ラヴ・パンデミック

ロドリゲス

由記は黙ったままだ。
俺からは背中しか見えないし、正面から見たとしてもヘルメットを被っているので、いずれにしろ表情はわからないだろう。
ただ、俺が腕を巻き付けている腰、そして背中からは特に動揺は感じられない。
淡々とバイクを走らせている。
もうすっかり日は沈んでいる。
逃げるには好都合だ。
警察は俺たちが東京に向かっていることに気付いているだろうか。
由記の家を出てから二時間半くらい経った。
まだうっすらと残っている西の空の残照が、遠くに橋を浮かび上がらせている。
その向こうには直角に切り立った山が連なっているように見えるが、あれは大災害後に放置されたビル群だろう。
橋を越えれば東京だ。

「やっぱり来たか……」

由記がそう呟いた。

「え?」
「後ろ」

由記に言われるまま後ろを振り向くと、俺と丸崎が由記にKOされた時に来たのと同じ黒いバンが見えた。
しかし、まだ遠い。
何とか逃げ切れるか、と思ったその瞬間、カンッ、と乾いた金属音がサイドカーから聞こえた。

「うわっ!」

それと同時に丸崎が悲鳴を上げた。よく見ると、ライフルらしきものを構えてバンの窓から上半身を乗り出している黒いスーツの男が見えた。

「あれ銃? あれ本物?」

俺が驚いて叫ぶと、由記はそれには答えず、アクセルを全開にした。
見る見るバンが遠ざかる。
そして、黒々とした橋が急速に近づいてきた。
由記は川原の土手を乗り越えると、橋の下まで行き、そこでバイクを止めた。

「降りて!」
「何で?」
「いいから早く!」

何だかよくわからなかったが、とりあえず由記が怖いので、俺と丸崎は言われる通りにした。

「あなたたちはここで隠れていて。私があいつらの囮になるから」
「そんなこと……、」

できるわけねぇだろ、と言いたかったが、この状況では他にどうすることもできないので、それ以上何も言えなかった。由記の指示に従うしかない。

「私がここを出て、あのバンが私を追いかけてしばらくしたら、上の橋を渡ってもいいし、川を泳いでもいい。やり方はあなたたちに任せるから、とにかく東京を目指して。なるべくここから遠い方がいい。地下街とか、地下鉄とか、とにかく地下に潜れる場所。上からは、多分衛星で見つかるから、とにかく地下へ」
「わかった……」
「それから、」
「おぉ、」
「本当にごめん」
「え?」
「じゃ、」
「あのお前も……」

早く来いよ、と言いたかったが、あっという間に由記は行ってしまった。
何とも情けなかったが、俺たちは橋の端っこ、橋と地面の間に挟まるようにして身を隠した。
なんだか自分たちが、ほとんど廃墟になった橋のシミにでもなった気分だ。
ややあって、あのバンが俺たちのすぐそばま来て、タイヤを軋ませながら走り去る爆音が聞こえた。
本当に一瞬だったが、生きた心地がしなかった。
それからどれだけ経ったろうか。
あたりはすっかり静かになって怖いくらいだったが、なかなか立ち上がれない。
恐怖で身がすくんでしまている、というのもあるが、情けなくて寂しかったから、というのが最も大きな理由だったと思う。

「ねぇ、」

最初に口を開いたのは丸崎だった。

「え?」
「どうやって向う行く?」
「うーん……、泳ぐか」
「えー!」
「上行くよりは見つかりにくいんじゃね?」

とにかく、あのバンが走り去った現場を見たくはなかった。

「まぁ、そうかもね……」

俺たちはようやくおずおずと立ち上がり、川辺に行った。
靴と靴下を脱いで川に足を浸す。

「サミーッ!」

俺の悲鳴が夜の川に響き渡ってしまった。
横を見ると、丸崎も足を川に浸して、「ひぃ!」と情けない声を上げている。
お互い顔を見合わせて、無言で靴下と靴を履き、土手を上って橋へ出た。
橋の真ん中らへんには鉄条網が張り巡らせてあった。
但し、それほどガッチリしたものではなく、一応付けました、ってな風情のものだ。
こんなとこ、好き好んで来る奴など、普通に考えたらいない。
しかも、来たところで危険しかない。
警備も甘いのは当然のことなのかもしれない。
だから、シュッとした奴なら難なく鉄線と鉄線の間から向こうへ抜けられるだろう。
しかし、俺たちはデブとデカだ。
全く通れない。
仕方がないので、棘に注意しつつ、鉄線を上下に曲げ、何とかスペースを作った。
それでも俺は服を破いてしまい、丸崎はシャツとズボンの間から出ていた背中を切ってしまった。
「痛いヨー」と情けない声を上げているが、見ると大した傷ではないので我慢させた。

そこから先は順調と言えば順調で、辛いと言えば辛かった。
特に「敵」に見つかることもなかったが、徒歩での移動は正直キツい。
二時間くらい歩いただろうか。
俺はまだ余力があったが、丸崎はとうの昔に限界を越えていたようだ。
「もう許しテー」と悲鳴を上げている。
仕方がない。一旦小休止だ。
段差になったところへ腰を下ろすが、如何せん埃だらけだ。
いや、埃というより灰だろうか。
手を着こうものならこびりついてしまう。
東京に入ってからこんな調子なので、いい加減喉が痛い。
マスクを持って来ればよかった。

それにしても高いビルが並んでいる。
そもそもこれだけ高いビルを見ること自体、初めてだ。
俺が今まで見た一番高いビルは、俺が捕まっていたあのビルで、それでも十階はなかったと思う。
それ以外のビルと言えば学校で、それもせいぜい三階建てだ。
今、俺の回りにあるビルは十階建てはザラで、二十階を優に超えるビルも珍しくない。
そしてそのどれもが廃墟と化していて、今にも倒れてきそうで怖い。
というより、半分以上は倒れていたり、隣のビルに寄りかかっていたりする。
地下への入り口らしきものも多くなってきたので、早いとこ地下に入りたいが、なるべくあの橋から離れたい。
もう少し歩くか。

そう思った時だった。
足音が聞こえたような気がした。
俺は耳を澄ませた。

「どうしたの?」
「ちょっと黙ってろ」

やはりそうだ。
微かだが、確実に音が大きくなっている。
俺は丸崎にこのことを耳元で小声で知らせ、近くの地下道へ逃げることにした。
しかし、こんな時に限って入り口らしきものはない。
俺たちは音を立てないよう、できるだけ静かに移動した。
少々移動速度は遅くなるが、音を立てるよりは安全だ。

しかし、逃げても逃げても、俺たちを追う足音は消えない。
的確に俺たちの後を追って来る。
足音はだんだん大きくなっている。
間合いは詰められている。

ようやく、地下道への入り口らしきものを見つけた。
中に入り、物陰に隠れ、今来た道を見てみると、サーチライトを片手に持った黒いスーツの男が二人、俺たちの後を追ってきている。
見ると、サーチライトで地面を注意深く照らしている。
そうか、足跡だ!
この灰のせいで俺たちの足跡が残っているのだ。
それを目印に俺たちを追っているのだ。
こっちを見た!
ヤバい!

俺たちの姿を確認したとは思えないが、どっちにしろ同じことだ。
俺たちの居場所を特定された。
しかし、今ここを飛び出せば、間違いなく捕まる。
いや、殺されるかもしれない。
ヤバい! 真っ直ぐこっちに向かって来る。
仕方がない。中がどれくらいの広さかわからないが、奥へ行くしかない。
俺は若干嫌がる丸崎を引き連れ、暗闇の広がる地下道の奥へと進んだ。

何も見えないので、壁を手探りで進む。
「ヌルヌルするゥー」と情けない声を上げる丸崎だが、百パーセント同情しつつ、先を急ぐ。
いやあしかし、気持ち悪い。
見えないから余計だ。
俺は何か変なものを触っているかもしれない。
そうこうするうち、俺たちがいた階段を駆け下りる音がする。
ヤバい、急がないと!

壁の感触を手掛かりに角を幾つか曲がる。
その間にも足音は確実に近づいてくるようだ。
地下道にも足跡は点いているのだろうか。
向こうはサーチライトを持っているので、その分のアドバンテージがある。
追いつかれるのも時間の問題かもしれない。
それでも俺たちは先を急ぐ。
片手は壁に手を添えて進み、片手は丸崎の手を握り、はぐれないようにする。

そんな中、一縷の望みが出てきた。
大分粘った甲斐あって、暗闇の中で目が慣れてきた。
薄ぼんやりとではあるが、壁や道の大まかな形くらいはわかるようになってきた。
もう壁から手を放しても大丈夫そうだ。

と思った瞬間、前方から近づいてくる足音が聞こえてきた。

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