吉屋信子と杉山平助の紙上バトル

江戸川ばた散歩

4.更に杉山「大根一束三文」という文章。

更に杉山は昭和十六年一月号で、吉屋を中心として上司小剣等、自分に反論した者に対し、「大根一束三文」という題の文章で更に応えている。(資料6)

>資料6 杉山の反論 『改造』昭和十六年一月号「大根一束三文」

(……)私自身が果して、吉屋女史の云ふ通りの人間であるかどうかという点にこはれを世間の批判に委せるより外はない。その前に、私が吉屋さんに注意しておいてあげたいのは、あなたはいつも、さういふ見識のないものゝ云ひ方ばつかりしてゐるから、いつまでたつても幼稚で、我々の話相手になれないのである。
それでは、あたかも悪いことをして先生に叱られた女学生が、これは自分一人だけがやつたのではない、誰々さんやりましたア、と泣きわめいてヒステリーをおこしてゐるのと、何の区別もないではないか。
もしも吉屋女史が、本当に私を論駁しようとするなら、さうだ、自分はたしかにその通り行動した。それがナゼに悪いのか。むしろ杉山こそ怪しからんことを云ふではないか、と云つてネヂ返して来るのでなければ、本筋ではないのである。自己の行動に自信のある人間なら、さうすべきなのである。
おそらくパール・バックや宮本百合子ぐらゐの女性なら、必ずその方面から、私に、反撃を加へて来たであらうと思はれる。
ところが吉屋女史には、そこまで問題を突つ込んでゆく脳力がない。そこで、いつまでたつても、女学生の口喧嘩みたいな、低級なところで、お相手しなければならないと云ふわけである。
支那の避難民に、物をほどこしたり、親切らしい言葉をかけてゐたのは、たしかに吉屋女史ひとりではない。菊池寛も外の文士もそれをやつた。さういふ私までが実は銭を与へてゐる。
それに私は、何故に外のものを問題にせず、吉屋女史だけを、槍玉にあげたのか?
私はかの女の態度のうちに、私が現在、最も嫌悪している日本の通俗的ヒユウマニストの骸骨を、その最もティピカルな形で看取したからに外ならない。小知恵と打算と形式的倫理はこれを具へてゐても、魂の真底から湧き上がつて来る人間としての同痛感も、すゝり泣きも、空虚にひからびてゐるその精神に、私は嘔吐をもよほしたのである。
私は、よくおぼえてゐる。文士連中のうち、真先に避難民に金を与へたのは菊池寛であつた。その時彼の表情には、真底からの惻隠の情がアリアリあらはれてゐた。彼は、例のボヤボヤした冴えない態度で、黙つて、難民に銀貨を与へていた。
その姿は私を感動させた。菊池という人物の真のよさが、そこに蔽はれるところなくあらはれてゐたのである。
それから間もなく、吉屋女史も、五十銭紙幣をふりまはし始めたのだ。かの女特有のペチヤクチャした調子の文句入りで。
それが私に、ヘドの出るやうな嫌悪の念を催させたのである。
これはいつたいどういふわけであらう。二人の人間が、外面的には全く同じ行動をしたのに、私はその一人にはむしろ感服し、他の一人には、嫌悪をおぼえて、これを罵つたのである。
形式的に物を見ることしか知らない人は、これをもつて、私を不公正な、卑劣な人間と考えるかもしれない。いはんや吉屋女史が、憤懣やる方なく、あらゆるヒス的絶叫をもつて、私を罵り返すことは、まことに無理からぬ話である。
しかしながら、私は文学者としての私の存在を賭けて云ふ。私は単なる眼に見える形式的なものより、私自身の直覚を、常に信頼するものである。私は、うそとまことを見わける眼力を力として、この世に生きてゐるものである。
私のこの言草について、さういふ主観的な独断を、無闇にふりまはされては堪らないと抗議する人も、或はあるかも知れない。それに対しては、吉屋女史に対する私の観察の誤りのないことを証明する、二三の客観的事実をあげられないわけでもない。しかしそんなこととは末の末なのだ。
それ以上のことは、いくら説明しても、分らない人には分らないのである。
たゞ吉屋女史が、女性としての劣性錯綜に帰同する被害妄想を一掃してあげるため、あの一行について、私が罵つたのは、何もか弱い女である吉屋女史一人でない、といふ事実を語つて見せる必要はあるかも知れない。
たとへば、私は昭和十五年新年のやまと新聞の津久井龍雄との座談会で、次のやうなことを述べてゐる。(……/引用)

こゝでは、私は男の連中の腰投げぶりは罵つてゐるが、吉屋女史なぞは女だから無理はないとして、数の中に容れてゐないのである。
いづれにせよ、私は、相手が女だらうが、男だらうが、強からうが、弱からうが、敵だらうが、味方だらうが、自分が真実だと思ふことは云はずにはゐられない人間だ。さうして、そのうちに、自分の社会的役割の一部に認めてゐるものだ。今のところ、文壇を見まはして、私がこわいと思つて気がねする人間などは一人もゐない。屑々たる文壇的勢力の向背などを眼中におくべくは、私はあまりに気位が高すぎる。
この私をつかまへて、吉屋といふ人も、また途方もない云ひがゝりをつけて来たものである。
(p248-250)

これもまとめてみる。

一、吉屋は前号でこう言った。
二、だがその論法はまるで女学生のヒステリーだ。
三、確かに他の人々も同じことをしていた。だが吉屋の行動の中に特に自分の嫌悪する部分が見られたので例に挙げた。
四、自分は自分のものの見方に自信を持っている。
五、女性だからと言うならば、以下の例もある。
六、ともかく自分は誰であろうと言うことは言う。

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