吉屋信子について書いたあれこれ

江戸川ばた散歩

大正15年2月の手紙/「そのうち法を改正させるつもりだが」

>​​家が出来たら私は分家し 戸籍を作って全く独立して千代ちゃんを形式上養女の形(これより外に形がなからう まさか妻として入籍させるわけにもいくまい ここが現在の法律の困るところ そのうち 私は法を改正させるつもりだが)で入籍し 二人の戸籍と家を持つことにする そうきめた
それにしてもずゐぶん大きな養女でをかしいな 養女にもらつても大塚の方への経済的補助ならさし支へなく 円満にきめたい 結婚披露と同じやうに養女披露をするつもりだ 形式上はどうであれ 二人にとつては結婚披露なのだから うんと盛大にやりたい 三宅やす子さんとしげりさんには媒酌人をお願ひするつもり その時の披露の裾模様はどんなのが似合ふのかなあ 千代ちやんのは大奮発する



大正14年2月(文脈からするとこの時期)の手紙。吉武輝子『女人 吉屋信子』 から。
ディズニーランドの二人ウェディングドレス、と思い出させますなあ。そこまでこの時代で発想が飛ぶのは凄いと素直ーに感嘆しますぜ。(結局このひと達は別れたわけだが)
ちなみにこの時期、吉屋信子とパートナー門馬千代さんは、東京と下関に離れて暮らしてました。
離れていた十ヶ月間の手紙の応酬は激しかったようで。
まあ現代だったらひっきりなしのメールってとこでしょうか。送ったあとにまた電報、ってこともあったようですし。
『女人』読むと、その凄まじさがよーく出てます。
で、上の手紙に(たぶん)対する千代さんの返事。



> おかしな手紙有難う。だけどいやよ。養女なんて私、いやよ。そんな事きらひ。私はこのままで好いのよ。あなた戸主におなりになる事は好いけれど、そんな事考へるなど、戸籍なんて何? おまけに裾模様なんてほんとにいやな人だこと。私、社会的に公表するつていふのもいやよ。
私は静かな隠棲が好きなんですもの、つまらない、つまり私、東京つていふ巷の中にかくれすみたいと思つてゐるだけよ、私達が何も社会的に結合を認識して貰はなくたつてちつともかまはないぢやないの、まさか内縁ぢやなし、二人とも独立した人間である法がどんなに好いか――それだからつて私、自分の独立を失ひたくない、あなたに隷属するのがいやといふのぢやありませんの、私達はもつと社会の規範の外に出て、私達には私達自身の独自な結合の形式があり、それは社会の如何なる力、これを認識し或いは否定する――それらの力に依りて左右される事のない、つまり社会的形式を無視し、社会的勢力の外にありたいと思ふの。
私の大好きなおとぎ話しの女王様。
あなたは何て大きな子供でせう。いつまでおままごとをしてゆくおつもりですの。(中略)私、多分世間に出たいなどと思ひませんし、二人の社会的の位置なり職業なり傾向などすら差異があつて少しもかまはないと思ふの。
そんな事気にいちやいやよ、それより馬鹿げたことで世間の非難を受けて貴い生活を乱したくないと思ふ。要心だけが、私の世間に対してもつ関心なのです。



こっちは田辺聖子の『ゆめはるか吉屋信子』上巻 から。(中略)もそのまま引用。
ただしこっちでは大正13年9月28日となってます。……はははは。なお、句読点の違いは引用した本の記載に従うとこうなるという。

で、だ。
まあちょっとこれには疑念がありまして。
個人雑誌『黒薔薇』が大正14年1月~8月発行なんですね、
で、『女人』では『黒薔薇』を出した後の話として、共通の友人である山高しげりが千代さんが東京で仕事ができるように、と画策してくれて何とかなったのが、2月。
(遠くに離れて暮らすのを嘆くばかりで実際にどうすればいいのかを思いつきもしなかった、的な描写が……)
その文脈で置かれている手紙文なんですわ。日付的には14年2月だと思うんですが!!
ただ田辺聖子はこう書いてもいるんですね。



>文中の<裾模様>とあるのは、あるいは信子から養女縁組披露宴でもやって裾模様の着物を千代に着せようという提案でもあったろうか。信子のその手紙は失われているが、ここでは千代の<社会的例外>とでもいうべき、二人の関係についての見解が述べられている。



ここで「失われている」というのがミソでして。
『女人』はまだ千代さんが存命中に見せてもらった手紙が中心なんですな。
一方の『ゆめはるか』は亡くなってのち。
この二冊に書かれている「残された手紙数」が違っておりまして、『ゆめはるか』の方が少ないんですわ。
となると、千代さん亡くなった後に、処分された手紙というのもやっぱりある、と考えられます。
もっとも、田辺聖子が『女人』読んでいないはずはないから、明らかに同性愛!って書き方を避けたためにあえて出さなかっただけかもしれないけど。そこんとこは判りません。

それに吉屋信子の「手紙」や「日記」は研究者泣かせでありまして。
神奈川近代文学館には「日記」が当たり障りのないのが少しあるだけで、(それでも何処そこへ行った、とか誰それと会った、とか多忙なスケジュールとかが判るのでそれはそれで貴重なんですが)手紙は全く無いんですね。はあ。

吉屋信子というひとは日記魔で、昭和13年くらいからずーっと死ぬまでつけてるんですよ。
だけどそれらは遺族との関係で公開されない。
断片が見られるのはこの『女人』『ゆめはるか』だけなんですね。

ただこの二つの伝記の中でも、吉武輝子は「信子と千代は同性愛カップルだった」と明確になる様なものを(おそらくは千代さんが認めた上で)出しているのに対し、田辺聖子は「強い友愛」でまとめたい様な趣があって、どうしても手紙の選び方もそうなってしまっていると感じてしまう訳で。
こういう時、ホントに一次資料が欲しいよなあ、と思ってしまう訳です。

だってですねえ、色々あるんですよ。日記があれば~と思うのは。
フツーにヲチ的興味からしたら、昭和25年の「吉屋信子邸内毒殺未遂事件」はどうだったのか、とか。
真面目にテキストクリティークの立場から言えば、戦前戦後で書き換えられた小説の意図はどうだったのか、というのがもっと判りやすくなる、とか思うんだけど、そいうのがやっぱり藪の中で、結局「……と思われる」「ではないだろうか」だとしても、近づくことすらできないって感じでー。

まあそれ以前に吉屋信子をもっと知ってくれよ皆さんおい、という感じなんですが(笑)。
……と、ついこの問題に関しては熱くなってしまうぜ。
ともかく、この二つの伝記は摺り合わせて読むと見えてくるものがあるぜ、ということです。​​

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