冬フェンリルの愛子となった私が、絶望から癒されていく話

黒杉くろん

71:ラストエピローグ【日本編】

 
【冬フェンリルエピローグ:1】
(エルの父視点)


 ──日本の桜。ひらひらと、淡いピンクの花びらが舞っている。

 早朝の薄闇に、よく映えるな……。
 初老のぼやけた目をこすって、凝視する。

 病院の待合室で、俺は窓の外を見つめながら、春の訪れを知った。
 精神的には、まだ極寒の冬景色なんだがな。
 自分だけが取り残されているような感じがした。

 待合室に、ひとりきり。

 なんせまだ朝6時。

 しかし俺は眠くない。
 妻の危篤を聞いたばかりだから……。
 時々こうやって呼び出されるんだ。病に倒れてからもう数ヶ月経ち、呼び出しも2桁になったが、今だに慣れない。
 慣れてたまるか。
 今度こそ、本当に死んでしまうかもしれないんだから。

 ときおり看護師のパタパタとした足音が響いて、その度に、顔がそっちを向いちまう。
 肩をびくびくと、情けないったらありゃしない。

 はあーー、と吐き出したため息は、冷ややかな待合室内で、白い雲みたいにただよって消えた。…………。

 胸のあたりが重くなり、ゆっくりと押さえると、俺の心音が聞こえてくる。

 これが、妻の心音なら良かったんだがなァ……。
 なんで妻なんだ。

 笑った女子の顔を思い出そうとすると、二人の笑みが頭に浮かぶ。


 俺の妻、桜子と、娘の柊(ノエル)。

 ズビ、と鼻が鳴る。

 お前たちが笑っていてくれたなら、俺には何もいらないのに……。


 ーー妻の心臓は、止まって動いて……を不規則に繰り返しているとか。まだなんとかなる可能性は──0.1%くらい。
 ーー娘は居場所がわからない。捜索願いもなしのつぶてだ。


 立ち上がった。
 岩のように固まって座っているだけだと、一秒が一時間にも感じるから。
 もう心がたまらなかった。

 窓を開ける。

「うおっ」

 冷たい風がブワッと吹き込んできて、頬を凍らさんばかりに冷やしていく。
 あの日のことを思い出した。

「柊(ノエル)……」

 ぶわっと舞う桜の花びらは、雪のようで。
 娘がさいごに残した名残に似ていると、そんなことをボンヤリと考える。

 夢のような白銀の雪世界に、氷の結晶のような新種の花。
 そんなものを見たのは、つい数日前のこと。





 一人で都会暮らしをしている娘に、久しぶりの連絡をしたのは、ひと月ほど前だったか。
 元気にやっていると返事があったので、安心した。
 しっかり者で頭のいい娘だから、言うままに信じた。

 その後、妻が倒れてバタバタとしていた。
 不治の病だなんて宣告を、信じられない心地で聞いた。
 迷ったが、娘に連絡をしてみると、そっけなく見舞いを断られてしまった。

 仕事の繁忙期だろうが……薄情にも思いつつ、新社会人の立場というものは、まあ、分かる。
 親としてエールを送るに留めた。

「ありがとう」と返す娘の言葉は、落ち込んでいるようで心配だった。

 しかし、咳き込んでいる妻のほうに付き添った。


 その後、病院と会社をいそがしく往復する日々が続いて、仕事をして家で気絶するように眠る日々。
 妻の病院代も稼がにゃならん。
 気がつけば、また娘と連絡を取らなくなっていた。

 あちらはあちらで仕事に精を出しているんだろう……と思っていれば、テレビで大手企業倒産のニュース。
 数々の横領などが発覚したらしい。顧客から苦情の嵐で、責任者が首を切られたものの、業績はあっという間に傾いて、ニュースで騒がれてからすぐ破産となった。
 世間は規模の大きさに騒ぎ立てていたが、俺の心配は、そこではなかった。

 娘の柊(ノエル)が勤めている会社だ。
 それなのに何の連絡もない!

 おかしい。

 慌てて電話をしたものの『この電話は現在使われておりません…』のデジタル音声が耳を打つばかり。
 青ざめた。
 何度かけ直してもつながらず、メールをするも通じず、悪夢のようなしばらくの時間を過ごした。

 妻の病状は悪くなる一方で。
 心臓が止まったり動いたり、必死で生きている中で、自分は娘を探すことも、何もできないのかと泣きそうになりながら日々を過ごし、逆恨みで家までやってきた柊(ノエル)の元上司のクソジジイには全力キックを食らわせた。
 正当防衛だ。
 娘の罵倒をした奴の口まで、中年親父の足が届いたのは、執念という他ない。
 この時にようやく、娘の会社での境遇を知って、悔やんでも悔やみきれない血の涙を流した。
 大事な娘は、激務の末に正当な評価さえも得られず、一体どれほど苦しい思いをしたのだろうか。

 妻の容体が一時安定したタイミングを見計らい、遠方の娘のアパートにようやくたどり着く。
 ここまで遅くなってごめんと、謝るつもりだった。


 大家に事情を説明すると、数日間、部屋に明かりがついていないことが発覚した。

 なんてことだ。

 大家とともにノエルの部屋に向かうと、鍵穴が凍り付いていて、鍵を入れることができなかった。
 冷気がドアの隙間からにじみ出ていて、窓も凍っている。

 異常だ。

 この冷気……冷蔵庫を開けっ放しにしていたってこうはならないだろう。
 娘は果たして中にいるのか?
 もし中にいるなら……最悪の事態もありうる。また電話をしてみたものの、やはりつながらない。

 迷いなく警察を呼んだ。
 叩き壊されていくドアを、穴が空くほど凝視した。

 失いたくないんだ。
 妻も娘も。

 彼女たちの笑顔だけを願っているのに、現実はどうしてこうも残酷なのだろうか。


 やたらと重い音を立てて、ドアが破られた。


 全員が目を疑った。


 さらさらとした粉雪が、叩き壊したドアの上で舞っている。
 部屋の全てが雪に覆われていた。
 床への積雪は、20センチはあるだろう。
 家具や家電らしきものが、バラバラになって雪に埋もれていた。凍りついているものもある。

 キラキラした光の反射につられて上を見ると、天井からはつららが垂れ下がっている。

 部屋の中央。
 ガラクタとなった家具が積み重なり、ひときわ大きな雪の山を作り出している。

 山のふもとでは、雪の結晶みたいな白い花がたくさん咲き、冷風に揺れていた。
 冷風の出所は──

 山のてっぺんにぶっ刺さっている、タブレット端末。
 画面がまるでブラックホールのような奥行きを持ち、その先が存在するかのように、雪混じりの冷風を送り出していたんだ。

 ──なんなんだ、これは!?
 ──風が、止んだ。

 タブレット端末の画面はつるりとした光沢を放ち、目を剥いた中年男らをボンヤリと映している。
 ガラス面が、ある?
 さっきの風は……?


 そんなことよりも。

「柊(ノエル)!」

 踏み出した。
 ズボッと足が雪に埋まる。
 驚くほど柔らかい雪で、前のめりに転びかけた。

「あっ、藤岡さん!? ダメです、現場検証をしてから入室していただかないと」
「娘が中にいるかもしれないんだぞ!?」
「いません、いませんって! 1LDKのアパート、このスペースで娘さんは隠れられませんよ。それに雪に埋もれているのは家具ばかり……見て、わかるでしょう? 人一人分のふくらみはないって……」

 そう言いながら警察官は、懐中電灯を持ち、こわごわと中を探っている。
 日中だぞ、よく見えているだろうが。
 血色でも探しているのか?…………。それはない。俺も、真っ先に事件に巻き込まれたことを疑って、目を皿のようにして眺めたからな。

 テレビ局がもしもここにヤジウマしにきたら蹴り倒してやる。

 そんなことに怒りの矛先を向けながら、明らかにされていく娘の部屋を、俺は、無力に眺めることしかできなかった。



 雪が溶かされた。

 雪の結晶のような花は、真珠のような殻の球根ごと、植物研究所に送られた。

 俺の元には、壊れたタブレット端末と、スマートフォンだけが残った。
 これを遺品とは、呼びたくない。





 今思い出しても、恐ろしい非日常だった。

 それなのにあの白銀の光景を「美しい」と感じてしまったのだから、不思議なものだ。
 自分の娘が消えた事件現場であるというのに。

 粉雪が頬を撫でる感触が、いやに優しかったのを、覚えている、忘れられない──。


 空がいよいよ白さを帯びてきて、藍色からのグラデーションになっている。
 朝がくる。

 妻の容態は、知らされない。
 娘の安否は、分からない。

 変わらないのに、時間はすぎるんだよなぁ。

「ぶえっくしゅっ……!」

 外の風で体が冷えちまった。
 病院内の暖房は最低限だ。
 窓を閉めて、ぶるりと震え、待合室の椅子に座りなおした。
 赤くなった鼻をマフラーに埋める。これは、ノエルが初任給で買ってくれたモンだった。

 思い出したついでにと、鞄から巾着袋を取り出して、大事に保管していた娘のスマートフォンを取り出す。
 ジーー……と画面と睨めっこをする。


「えーっと……」

 どう操作するのか、分からないんだ。
 ええい、最新の機械は複雑すぎる。

 充電はしてあるだろ。
 つつくと、画面に色がついた。
 番号が浮かんだ……ってことは、鍵(ロック)がかかっている? がっくり頭を落としたが、なんてことはなしに画面が切り替わった。

 小さな四角のカラフルな模様が、たくさん浮かんでいる……ええと……アイコン?  なんか、話しかけたら操作してくれるコンピュータみたいなのが入ってるんだっけか。
 それに頼もう。
 俺がいじって、中のデータを消してしまっても困る。

「…………」

 何を、確認するっていうんだろうか?
 娘のメールや電話の履歴?
 いやいや、手がかりを……何か……!

「柊(ノエル)は無事かっ!?」

 …………こんなことをスマートフォンに向かって叫んでいる俺はおかしいのかもしれない。縋るように。

 画面が切り替わった。
 音符のマーク?
 ーーーー!

『「お父さん」!』

 俺の鼓膜が震えて、娘の声であると認識した。
 間違えるはずもない!

 喉がひりつくように上下して、唾を呑み下す。一言も発してたまるか、娘の声だ。あれだけ焦がれた!
 なにを語ってくれるっていうんだ?

『「お父さんへのメールを作成して。お父さんもお母さんも大好き、って……伝えて欲しいの……!」』

 ノエル……どういうことだ? 誰に頼んでいる?
 メール?
 がちがちに固まってしまった俺の指は、動かない。
 恐怖と期待で。

 ええい、口動け、音声操作ってやつだッ。

「メールをっ、見せてくれ!」
『可能です』

 喋るのか今時の機械は……!

 びっくりしていると、メール画面に切り替わり、『お父さんもお母さんも大好き』とそっくりそのまま書かれている。

 ぎゅっと眉根が寄り、俺は鬼のような形相になっているだろう。

「……これ……ノエルは”誰に”言ったんだ? 誰に、メールを作成しろと……」
『忠実なバーチャルアシスタント、スマートフォンのAIにですよ』

 機械がしゃべった。
 そうか、俺が音声操作しているみたいに、ノエルは頼んだだけなのか。なるほど……。

 娘が誘拐されて誘拐犯に許可を求めているのか!? とすっとんきょうなことを思っちまった……事件として考えてしまった。
 はあ、落ち着け。
 心臓がドクドクと早鐘を打っていて、痛いくらいだ。

「ノエルは今どこにいる?」
『位置探索……位置探索……』

 ここの場所が表示される。
 ん?
 ……このスマートフォンの持ち主ノエルの場所は、ここ、ってことか?
 ええい、まどろっこしいな。

『エルはここにいます』
「いない。今どこなんだ?……エル?」
『ここです』
「……ッ! 頼む。本当に娘の無事を願っているんだ……救いたいんだ。どうか」

 スマートフォンを両手で掲げるように持って、頭を深く下げて、懇願する。
 もはや神頼みのようだ。でもやっと見つけた手がかりだ。どうか!

 何やら、機械が一度震えた。

 顔をあげるとき、親父のみっともない涙がぼたぼたと、ふた粒、病院の灰色の床に落ちた。

『”先ほどの婚約写真、ご両親にお届けしたいですよね”』
「ごほっ!?」

 なんのことだ!?
 大慌てで画面を見る。


 口があんぐりと開いて、顎が垂れ下がった。


 白銀の髪の少女が映っている。
 この世の幸せを集めたような微笑みを浮かべて、青い目をきらめかせている。
 なんという美貌だろうか。

 同じく白銀の髪の男が隣にいて、いまにも頬がくっつきそうな距離。

 白い花とウエディングベルのフレームで、二人は彩られている。

「……獣の耳? 今時の外国の若者は、こんなものをつけて結婚式をするのか……。……これとノエルになんの関係が……待て」

 ただの外国の結婚写真かと思いきや、背景の雪景色に、妙な既視感があった。
 このような白銀の光景を、先日目にしたばかりだ。

 柊(ノエル)の部屋。

 まじまじと画面を眺めて、ハッとした。

 白銀の髪の少女の、笑い方。
 目を三日月みたいに細めて、きゅっと口角を上げて、頬にえくぼが浮かんでいる。

 嘘だろう?

「……ノエル……!?」
『彼女はエルです』

 スマートフォンは壊れてしまったのか、ノエルの「ノ」を言わなくなってしまった。
 そんなことはいい。

 写真が少しずつ切り替わっていく。
 連写したものを繋げて、動かしているのか? 俺はカメラが趣味だから、少し興味深、あっ、あーーっ!?

「おいいい、ちょっ」

 男女の距離が、縮まっていく。

 唇が重なった。
 娘と、見知らぬ男の。

「のああああああっ!?」
『彼女はエルです』

 知っている!!
 のあなんて名前を間違えたわけじゃない!

 しかしなんだこれは、勝手にずんずん進んでいくあたり、スマートフォンにおちょくられている気がする。

『「今後、これを日課にすれば……」』

 男の、呆れるくらい綺麗な声。

「NIKKA!!」

 チャラつきおって!!!!
 そんなことを軽々と口にするケダモノ男、なんなんだお前は!? なんなんだ、こんな、ノエルを、慈しむように眺めて、言葉もこっぱずかしく、愛だの、プロポーズだの…………っっっ声は、真剣そのものだった。
 …………。

 ノエルというか、白銀の彼女の返事は、

『「ありがとう」』

「そうなのかああぁ……」

 がくんと膝の力が抜けた。
 半立ちになっていたため、前のめりにへなへなと床に座ってしまう。

 画像の場所がどこなのかとか、どうして銀髪に獣耳なのかとか、俺たちは会いにはいけないのかとか、エルなのかノエルなのかとか、それよりもただ、ひたすらに、気になったことは。

「この娘は健康で、生きていて、幸せなんだろうか……? 教えてくれ」
『その通りです。あなたの娘は幸せです』

 はは、最近の機械はすごいな。
 俺のことを認識して、わざわざ喜ばせるような言葉を選んでくれる。

「あなたの娘、とか言わなくてもいい。すまん。……ノエルが幸せなんだろうか?」
『エルは幸せです』

 画面にずらっと小さな写真が表示される。
 それを指でなぞっていく。
 日付を見る限り、ちょうど俺との連絡を取れなくなったくらいの時だろう。

 どれも真っ白な雪山を背景に、白銀の少女が獣の耳をピンと立てて、口を大きく開けて楽しそうに笑っていた。


 吸い込まれるように画面に集中して、ずうっと眺めていた。

 写真、動画、みずみずしい冬の雪山で、白銀の少女は美しく、獣とともに生きている。


 スッキリした青の空にいかにも柔らかそうな雪の大地は、おとぎ話の絵本の挿絵のようで、でも少女が呼吸をしてあふれる白い吐息が、この世界もまた現実なのだと精一杯教えてくれているようだった。


 画面にぽたっと落ちた雫に、ハッとさせられた。
 お、俺の涙か。
 なんだ……。

 いつの間にか泣いていたらしい。
 還暦近くにもなると、涙脆くなるなぁ。

 何が何だか意味不明だが、おかしなくらいに納得してしまった俺がいる。
 電波を受信したみたいに、脳みそと目の奥がビリビリする。


「……ここの人たちにな、メッセージを送ることはできるか?」
『不可能です。はるか遠くすぎます』
「そう……かぁ」

 この時代に、メッセージを送ることもできない地域があるなんてなぁ。

『祈りはきっと通じます』

 う、うーん。
 音声案内のとおり、俺は手を組んで、硬い硬い氷のようなゲンコツを作ると、おでこをくっつけて祈った。

「エルが幸せでありますように……」

 つい、声に出てしまった。
 あと、あんまり機械がエルエルっていうもんだから、そう呼んでみた。

 俺の娘だなんて主張はしなくてもいい。
 ただただ、あの少女エルの幸せを祈っている。
 メールしていた内容を、思い出す。


「旅行、してるって話してたな。ノエルは。なるほど旅行……でもはるか遠くすぎる。それから、このケダモノ男と結婚した……する、んだよな?」
『エルは帰ってきません。しかし幸せです』
「そうか」

 こんなふうに旅立ちを知ることになるなんてな。

 音声を何度も繰り返して、俺は娘の声を聞き、その度に「どうか幸せに」とつぶやいた。
 祈りが届くという希望にかけて。
 ノエルが生きているのかも分からない数日に比べたら、間違いなく光のある時間だった。


 病院の窓から、朝日が差し込んでくる。
 スマートフォンの画面をまぶしく照らして、白銀の少女エルをいっそう輝かせた。

 気がつけばもう7時だ。

「娘の安否が、たぶん、分かって……望ましい結果で……。あとは、妻が助かってくれたら、そうしたら、もう俺はなにも」
「藤岡さんッ!」

 看護師が走り込んでくる。

 その顔は、青ざめていて、それは寝不足だからなのか、それとも?

 手術室の隣、別室に通されると、医師がこう言う。

「手術が終わりました。……成功です。心臓の鼓動は安定しています、しかし、意識を取り戻すことは保証できません」

 患者に過度の期待を抱かせないように、と、医者は真実をきびしい表現で伝える。
 しかし誠実に対応してくれたのであろうことは、彼のまっすぐな視線でわかった。

「ありがとう」
「いえ……」
「まだ若いのに凄いと思う。妻の窮地を救ってくださって、本当にありがとう」
「そんな」

 医者はハッとした顔をした。
 彼の瞳がわずかに潤んでいたので、察した。
 深く頭を下げた俺に、慌てて「頭を上げて」と伝える。
 重圧の中で彼が努力をしてくれたこと、俺に罵られる覚悟もあったのだろうことを察して、つい、会社で努力してた娘に被せてしまったんだよなぁ。

「先生。妻の元に行けますか? 娘の声を聞かせてやりたいんです」
「できますよ」

 説明を聞いている間に、妻は個別病室に移されていた。
 清潔な病院服を着ている。
 そして、やせ細っていた。


『「お父さんもお母さんも大好き」』

 スマートフォンで音声を再生すると、看護師が「あらまあ」と微笑ましそうな呟きをこぼした。
 素敵な娘さんですね、と医師が言ったので「自慢だ」と誇っておいた。
 画面は見せていない。
 ただただ、音を、妻の耳元に。

 すると奇跡が起こった。

 妻が目を開けたんだ!!

「えっ」と医師たちがバタバタと検査を始めて、俺は、エルの声を流し続けた。

 妻が瞬きする。えっと(娘の声が聞こえないじゃない)とかだろうか? 
 すまんな、俺の泣き声がうるさくて。
 妻を抱きしめて、俺と妻の間に、スマートフォンを置く。

『「お父さんもお母さんも大好き」』

 声の響きすらも覚えてしまうくらい、再生を、繰り返した。

 最新のスマートフォンが気を利かせたのか『「エルは幸せです」』と、彼女の声で、聞かせてくれた。




 不治の病だといわれていた病気の特効薬が生まれた。
 雪の結晶のような新種の花から、治療成分が検出されたのだという。
 白銀の粉は喉をスウッと通り、ひんやりと体を癒していったのだ。

 最初の完治者は、日本の中年女性。
 夫婦で仲睦まじく、桜の下で寄り添う写真が、世界中に発信された。




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