ラヴ・パンデミック

ロドリゲス

翌日の朝、つまり高校に入学してから、つまり俺が校門の少女と出会ってから一ヶ月と一日が経った五月の最初の日、俺は三年の階の廊下をあてどもなくほっつき歩く作戦を決行すべく、いつもより早く起きて、訝る丸崎を置いて家を出た。
これは極秘作戦なので丸崎には内緒、というのもあるし、朝早くに行って、なるべく長い時間待ち伏せていれば、その分だけ校門の少女に会える可能性も高まると思ったからだ。
バスを降り、『散り桜参道』を歩く。人はほとんどいない。
両サイドに整然と植えられた桜の木々もすっかり緑色に変わった。
風が吹くたびに景気良く葉を鳴らしている。
入学の時以来、あれだけ長く感じ、毎朝ムカついていた参道が今日はやけに短く感じられる。
やはり緊張しているからだろうか。
時間や距離の感覚というものはその時の精神状態で随分と変わるものだなぁ、と改めて思った。
そういう風に割と客観的に感じる妙な冷静さは自分でもちょっと不思議だ。
普段はそんなことを思わないのにそんなことを思ってしまうのは、やはりそれだけ緊張しているということなのだろう。

参道を渡りきった俺はいきなり三階の廊下へと向かった。
ほっつき歩く時間は少しでも長い方が良い。
その方が校門の少女を見つける可能性が高まる。
一瞬でも早く見つけたい。
下駄箱で上履きに履き替え、バッグを肩にかけたまま、自分の教室なんかには目もくれず、階段を駆けるように上がった。
一歩一歩が重い。
階段が、参道の時とは違い、逆にえらく長く高く感じる。
「現場」に近づいているからだろうか。
一歩一歩、昇る。
作戦自体は「廊下をほっつき歩く」のに、その現場に着く前にこの体たらくだ。
先が思いやられる。
やっぱりやめようか、とすら思った。
でも、それじゃダメだと俺が言う。
二階まで上りきり、三階との間の踊り場に出た。
いよいよ次の階段を昇りきれば三年の階だ。
一歩一歩、一段一段が更に長く、高くなる。
そして頂上、三階の廊下の床が見えた。
その時である。
あの横顔が、入学式の時に俺の真横を通り過ぎた風が、その廊下を右から左へと通り過ぎた。
あの時は上から見下ろす感じ、今はちょっと下から見上げる感じではあったが、忘れもしない、間違えようもない、あの横顔である。
俺は、反射的に残りの階段を駆け上がった。
自分でも驚いた。
校門の少女が三年生だという予測は当たった。
しかし、まさかこんなに早く見つかるとは。
この一ヶ月は何だったのか。
いきなりのクライマックスのその驚きが、逆に俺を走らせたのだろう。

階段を昇りきり、すぐに角を左へ曲がると、そこに校門の少女が待っていた。
目が合った。
その時、ももよ先生の顔が頭に浮かんだ。
数秒だったか0.数秒だったかはわからないが、その体勢のまま時間と体が凍りついたように思われた。
校門の少女はスッと視線を外し、そのまま教室の中へと消えていった。


それからのその日一日、何をしたのか覚えていない。
昼メシに何を食ったのかも忘れた。どうせ牛丼つゆだくだとは思うが。
よくよく考えたら、何もマイナスなことなどなかった。
別に声をかけて、嫌な顔をされたわけでもない。
昨日と今日では何一つ変わっていないのだ。
校門の少女をもう一度見た、というだけの話だ。
会うことができた、という事実だけ見れば作戦通りだ。
それに、校門の少女の顔を初めて正面から見ることができた。
そのことを思えばプラスと言っても差し支えないだろう。
横顔も良かったが、正面から見た校門の少女は更に輪をかけて俺の理想を体現しているかのようだった。
しかしそれは至福の瞬間とは言い難かった。
あの時、吐き気にも似たものが胸の奥から湧き上がって来た。
緊張だとは思うことにする。
緊張、それだけだ。
俺は恋愛をあきらめるわけにはいかない。

その日は丸崎からの「今日はどんな映画観たい?」という問いかけに「今日はいいや」と答え、早々に寝た。
とても映画を観る気分じゃなかった。
こんな時は早めに布団に入るに限る。
どうせ布団に潜ってもすぐには寝られないのだから。


それから一週間。三年の階の廊下をあてどもなくほっつき歩く作戦を再度実行することもなく、校門の少女に再び出会うこともなく過ぎた。
正直に言うと、一週間気分がすぐれなかった。
学校には何とか通っていた。
朝起きて学校に行く気にはなれなくても、基本的には生真面目な丸崎に叩き起こされていたからだ。
でも気分は完全に滅入っていた。
マジで学校爆発しろ、と思っていた。
しかし堅牢な学校は盤石で、爆発することもなく日々が過ぎていった。
こうまで精神的にダメージを受けるとは思ってもみなかった。
やはり恋愛は恐ろしいものかもしれない。
映画を観た後、俺は一人浮ついていたが、恋愛が俺を盲目にしていたのだ。

校門の少女と目が合ったのも良くなかった。
目が合った、ということは普通に考えたら存在を認識されたということであり、向こうも俺のことを知ったはずだ。
ということは、自分のことを見て固まっている俺の不審な姿を見られたということだ。
絶対に口は開いていたと思う。
そんなクソ間抜けな姿を目撃されたかと思うと恥ずかしくてしょうがない。
もうダメだ。
アウトである。
俺の存在なんか忘れて欲しい。
つーかもう、消えてなくなりたい。

そんな感じなので、ここ一週間、家に帰っても日課となっていた丸崎所蔵の古い映画上映会もすることなく、メシ食ったらすぐに風呂入って寝てしまっていた。
いや、実を言うとメシも喉を通らず、一日に一食くらいしか食っていない。
そんな俺を見て、丸崎はしきりに心配してくれた。
風邪か病気かと尋ねたり、出前のメニューも消化の良いうどんとかお粥だったら食えるんじゃないかとか、色々と気を遣わせてしまった。
ありがたかったが、申し訳なさが先に立ってしまったし、気分も落ち込んでいたので、ちょっとつっけんどんに対応してしまうことも多かった。
そんな自分がもっと嫌になり、余計ふさぎこんで、布団に潜り込んでしまう。

それでも丸崎は俺を心配してくれた。
相変わらず朝グズグズしている俺を叩き起こしてくれるし、俺が家を出るまで待っていてくれる。
昨日なんて、一緒に遅刻までさせてしまった。
成績トップ候補の丸崎に遅刻をさせてしまったことに、さすがにこれは申し訳なさすぎるなぁ、と思った。
高校に入って最初のテストである中間テストが始まる前のこの時期、テストでトップを取り、華麗なるデビューを果たし、全校にその名を轟かせる前に遅刻という汚名を着させてしまった。
丸崎からすれば描いていた学校ライフ計画の出鼻をくじかれた形になっただろう。
いや、丸崎の描いていた計画は全く知らないし、計画を練っていたかどうかすら知らないが、多分そんな気がする。
だから、俺は丸崎に謝った。
しかし、丸崎は笑顔で「まぁ、長い学校生活、遅刻くらいするよ。それが今日だったっていうだけの話じゃん」と言ってくれた。

さすがに俺も一念発起した。
こうまで俺を気にかけてくれ、迷惑をかけてしまった丸崎に報いなくてはならん。
それにはどうすればいいか考えた。
結果、それは元気になることだと思った。
カラ元気でいいし、嘘でもいいので元気にならねばならん。

そして、俺はやはり校門の少女に想いを伝えねばならん。
これは全く丸崎とは関係のない話のように聞こえるかもしれないが、そうではない。
俺がこれだけ落ち込んで丸崎に迷惑をかけた原因は俺が校門の少女に『敗北』したからだ。
それはまさに『敗北』である。
完封負けだ。
ノーヒットノーランだったかもしれない。
だから、俺はそこに決着をつけなければならない。
いや、既に一回決着はついたので、リベンジしなくてはならない。
この場合の『勝利』とは恋愛成就ではない。
失敗していいから、相手に想いを伝えることだ。
キッチリ俺の想いを伝えられれば、最早それは勝利である。
まぁ、全く身勝手な話だが、そうなのだ。

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