私が見た人たち

増田朋美

暴力のひと、無能な人

私が見た中で一番問題が大きいというか、一番つらいのは、家庭環境が良くなかったということです。決して、貧困家庭というわけではないのですが、なぜか、音楽を志してからはおかしくなり始めました。学校の先生に言われたことも大きかったけれど、家族に言われたことも、大きかったなと今は思います。
いろんな文章にも書いていますが、私の家は、どこかおかしな家庭でした。
友達の家に遊びに行くと分かるんです。友達の家の過程は、私の家にあるような重々しさがないのです。それに、時間制限にしても自由だし。私の家では、父母と旅行に行って、帰りに道路が込んでいて遅くなったらもう謝罪をしなければいけないのです。なんじだと思っているんだ!と言って祖父が待ち構えていますから。
そういう家庭でした。
多分、私にとって一番身近な男性というのは、父と祖父の二人です。
祖父は、本当に働いているって感じのひとで、お茶の先生をやったり、その傍らで農業をやったりしていました。お弟子さんに対しては人が変わったと言えるほど、態度が優しいのですが、家族には違いました。ちょっとでも、自分の言うことが通らないとすぐに怒鳴りつけて脅かすし、自分の体調が悪いと母をはじめとして家族に当たり散らすし、家族が健康的でないもの(あげものなど)を作れば、ひどく怒ってしまうときもあります。そして、自分の作った野菜が、テーブルに上がらないと怒鳴るし、野菜をスーパーマーケットで買ったりすると、お金を無駄遣いするなと怒鳴り散らします。ぜいたくはするなとか、なんでも自分で修理できなきゃいけないとか、そういうことをすごく厳しく語っていた人でした。そういう人のくせに、家族でご飯を食べるときは全員一緒でないとだめというなど、矛盾した一面もある人でした。
着物を買ったり、草履を買ったりするときもそうでした。数百円で買えると言っても、今度は送り賃がかかるからやめろと怒鳴る、お箏教室で必要なんだと言っても、そんなものはいらないと怒鳴りつける。そういう人でした。
そういう人でしたから、私は正直あまり好きではありません。そういう人と顔を合わせなきゃいけないので、家族のだんらんも嫌いです。というのは、そういう時は祖父の独演会になることが多いからです。体調のこととか、経済のこととか、壊れたもののこと、食べ物のこと、そういうことを延々と繰り返して、ぜいたくは敵だとしゃべり続ける。本当に、時代が違うなと感じます。
時折、野菜を取ろうかと言われることがありますが、それは押し付けです。野菜を取ろうかと親切心で言っているのではなく、命令しているのです。この作った野菜で料理しなければだめだ!と。
でも家には野菜が多すぎて、もう捨ててしまうものだってあるんです。
祖父はそういうと、人にあげてこいと言いますが、人にあげたら迷惑だと言われて、送り返されたこともありました。
遠方にいるおばがいつまでたっても電話をよこさないと、すぐになんかいも電話をかけて、苦情が寄せられたこともあるんです。しかし、親なんだから、心配するのは当たり前だと言って、また何回も電話をして、苦情がさらにたまるという悪循環。冠婚葬祭の時になれば、過剰な祝い金やご霊前などを送ってまた苦情が来たり。家族葬で、お葬式をするからお香典はいいよと電話が来てもお構いなしでお香典を郵送したり。そういうことを誰かの許可なくやってしまうので、その関係でも苦情が来たことがありました。昔はそうだったと祖父は主張しますが、今はそんなに丁重にする必要もないと母が言ってましたよ。
このように祖父という人は、昔のままで時計が止まってしまったような。昭和の初め頃だったら通用する理屈だけで生きているような人なのでした。なんでそうなったのか私はわかりませんが、私が幼いころから、気質は変わりませんでした。
それから、もう一人の我が家の男性と言えば父ですが、祖父のリーダー的存在(実際には独裁者的存在)に初めから負けていると思っていたのでしょうか。家のことには祖父にまかせっきりで、一切かかわったことはありませんでした。父は、どちらかというと、おとなしいタイプで無口な人です。それが、何かに口を出して苦情をもらってくる祖父とは正反対です。母はそういうところがいい人だと思って結婚したようですが、父のそのおとなしいところが、祖父の暴走をとめられなかったという気がいたします。ただ、祖父の言うことにうんうんとしたがって、自分は会社でお金の製造マシーンとなればそれでいい。それくらいしか考えていなかったのでしょうか。父は、私たちでは婿養子です。だから、初めのころ、祖父にさんざん言われてすごく戸惑ったのでしょう。それで、関わらないほうが、このうちでやっていけるとでも思ったのではないでしょうか。私が幼いころは、仕事がない時は、木工教室などに行ってしまって、家にいないでいました。あるいは、金魚の世話に熱中していて、家の行事には一切かかわりませんでした。
そんな父と祖父が直接ぶつかったのは、私が進学先を決めた時でした。祖父は、音楽なんて何をばかばかしいと言いましたが、父は本人の意志だからとしてくれたのです。そこは本当に感謝しています。そのおかげで私は音楽学校まで行かせてもらえたので。
しかし、音楽学校に行った後、私は病気になってしまって、しばらくお箏教室に通うしか外出できないでいました。これで祖父は、やっぱり自分のほうが正しかった、自分の言う通りにすれば、良かったんだと父や母や私をずいぶん責めました。私もこれのせいで自殺未遂もしましたし、それ以降も、父と祖父が話し出すと、大ゲンカのようになるので、とてもその場に居合わせることはできません。
その状態が10年以上続いて、その間に祖母が亡くなりました。それはかなり大きなものだったと思います。それから、祖父はさらに頑固になって人の言うことを聞かなくなりました。さらに大声を出して、さらに暴力的と言えるまでなりました。ちょっとでも、母や父が何か持ち掛ければ、大ゲンカです。先月五月にも、うちでやっている田んぼの田植えをめぐって大ゲンカを起こしました。祖父によると、もう手伝わせているから田植え機の操作の仕方とか覚えていて当然だというのですが、父は、教えてもらったわけではないから、わからないと言ったのですが、それで大ゲンカに。
母は、仲裁をしていましたが、今にも泣きそうでした。結局田植えはできたのですが、これからさきが心配でなりません。
そういうことでやっと、父が祖父に歯向かうようになりましたが、まだまだ序の口です。
昨日は庭の植木職人に電話を掛けろ、と怒鳴って母に無理やり電話をかけさせたそうです。
もう、80をとっくに越しているのに、ばてるどころか、人の言うことも聞かないで、勝手に何かやって、疲れれば人に当たり散らして、自分の言うように周りが運ばないと激怒する。そして、部屋に飾り物でも置こうと思えば、ぜいたくは敵だと言って怒鳴りつける。なので、私たちは、かわいらしいものを持つことができないのです。
私は、お箏教室に行くとき、着物で行くことが多くなりましたが、それもすごくいやそうな顔しますしね。以前は洋服きるとすごく喜んでいましたが、私にとっては、着物を否定してそっちの方へいけという魂胆が見え見えだったので、洋服はほとんど着なくなりました。足が悪かったり、色いろ理由があるんですがこれは割愛します。
本当に、なんでも思い通りに暴力的に従わせる祖父と、無力で単に金の製造マシーンとしか思っていない父。
私の身の回りにいる男性はこの二人だったのでした。
おかしな人たちです。

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