ラヴ・パンデミック
下
すぐそこの角を曲がった先だ。先回りされたか。
しかし相変わらず後ろからも足音が聞こえる。
追っ手は複数チームに分かれていて、挟み撃ちにされたのかもしれない。
暗がりの中、逃げ場はない。
前からくる足音が大きくなり、角を曲がった。
俺たちの顔にサーチライトが当てられる。
暗がりに目が慣れてきていたので、一瞬、その眩しさに何も見えなくなる。
俺は両手を挙げた。
万事休すだ。
息が止まり、呼吸ができない。
「誰なの? あなたたち」
女性の声がした。
声の感じからして、年齢は結構行ってる。
まだ目は回復していないので、よく見えない。
「とにかく、こっちに来て」
腕を引っ張られた。
どこにいるのかわからない。
とにかく、しゃがまされた。
おそらくあの角の向こう側にいるのだろう。
息をひそめる。
目蓋の向こうが暗くなる。
サーチライトは消されたようだ。
俺たちを追ってきたであろう足音がだんだん近くなってくる。
そして、すぐそこまで。
角を曲がる気配がした。
パンッ、パンッ、と乾いた音が近くで聞こえ、次いで、何か大きなものが二つ、倒れる音がした。
由記が逮捕されたニュースが報じられた。
由記は逃げられなかった。
由記はどうなっただろうか。
拘留されているだろうか。
それならまだいい。
社会の転覆を企んだ、謂わばテロリストなので、死刑になってもおかしくない。
由記の機転がなかったら、俺たちもそうなっていた。
俺たちは由記に生かされたのだ。
俺たちは今、あの地下道から更に潜った地下にいる。
驚いたことに、地下には街があった。
元々あった施設を利用して住んでいるようだ。
俺たちを政府の人間から助けてくれた女性が連れてきてくれた。
俺たちの恩人は桐林聖子さんという人だ。
若い頃はさぞ可愛かったろうと思わせる鼻筋の通った綺麗な人で、誰かに似ている。
詳しくは思い出せないが、女優にでもいそうな顔立ちだ。
年の頃はやはり大体四十歳といったところだった。
ただ、正確な年齢はわからない。
聞いてみたのだが、「女性に年齢なんて聞くもんじゃないわよ」というわけのわからない理由で教えてくれなかった。
女だろうが男だろうが年齢はあるだろう。
なぜ女にだけ年齢を聞いちゃいけないのか。
全く理由になっていない。
相当癖のある人だ。
しかし、恩人であることには変わりないので、年齢を聞かれるのがそんなに嫌なら聞かないでおくことにした。
いずれにしろ、綺麗ではあるが、おばさんであることには変わりない。
なぜ聖子さんが俺たちを助けてくれたのかというと、実は俺たちが通って来た地上の廃墟には監視カメラが幾つか隠されているらしい。
そこに俺らの姿、次いで俺たちを追ってきた連中の姿が映されたのだという。
俺たちは悪人には見えないし、どうも黒スーツの男二人に追われているようだ、ということで一旦助けることにしたそうである。
そういや、あの二人の男はどうなったのだろう。
あの間近で聞こえた二発の銃声のような音が気になる。
「それもあの人たちの仕事のうちよ」
尋ねてみたら、そんな答えが聖子さんから帰ってきた。
よくわからなかったが、なんだか多分聞かない方がいいような話な気がした。
聖子さんによると、この地下の街には五十二世帯、九十八人が住んでいるらしい。
俺らがここに住むようになると、丁度百人ということになるそうだ。
電気は温泉を利用した地熱発電で賄っていて、もちろん温泉があるので大浴場もある。
東京の地下は温泉が豊富なのだそうだ。
食料については自給自足。
主食は大体魚で、これは海にまで通じる道があり、そこで獲っている。
また米や野菜などの穀物は室内での収穫に成功しており、生きていく分には困らないだけの量は採れるらしい。
聖子さん曰く、割と優秀な医者や研究者がいてくれるので、基本的な生活には困らないんだそうだ。
「みんな仲良くやってるし、息が詰まるような上の世界に比べれば、ここは楽園よ。ここにはちゃんとした人間の世界がある」と聖子さんは言う。
なんだかすごく薄暗いけどな。
なぜ、廃都市である東京の地下にこれだけの人が住んでいるのか、という話だが、そもそもの事の発端は二〇七四年の育児管理法の制定だった。
産まれた子供の育児・教育を一律に国が管理するというこの法律は、子供を産んだ親からすれば自分の子供を国に取り上げられるようなものだったらしい。
俺にはよくわからない感覚だが、聖子さんはそう言っていた。
そしてそれに反発した親たちがネットで署名を行うなど、この法律に対する反対運動を起こした。
しかし、その運動は政府によって抑え込まれ、あっという間に下火になっていって、結局消滅してしまった。
この間の肉欲的無政府騒動を思い出した。
政府と民衆の関係は俺が生まれてから一向に変わっていないようだ。
或いはもっと前から変わっていないのかもしれない。
そんな感じで反対運動はなくなってしまったが、この運動を通じて知り合った数人の親たちが集まり、日本を脱出しようということになった。
しかし、同じように考えたのは聖子さんたちだけではなかったようで、他のグループが次々と政府によって水際で捕まり、強制送還された。
政府はこの動きを事前に察知し、水際での監視を強めていたのだ。
そこで聖子さんたちは、今国外へ脱出するのは得策ではないと考え、大災害以来手つかずになっている東京の地下へと一旦逃げたというわけだ。
こうして、聖子さんが言うところの『地下日本』が出来上がった。
まぁ正直な話、国というよりは村といったところではあるが。
そして聞けば聖子さんは地下日本のリーダー的な役割に落ち着いているという。
とはいえ、人口も少ないし、基本的には地下日本は合議制で運営されているらしく、聖子さんはその調整役、といった感じだという。
なぜ聖子さんがそんな役回りを任されているかというと、ネットワークに精通しているかららしい。
外の情報を得ることができるからだそうである。
所謂ハッカーだそうだ。
後々丸崎が聖子さんと話をしたところ、聖子さんが自分以上のハッカーだったので驚いたそうだ。
やはり情報を握っている人間は強い、と言っていた。
また、そもそもこの地下日本というアイデアを考えついたのは聖子さんだから、というのも聖子さんがリーダー格である大きな理由であるそうだ。
こうして俺と丸崎は地下日本にお世話になることになった。
しかし着いて早々、由記が捕まったニュースを見た。
そして聖子さんに自分たちがなぜ政府の人間に追われているかを話した。
ここに至るまでの様々な経緯を話したのだが、その中でちょっと気になったのは俺と由記がセックスのデータを取る件の時に聖子さんが嫌な顔をしたことだ。
聖子さんの話を聞いて、ここの人たちはセックスを容認していると思ったのでそこは意外だった。
そんな感じで一通り俺たちの話を聞き終わった聖子さんは、しばらくじッと俺の顔を見たまま黙っていた。
何かを確かめるというか、見極めようとしてるというか、それでいてどこか熱心というか、そんな目だった。
なんだなんだ、と戸惑っている俺に聖子さんが尋ねた。
「あなた、お尻にホクロが三つ並んでる?」
唐突すぎるが当たってることを言った。
なんだ? エスパーか? いや、占い師かもしれない。
「あ、はい!」
とりあへず事実なので、そう答えた。
すると、聖子さんはいきなり俺に抱きついた。
「どはーっ!」
何なんだ一体?
聖子さんは俺に抱きついたまま、更に両手で俺の肩や背中を撫で回している。
横の丸崎を見ると、口を開けて、その様子を見ている。
ほとんど思考停止しているようだ。
女性に抱きつかれるのは嬉しい。
しかし、おばさんはその限りではない。
まさかこんなところで一戦おっぱじめるのではないか、そんな思いでやきもきしていたが、やがて聖子さんは俺を解放してくれた。
見ると泣いている。
何がどうした?
全く混乱してどうしようもない俺の両肩を掴んだまま、聖子さんは衝撃の一言をくれた。
「あなたを産んだのは、私なの」
そして、また俺を抱きしめた。
しかし相変わらず後ろからも足音が聞こえる。
追っ手は複数チームに分かれていて、挟み撃ちにされたのかもしれない。
暗がりの中、逃げ場はない。
前からくる足音が大きくなり、角を曲がった。
俺たちの顔にサーチライトが当てられる。
暗がりに目が慣れてきていたので、一瞬、その眩しさに何も見えなくなる。
俺は両手を挙げた。
万事休すだ。
息が止まり、呼吸ができない。
「誰なの? あなたたち」
女性の声がした。
声の感じからして、年齢は結構行ってる。
まだ目は回復していないので、よく見えない。
「とにかく、こっちに来て」
腕を引っ張られた。
どこにいるのかわからない。
とにかく、しゃがまされた。
おそらくあの角の向こう側にいるのだろう。
息をひそめる。
目蓋の向こうが暗くなる。
サーチライトは消されたようだ。
俺たちを追ってきたであろう足音がだんだん近くなってくる。
そして、すぐそこまで。
角を曲がる気配がした。
パンッ、パンッ、と乾いた音が近くで聞こえ、次いで、何か大きなものが二つ、倒れる音がした。
由記が逮捕されたニュースが報じられた。
由記は逃げられなかった。
由記はどうなっただろうか。
拘留されているだろうか。
それならまだいい。
社会の転覆を企んだ、謂わばテロリストなので、死刑になってもおかしくない。
由記の機転がなかったら、俺たちもそうなっていた。
俺たちは由記に生かされたのだ。
俺たちは今、あの地下道から更に潜った地下にいる。
驚いたことに、地下には街があった。
元々あった施設を利用して住んでいるようだ。
俺たちを政府の人間から助けてくれた女性が連れてきてくれた。
俺たちの恩人は桐林聖子さんという人だ。
若い頃はさぞ可愛かったろうと思わせる鼻筋の通った綺麗な人で、誰かに似ている。
詳しくは思い出せないが、女優にでもいそうな顔立ちだ。
年の頃はやはり大体四十歳といったところだった。
ただ、正確な年齢はわからない。
聞いてみたのだが、「女性に年齢なんて聞くもんじゃないわよ」というわけのわからない理由で教えてくれなかった。
女だろうが男だろうが年齢はあるだろう。
なぜ女にだけ年齢を聞いちゃいけないのか。
全く理由になっていない。
相当癖のある人だ。
しかし、恩人であることには変わりないので、年齢を聞かれるのがそんなに嫌なら聞かないでおくことにした。
いずれにしろ、綺麗ではあるが、おばさんであることには変わりない。
なぜ聖子さんが俺たちを助けてくれたのかというと、実は俺たちが通って来た地上の廃墟には監視カメラが幾つか隠されているらしい。
そこに俺らの姿、次いで俺たちを追ってきた連中の姿が映されたのだという。
俺たちは悪人には見えないし、どうも黒スーツの男二人に追われているようだ、ということで一旦助けることにしたそうである。
そういや、あの二人の男はどうなったのだろう。
あの間近で聞こえた二発の銃声のような音が気になる。
「それもあの人たちの仕事のうちよ」
尋ねてみたら、そんな答えが聖子さんから帰ってきた。
よくわからなかったが、なんだか多分聞かない方がいいような話な気がした。
聖子さんによると、この地下の街には五十二世帯、九十八人が住んでいるらしい。
俺らがここに住むようになると、丁度百人ということになるそうだ。
電気は温泉を利用した地熱発電で賄っていて、もちろん温泉があるので大浴場もある。
東京の地下は温泉が豊富なのだそうだ。
食料については自給自足。
主食は大体魚で、これは海にまで通じる道があり、そこで獲っている。
また米や野菜などの穀物は室内での収穫に成功しており、生きていく分には困らないだけの量は採れるらしい。
聖子さん曰く、割と優秀な医者や研究者がいてくれるので、基本的な生活には困らないんだそうだ。
「みんな仲良くやってるし、息が詰まるような上の世界に比べれば、ここは楽園よ。ここにはちゃんとした人間の世界がある」と聖子さんは言う。
なんだかすごく薄暗いけどな。
なぜ、廃都市である東京の地下にこれだけの人が住んでいるのか、という話だが、そもそもの事の発端は二〇七四年の育児管理法の制定だった。
産まれた子供の育児・教育を一律に国が管理するというこの法律は、子供を産んだ親からすれば自分の子供を国に取り上げられるようなものだったらしい。
俺にはよくわからない感覚だが、聖子さんはそう言っていた。
そしてそれに反発した親たちがネットで署名を行うなど、この法律に対する反対運動を起こした。
しかし、その運動は政府によって抑え込まれ、あっという間に下火になっていって、結局消滅してしまった。
この間の肉欲的無政府騒動を思い出した。
政府と民衆の関係は俺が生まれてから一向に変わっていないようだ。
或いはもっと前から変わっていないのかもしれない。
そんな感じで反対運動はなくなってしまったが、この運動を通じて知り合った数人の親たちが集まり、日本を脱出しようということになった。
しかし、同じように考えたのは聖子さんたちだけではなかったようで、他のグループが次々と政府によって水際で捕まり、強制送還された。
政府はこの動きを事前に察知し、水際での監視を強めていたのだ。
そこで聖子さんたちは、今国外へ脱出するのは得策ではないと考え、大災害以来手つかずになっている東京の地下へと一旦逃げたというわけだ。
こうして、聖子さんが言うところの『地下日本』が出来上がった。
まぁ正直な話、国というよりは村といったところではあるが。
そして聞けば聖子さんは地下日本のリーダー的な役割に落ち着いているという。
とはいえ、人口も少ないし、基本的には地下日本は合議制で運営されているらしく、聖子さんはその調整役、といった感じだという。
なぜ聖子さんがそんな役回りを任されているかというと、ネットワークに精通しているかららしい。
外の情報を得ることができるからだそうである。
所謂ハッカーだそうだ。
後々丸崎が聖子さんと話をしたところ、聖子さんが自分以上のハッカーだったので驚いたそうだ。
やはり情報を握っている人間は強い、と言っていた。
また、そもそもこの地下日本というアイデアを考えついたのは聖子さんだから、というのも聖子さんがリーダー格である大きな理由であるそうだ。
こうして俺と丸崎は地下日本にお世話になることになった。
しかし着いて早々、由記が捕まったニュースを見た。
そして聖子さんに自分たちがなぜ政府の人間に追われているかを話した。
ここに至るまでの様々な経緯を話したのだが、その中でちょっと気になったのは俺と由記がセックスのデータを取る件の時に聖子さんが嫌な顔をしたことだ。
聖子さんの話を聞いて、ここの人たちはセックスを容認していると思ったのでそこは意外だった。
そんな感じで一通り俺たちの話を聞き終わった聖子さんは、しばらくじッと俺の顔を見たまま黙っていた。
何かを確かめるというか、見極めようとしてるというか、それでいてどこか熱心というか、そんな目だった。
なんだなんだ、と戸惑っている俺に聖子さんが尋ねた。
「あなた、お尻にホクロが三つ並んでる?」
唐突すぎるが当たってることを言った。
なんだ? エスパーか? いや、占い師かもしれない。
「あ、はい!」
とりあへず事実なので、そう答えた。
すると、聖子さんはいきなり俺に抱きついた。
「どはーっ!」
何なんだ一体?
聖子さんは俺に抱きついたまま、更に両手で俺の肩や背中を撫で回している。
横の丸崎を見ると、口を開けて、その様子を見ている。
ほとんど思考停止しているようだ。
女性に抱きつかれるのは嬉しい。
しかし、おばさんはその限りではない。
まさかこんなところで一戦おっぱじめるのではないか、そんな思いでやきもきしていたが、やがて聖子さんは俺を解放してくれた。
見ると泣いている。
何がどうした?
全く混乱してどうしようもない俺の両肩を掴んだまま、聖子さんは衝撃の一言をくれた。
「あなたを産んだのは、私なの」
そして、また俺を抱きしめた。
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