吉屋信子と杉山平助の紙上バトル

江戸川ばた散歩

7.そもそもの菊池寛の行動は

菊池寛が先に難民に金を与えた、というエピソードは昭和十三年時点の杉山の「日記」(資料9)に存在する。

>資料9 杉山平助「日記」(『揚子江艦隊従軍記』第一出版社 昭和十三年十二月)

(……)文学者一行は、武穴を見学す。花柳街の発達した、ナカナカ洒落た町であるさうだが、人影ほとんどなし。人家の器財また完全に空しいのは、ずゐ分と前から、逃げ仕度をしてゐたものであらう。それでゐて肝心の塩を、七千俵もおき忘れてゐる由。
生まれて間もない赤ん坊を抱いてゐた老婆あり。菊池寛が銭をやつてゐた。哀れな子供たちあり、麻屋や紺屋の覆い街である。河岸の陸戦隊本部で昼食する。(……)
(p314-315)

その後で、なおかつお喋り入りで、という記述に関しても、これは吉屋が欧州に滞在した時の『異国点景』に収録されているエピソードとも何処か共通する部分が感じられる(資料10)。

>資料10 吉屋信子「靴屋の飾窓」
(『異国点景』民友社 昭和五年六月)

明日はニースへ旅立つといふ日、私はいさゝかの旅支度の用意に買物に出かけた、買い物の包みを重くさげて帰る頃、もう街には灯がついて居た、旅で履く踵の低いスポーツ型の靴がふと欲しくなつて、六時までに僅な間があるのを幸ひ、通りがゝりの靴屋へ飛び込んだ、もう少しで店の戸はおろされる前だつた、外套や帽子の色に合つた望通りのを買つていそいそ出かけた時、私はふとその店の飾窓の前に立つ人影を見出した、靴屋の大きい窓飾には上から下までぎつしり靴の雨の降るやうに飾りつけてあつた、その靴屋はそんなにブルヂヨア専門でなく普通の店なので、実用的なのが多くならんで居た、その飾窓の前に立つて喰ひ入る様に見つめて居るのは黒いうす汚れた襟のあたり垢と古さでよれよれになつた薄いマントウをぼそぼそと身につけて、手には汚い汚い口金の半分とれたハンドバツクとそして恐らくパンの包みであらう、がさがさとした新聞紙包を後生大事に胸のあたりに抱え込んで居る、十一月末から四月始めまで、ほとんど太陽の無い都になる巴里の此の二月の夜、その身なりでどんなに寒いか、毛皮のマントウに身をくるんでゐる私だちもまだ寒がるものを、そして彼女は帽子もかぶつてはゐない、埃にまぶれた金髪が少しく乱れたまゝだ、巴里で帽子なしで歩く女が恐ろしく賤しいものにされてゐるならひだのに、そして彼女の顔にはむろん白粉もなく、労働と貧しさと生活苦と孤独の悲しみと、そんなものゝ陰がぎぢやぎぢやに乱暴に刻み込まれ叩きこまれ押しつぶされた、おゝその顔の中の彼女の眼は今燃えるやうにぢいつと飾窓の中を見入つてゐるのだ、彼女の視線の焦点となるところには、此の店でも一番安い靴であらう、たゞの黒皮に一つ釦の止め帯をつけた粗末な靴――その脇の小札に八十フランとしるしてある、彼女は外の高い美しい靴には眼もくれず、ひたぶるにその八十フランの最低価の靴に専念悲しげな瞳を向けてゐるのだ、彼女の双の眼から二本の腕がいきなり出てその靴に獅噛みつくかと思はれた店先の燈下のもとあかあかと照らす下に彼女の履いてゐる靴は無惨な姿を見せてゐた、踵の如き有るも無いもなく、ぴちやんこに擦りへつて足指は露出せぬばかり、靴とは名ばかりさながらよごれた古草履のやうである。
そして――彼女はついに諦め切つた顔でうなだれつ、その飾窓の前を立ち去つた、八十フランの安靴を買ふのは彼女にとつては、あまりに遠い夢なのだ――けれど花の都の巴里の巷にかゝる女性も有る事はけつして珍らしいことではなかつた。
とぼとぼと靴屋の飾窓から歩き去る彼女、歩いたとて冷たい石の舗道に足音一つ立ゝぬ踵のない破れ靴の足を運ぶ彼女の一間ばかり前に、私は歩いて居た、華やかな灯の通りから曲る――その四辻の孤燈の下にうづくまつてボロボロの毛布に身をくるめたむさい乞食の老爺が、半身動かぬ様な形でおづおづと骨ばり痩せ朽ちた手先に小さいブリキの空缶を道行く人に差し出して居た、私の前にも彼の手は空缶をさゝげ出した、私はニース行きの旅費の為にも日頃よりたくさん用意してある、ハンドバツクを開けて小銭を探した、そんな時に意地悪く重なつた紙幣ばかり手に触れて小銭が見当らない、そんな為に何秒か費やしたであらう、その時一間ほど遅れてうしろから歩いて来たあの彼女が通りかゝた、老いた乞食は彼女の前には進んで空缶を出さなかつた、それより此の老爺は私の前へまだ空缶を出して待つて居たのゆゑ、彼女は灯の下の此の哀れな老いた廃人が眼に入つた時、一瞬立ち止まつて口金の取れたハンドバツクを開けた、小銭を探す必要のない彼女はすらりと指先につまみ上げた銅貨を一つ――そして空缶はかちりと鳴つたと思ふと、彼女はもうさつさと破れ靴の音もせで歩いて去る――
私は此の時言ひ知れぬ「恥」に全身ぴしやりと打ちのめされた、かゝる恥を覚えたのは生れて始めてゞあつたらう、わなわなと震える手先に無我夢中、それが五フランか十フランかともかく一枚の紙幣を投げるやうに、そゝくさと缶の上に落すと逃げ出すやうに私は駈け出す気持だつた。
その四辻の別れ道、私とは反対の側の小路を辿りゆく彼女のうす寒いボロマントウの後姿もあゝ気のせいか意気に締まつて颯爽として――おゝ巴里女! 彼女こそ此の名のもとに呼ばるゝ女性でなくて何んであらう、そしてもしかしたら八十フランの安靴を買いかねた女は彼女でなくて私ではなかつたらうか?
明日は避寒地のニースへカーニバル祭~見にゆく嬉しい旅の前夜といふ此の身にすつかり元気も失はれて、たゞむしやうにへんに夜の寒さを覚えて、私はうなだれて、暫名残の巴里の夜道をタクシーを呼ぶ声も出ず――うなだれて歩いて行つた、抱えた買物の包はいやに重苦しかつた。
(p131-136)

ちなみに杉山は、この派遣の前、七十日という期間、濃い密度で大陸を駆け回ったり滞在したり、時には病気で寝込んでもいた。時には支那服を作って街に出歩いたこともあった。彼は大陸の庶民をこれでもかとばかりに見てきたはずである。
一方、吉屋はその十三年のレポートに(資料11)おいても分かるが、戦禍の街においてもあくまで美しいものを高め、汚いものは見ないか、貶める描写になっている印象が強い。

>資料11 吉屋信子「武穴上陸の日」『新女苑』昭和十三年十二月号

(……)その街は、相当大きな街だつた。ならぶ民家といふ民家の中の床は、皆掘り返されて、俄づくりのトーチカ化されて、こゝに敵は籠つてゐたらしい。
防空壕のトンネルに似た穴の入口には、朝顔の蔓が、からまつて、すがれてゐるのも哀れ深かつた。
その街の道は、全部石畳で、雨にもぬかるみにもならぬのは、古いローマの市街のやうで、東京郊外のぬかるみになるのよりは、はるかに文化的だと思つた。
その石畳の街路のほとりに、この街に居残つた支那の避難民の女性が屯してゐた。
あゝ敗残国の女性の、その一群の姿――私は胸が痛くなつて、そのまま立ち去りかねた。
銀貨を幾枚か、彼女らに贈つて、同行の漢口生れの支那語通訳の伊藤さんに、日本の女性として、敵国の彼女らへの同情の言葉を伝へて貰つたら、その通訳の言葉の終らぬうちに、一人のお婆さんは、へたへたと地べたに、私の足許に膝まづいて、両手を合せて、いきなり私を拝むのだつた。
私はどきまぎし、胸がいつぱいになつてしまつた。
その外に、父も母もこの戦禍で失つた孤児の女の児らも、陸戦隊の保護のもとにゐた。
支那の罪なき民衆は、いまこゝに、敵の兵隊さんの情に縋つて、安全に生活してゐる――海軍服の姿を見ると、彼らは、まるで力と頼む保護者、救世主 が現はれたやうに、奥の路地からでも、駈け出して来て、お辞儀をしたり、笑顔を見せたりする。(……)
(九月廿八日、旗艦○○にて)

彼女の大陸における滞在期間は事変前にしても決して多くはない。しかも有名人の女性であるという点から、決して危険な場所に連れて行かれることはなかったろう。
あくまで彼女が出会っているのは上層の世界の人々であり、一般の人々は風景の一つだったものだと思われる。その風景の中でも、美しい女性を中心にものを眺めている辺り、吉屋らしい。
そして全体的に、対象が『新女苑』(注/実業之友社から出されていた「少女之友」の上の年代向け雑誌。文芸色が強い)読者であることを考えてのこともあるだろうが、よくも悪くも綺麗事である。
杉山への反駁の中でもこう書いている。

今も私は、日本の女性として、支那の女性に対し、いささかなりと心のつながれん事を、夢見る信念を持つてゐる。

「夢見る信念」というところに吉屋の行動規範の中心が感じられる。
現状に不満を持ち、高い理想を掲げ、それをこの時代、小説にルポに描いて行ったのだろう。
それはそれで一つのあり方だったろう。だが杉山にとっては甘く、有害とも感じられる程腹立たしい行動だったのだろうと考えられる。

「エッセイ」の人気作品

コメント

コメントを書く