あの日、自殺したキミを救う方法。
七話 知らぬが仏。
住んでる地域やマンションよっては、シャワーの水圧がとても弱い所がある。
恵はそれを極端に嫌った。
専門学校に通う為に上京して初めて住んだ部屋が、まさにそれだった。
勢いの強いシャワーを頭から浴びることで、嫌なことや考えたくないことを洗い流せたような気になる。
だから勢いの弱いシャワーでは、何も流せないような気がして嫌いなのだ。
「……」
頭の中に靄のようなものがあって、いつまでも思考を邪魔する。
何か別のことを考えようとしても、いつの間にかその靄が全てを覆いつくしてしまっている。
「シャワーが弱いせいじゃないわね…」
確信めいた疑念があるからこそ、シャワーで洗い流せるような問題ではなかった。
早々に風呂場を後にし、シングルモルトのスコッチをグラスに注ぐ。
まだ身体が若いせいか、ロックで飲むスコッチは食道から胃までを急激に熱くさせた。
成人すると、お酒に逃げるという手段を選べるようになる。
逃げると言ったら聞こえは悪いが、そうやって生きてく辛さを中和していくのだ。
こちらではまだ未成年だが、タイムリープ前は特にスコッチを嗜んでいた。
優作がよく飲んでいたから。
千花は「今日はやっぱり帰ります」と、何度も謝罪してから帰っていった。
その時は既にいつもの千花に戻っていた。
あの時の千花の表情が頭から離れない。
今まで一度も見たことの無い、不気味な微笑み。
大凡、千花に対してそんな印象を抱いたことはなく、想像すらしなかった。
スマホを手に取り、優作に連絡しようかとも思ったが冷静になってスマホを置いた。
何をどう話す?千花の表情が不気味だった?怖かった?
お前の方が怖いわって言われて切られるのがオチだ。
何も確証を得られていないことを話すのは、混乱を招くだけだ。
杞憂であってくれればそれでもいい。
ガキが飲むには少し勿体ないスコッチを、喉を鳴らして飲み干す。
味わって飲めば、甘みが口の中で広がり、その上品な香りが優雅さを演出してくれる素晴らしい銘柄。
ウイスキー初心者の登竜門的な存在でもあり、これに出逢えるかどうかでウイスキーに対する印象がガラッと変わると断言出来る。
そんなお酒に対して、喉越しで飲むなんて失礼な飲み方だったが、今はどうでも良かった。
いつもより早いペースでグラスを開ける。
コンビニで安酒を買えば良かったと後悔した。
今日みたいな夜は、決まっていくら飲んでも酔えないからだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
優作と付き合ってから結婚するまで七年かかった。
千花が養うから結婚しようと言っても、頑なに拒んだのは男のプライドというやつだろう。
そんな律儀で真面目なところも大好きだったので、優作が納得のいくまで好きなようにやってもらった。
千花は、仕事の打ち合わせで外出している優作の書斎の本棚にある一冊の本を手に取っていた。
大月健治のリンダという小説だ。
おもむろにページをめくると、ほのかにタバコの香りがした。
まだ優作が喫煙していた頃から持っている、古い本だ。
最後のページの裏には、大月のサインがある。
「優作くんへ。大月健治」
優作は大月のファンで、全ての作品を読破していた。
だが、このサインは優作がもらいにいったものではない。
優作の誕生日プレゼントの為に、千花がサイン会に行ったのだ。
まだ付き合い始めの頃、この本を手にした優作は、それは喜んだものだ。
千花と結婚してからも、宝物のように大切に保管してある。
大事に保管していても、タバコの香りは染み付いてしまうものなのだと知った。
まるで人の執着のように。
サインを一瞥すると、元の場所に戻し部屋を後にする。
本当はこの本は二冊あったのだ。あの場所に、並んで保管されていた。
一冊は優作の名前入り、もう一冊は…。
だがもうそんなことはどうでもいい。
二度の流産で心が折れそうになっていた千花だったが、三度目の正直とでも言うべきか。
初めて安定期までこれた。
やっと…やっと優作の子供を産める…。
今までの苦労が実を結ぶとはまさにこのことを言うのではないかと、しみじみと感傷に浸る思いだった。
恵にも散々苦労をかけてしまった。
少し前まで、情緒が不安定で泣いたり喚いたりしてネガティブなことしか言わない日々が続いていた。
優作にそんな姿を見せられないからと、その全てを恵にぶつけてしまったのだ。
何年も…。
徐々に会ってくれる回数が減っていき、今では恵から連絡をくれることはほとんどない。
自分が悪いのに、恵はずっと我慢して励まし続けてくれたのに、会ってくれないようになって、恵を恨んでしまった。
本当に自分勝手で、なんて愚かななのだろう。
心に余裕が出来て、初めて自分のしたことが如何に最低だったかを知る。
久しぶりに恵に電話…いやラインをしよう。
安定期に入ったって教えたらきっと喜んでくれるに違いない。
また、きっと昔みたいに笑い合えるようになる。
その為にも、今までのありがとうとごめんねを伝えないと。
そう思ったら、無性に恵に会いたくなってきた。
ピンポーン。
ラインの文面を考えていると、インターホンが鳴った。
優作が買い物でもしたのだろうか?
モニターで確認すると、にゃんこ運輸の人だったのでマンションの入り口を開けた。
そういえば、仕事の道具を買おうかどうか迷ってると言っていたことを思い出した。
部屋の前に着いたのであろう、もう一度インターホンが鳴る。
共通の入り口のものとは違う鳴り方だ。
はーいと言いながら玄関へ向かう。
決して外で待ってる人には聞こえないのになぜか言ってしまうのは、多分母親の影響だろう。
明るくて優しい人だった。
家ではもちろんのこと、ご近所付き合いでも学校の集まりでも、みんなから慕われ、母がいればその場が明るくなった。
そんな母を見ていて多分憧れていたのだろう。
自然と母の振舞いを真似てしまっていた。
千花は優しいし明るいって言われるけど、それは千花というフィルターを通した母の姿そのものだった。
だから、千花はそう言われるのと少し戸惑った。
自分が母の影響を受けていると自覚してから。
皆が好きなのは母であって、本当の自分を見せたら嫌われるんじゃないかと思うようになった。
本当の自分がどんなものなのか、自分でさえもわかっていないのに。
でも、優作と出逢い、彼を愛すことで本当の自分というものを認識出来た。
優作は本当の千花を知らない。
彼が愛し理解しているのは、母をトレースしている千花だ。
千花は、最愛の人だからといって全てを知ってもらう必要はないと悟っていた。
自分が母をトレースしていることに苦痛を感じていないのなら、それでいいと思った。
だから、自然とはーいと言ってしまうことで母を思い出すことも少なくなっていた。
今はそのことで、正常な自分で振舞えているかの確認になっている。
インターホンへのリアクションで自我を確認するなんて変な話だと、鍵を開けながら少し笑ってしまった。
ドアを開けた途端に千花は凄い衝撃で吹き飛ばされた。
何が起こったのかわからないまま、咄嗟にお腹を押さえた。
衝撃はお腹を狙っていたように感じたからだ。
幸い、左腕と腰に痛みが走ったのでほっとする。
そして状況把握の為に視線を前に向けると、配達員が部屋の中に侵入してきていた。
時刻はまだ昼の二時。
優作が仕事の打ち合わせから戻るのには、まだしばらく時間があった。
恵はそれを極端に嫌った。
専門学校に通う為に上京して初めて住んだ部屋が、まさにそれだった。
勢いの強いシャワーを頭から浴びることで、嫌なことや考えたくないことを洗い流せたような気になる。
だから勢いの弱いシャワーでは、何も流せないような気がして嫌いなのだ。
「……」
頭の中に靄のようなものがあって、いつまでも思考を邪魔する。
何か別のことを考えようとしても、いつの間にかその靄が全てを覆いつくしてしまっている。
「シャワーが弱いせいじゃないわね…」
確信めいた疑念があるからこそ、シャワーで洗い流せるような問題ではなかった。
早々に風呂場を後にし、シングルモルトのスコッチをグラスに注ぐ。
まだ身体が若いせいか、ロックで飲むスコッチは食道から胃までを急激に熱くさせた。
成人すると、お酒に逃げるという手段を選べるようになる。
逃げると言ったら聞こえは悪いが、そうやって生きてく辛さを中和していくのだ。
こちらではまだ未成年だが、タイムリープ前は特にスコッチを嗜んでいた。
優作がよく飲んでいたから。
千花は「今日はやっぱり帰ります」と、何度も謝罪してから帰っていった。
その時は既にいつもの千花に戻っていた。
あの時の千花の表情が頭から離れない。
今まで一度も見たことの無い、不気味な微笑み。
大凡、千花に対してそんな印象を抱いたことはなく、想像すらしなかった。
スマホを手に取り、優作に連絡しようかとも思ったが冷静になってスマホを置いた。
何をどう話す?千花の表情が不気味だった?怖かった?
お前の方が怖いわって言われて切られるのがオチだ。
何も確証を得られていないことを話すのは、混乱を招くだけだ。
杞憂であってくれればそれでもいい。
ガキが飲むには少し勿体ないスコッチを、喉を鳴らして飲み干す。
味わって飲めば、甘みが口の中で広がり、その上品な香りが優雅さを演出してくれる素晴らしい銘柄。
ウイスキー初心者の登竜門的な存在でもあり、これに出逢えるかどうかでウイスキーに対する印象がガラッと変わると断言出来る。
そんなお酒に対して、喉越しで飲むなんて失礼な飲み方だったが、今はどうでも良かった。
いつもより早いペースでグラスを開ける。
コンビニで安酒を買えば良かったと後悔した。
今日みたいな夜は、決まっていくら飲んでも酔えないからだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
優作と付き合ってから結婚するまで七年かかった。
千花が養うから結婚しようと言っても、頑なに拒んだのは男のプライドというやつだろう。
そんな律儀で真面目なところも大好きだったので、優作が納得のいくまで好きなようにやってもらった。
千花は、仕事の打ち合わせで外出している優作の書斎の本棚にある一冊の本を手に取っていた。
大月健治のリンダという小説だ。
おもむろにページをめくると、ほのかにタバコの香りがした。
まだ優作が喫煙していた頃から持っている、古い本だ。
最後のページの裏には、大月のサインがある。
「優作くんへ。大月健治」
優作は大月のファンで、全ての作品を読破していた。
だが、このサインは優作がもらいにいったものではない。
優作の誕生日プレゼントの為に、千花がサイン会に行ったのだ。
まだ付き合い始めの頃、この本を手にした優作は、それは喜んだものだ。
千花と結婚してからも、宝物のように大切に保管してある。
大事に保管していても、タバコの香りは染み付いてしまうものなのだと知った。
まるで人の執着のように。
サインを一瞥すると、元の場所に戻し部屋を後にする。
本当はこの本は二冊あったのだ。あの場所に、並んで保管されていた。
一冊は優作の名前入り、もう一冊は…。
だがもうそんなことはどうでもいい。
二度の流産で心が折れそうになっていた千花だったが、三度目の正直とでも言うべきか。
初めて安定期までこれた。
やっと…やっと優作の子供を産める…。
今までの苦労が実を結ぶとはまさにこのことを言うのではないかと、しみじみと感傷に浸る思いだった。
恵にも散々苦労をかけてしまった。
少し前まで、情緒が不安定で泣いたり喚いたりしてネガティブなことしか言わない日々が続いていた。
優作にそんな姿を見せられないからと、その全てを恵にぶつけてしまったのだ。
何年も…。
徐々に会ってくれる回数が減っていき、今では恵から連絡をくれることはほとんどない。
自分が悪いのに、恵はずっと我慢して励まし続けてくれたのに、会ってくれないようになって、恵を恨んでしまった。
本当に自分勝手で、なんて愚かななのだろう。
心に余裕が出来て、初めて自分のしたことが如何に最低だったかを知る。
久しぶりに恵に電話…いやラインをしよう。
安定期に入ったって教えたらきっと喜んでくれるに違いない。
また、きっと昔みたいに笑い合えるようになる。
その為にも、今までのありがとうとごめんねを伝えないと。
そう思ったら、無性に恵に会いたくなってきた。
ピンポーン。
ラインの文面を考えていると、インターホンが鳴った。
優作が買い物でもしたのだろうか?
モニターで確認すると、にゃんこ運輸の人だったのでマンションの入り口を開けた。
そういえば、仕事の道具を買おうかどうか迷ってると言っていたことを思い出した。
部屋の前に着いたのであろう、もう一度インターホンが鳴る。
共通の入り口のものとは違う鳴り方だ。
はーいと言いながら玄関へ向かう。
決して外で待ってる人には聞こえないのになぜか言ってしまうのは、多分母親の影響だろう。
明るくて優しい人だった。
家ではもちろんのこと、ご近所付き合いでも学校の集まりでも、みんなから慕われ、母がいればその場が明るくなった。
そんな母を見ていて多分憧れていたのだろう。
自然と母の振舞いを真似てしまっていた。
千花は優しいし明るいって言われるけど、それは千花というフィルターを通した母の姿そのものだった。
だから、千花はそう言われるのと少し戸惑った。
自分が母の影響を受けていると自覚してから。
皆が好きなのは母であって、本当の自分を見せたら嫌われるんじゃないかと思うようになった。
本当の自分がどんなものなのか、自分でさえもわかっていないのに。
でも、優作と出逢い、彼を愛すことで本当の自分というものを認識出来た。
優作は本当の千花を知らない。
彼が愛し理解しているのは、母をトレースしている千花だ。
千花は、最愛の人だからといって全てを知ってもらう必要はないと悟っていた。
自分が母をトレースしていることに苦痛を感じていないのなら、それでいいと思った。
だから、自然とはーいと言ってしまうことで母を思い出すことも少なくなっていた。
今はそのことで、正常な自分で振舞えているかの確認になっている。
インターホンへのリアクションで自我を確認するなんて変な話だと、鍵を開けながら少し笑ってしまった。
ドアを開けた途端に千花は凄い衝撃で吹き飛ばされた。
何が起こったのかわからないまま、咄嗟にお腹を押さえた。
衝撃はお腹を狙っていたように感じたからだ。
幸い、左腕と腰に痛みが走ったのでほっとする。
そして状況把握の為に視線を前に向けると、配達員が部屋の中に侵入してきていた。
時刻はまだ昼の二時。
優作が仕事の打ち合わせから戻るのには、まだしばらく時間があった。
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