言わんばかりに抱きしめてくるのだろう。

「貴女を連れてくる前は」

 耳元でシグルドが囁く。

「姫香を連れて来ようと考えていただけの時は、貴女と生活をするだけで満足できると思っていたんです。けれど、いざ姫香を目の前にすると、触れたくなり、抱きしめたくなった。そうして姫香の存在を確認したら、今度は貴女の心を僕でいっぱいにしたくなったんです。他の誰も見ずに、僕だけを見てほしいと思いました」
「……」

 私だってそう思った。
 シグルドに触れていると安心できたし、シグルドに好きな人がいると知った時には痛みすら感じるほど悲しかった。
 ふと、思う。こんなにも自分のことを思ってくれている彼を置いて自分の世界に帰るのか、と。

「ルカ王子とキスしようとしていた貴女を見た時には……嫉妬でどうにかなりそうでした」
「そ、それは……」
「まぁ、阻止しましたけど」
「……」

 昼間にキスされてしまったことは黙っておこう。

「自分がこんなに嫉妬深いとは思っていませんでした。最初は小さなことで十分に幸せを感じられていたのに、いつしか姫香を独占していないと気が済まなくなり……」

 ついには人を殺してしまいましたよ、と冗談にもならないことをシグルドは苦笑いで言った。……何がなんでも黙っておこう。
 私の体の光が一層強くなる。

「……時間ですね。最後にこうして話ができて嬉しかったです」

 言葉の最後が震えだしていた。
 見上げると、安らぎ草を盗みに行った私を迎えに来てくれた時と同じ顔をしていた。

「あ、ありがとう、ございます、姫香……。貴女と過ごした時間はとても……とても、楽しかったです」
「シグルド……」

 ――死んでしまう。

 シグルドの表情は、そんな心配をしてしまうほど痛々しくて、私まで涙が出てきた。

「愛しています、姫香。大好きです」
「私も、大好き。貴方が……シグルドが大切で……愛しくて……」

 さよならなんて言葉で終わらせたくなかった。最後は、愛の言葉で。

 ――さらに輝きを増す光の中、私は手の中の石を握りしめて祈った。



「ん……」

 目をあけると、そこには懐かしい光景があった。
 安っぽいベッドに安っぽい机、漫画がぎっしり詰まった本棚。

 ――帰ってきた。元の世界に、ようやく帰って来れた。

 窓から夕陽が差し込んできている。近寄って外を見ると、まさに沈んでいくところだった。
 ベッドの上のカバンから携帯電話を取り出してみる。
 日付は同じ。時間は……細かくは覚えていなかったけれど、大体合ってると思う。念のために年も確認すると、部活から帰ってきた時と同じだった。
 部屋のすべてが、あの時――人魚姫の世界に行く直前のままで、何もかもが夢だったような気がした。
 もしかしたら、本当にすべてが夢だったのかもしれない。
 そんな考えが頭をよぎった時、枕元に置いてある絵本が目に入った。もちろん『人魚姫』だ。

「……」

 本を取ろうと伸ばす手が震えた。
 私は絵本の表紙をじっと見つめたまま――開けなかった。
 中を見るのが怖い。現実を知るのが怖い。
 あの出来事が夢だとは思えない。けれど、夢でないとしたら一体何? 人の心を乱すだけ乱しておいて、呆気なく終わってしまったあの世界。

 ――あんな強制的に終わりが来る世界が現実であってたまるか。

 あの世界は、夢。そういうことにしてしまおう。
 私は胸の痛みに気づかないふりをして、絵本を机の引き出しへしまい込んだ。

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