ラヴ・パンデミック

ロドリゲス

俺は女が好きだ。
三度の飯よりも好きだ、と言いたいが、めちゃめちゃ腹が減ってる時はさすがに牛丼特盛つゆだくの方を選んでしまう。
女のことを考えると夜も眠れない、ことも確かにあるが、めちゃめちゃ眠い時はベッドに入ってから二秒で眠れる。
そうは言っても、メシ中に気になる女子が通りがかったら、その女子のことをチラチラと目で追ってしまい、どうにも箸が止まってしまうし、不覚にもコーヒーを飲み過ぎて眠れなくなった夜に気になる女のことが頭をかすめたら、そのまま朝を迎えて翌日の授業は眠くて仕方がなく、学校爆発しろってなるし、つまり何が言いたいかというと、俺は女が好きだ。
いや違う。
大好きだ。
俺はやはり狂っているのだろうか?



その昔、俺が生まれるはるか前、『恋愛』というものがあったそうだ。
「道徳・倫理」の時間に習ったが、二〇三〇年頃までは『恋愛』というものがあって、女が男を、男が女を好きになっていたらしいのだが、友情とはまたちょっと違った「好き」だったらしい。
多分、今まさに俺が女子に対して抱く「好き」と似通っていたのではないか、と俺は思う。
俺にだって友達はいるし、そいつらのことは好きだ。しかし、そんな男友達を見ても食事中箸が止まったりしないし、そいつのことを考えて夜眠れなくなることもない。
だから多分俺が女に抱く好きという感情は話に聞く『恋愛』というものなんだと思う。
そしてそれはかつての日本にはあったのだ。

しかし二〇九〇年の現在は『恋愛』なんてものはない。
男が一人の女を特別に好きになる。これは非常に偏執狂且つ変態的な行為であり、ありていに言えばとても気持ちが悪い、とされている。
逆、つまり女が一人の男を特別に好きになることもまた然りだ。
つまり、基本的には異性間同士で二人きり、深い関係になることは言語道断である。

もっと言ってしまうと、同性間でも特定の二人(ないしは三人など複数)で親密になるということもあまりない。
これもまた二〇三〇年くらいまでは気の合う同性同士で遊びに行く、など深く交流することも広く一般に見られた習慣らしいが、現代ではこういうことはあまりない。

現代の日本において何よりも最優先されるべきは個人の時間である。
人が二人以上集えば、必然的に個人の時間は抑制されてしまう。それはあまり喜ばしい状況ではない。
お互いの利益が一致しない限りは他人と行動を共にするということはあまりない。

それでも、同性同士であれば、今言ったように利益が一致する場合などは多少はつるむことはあるし、そのようにプライベートで会うことは多くはないにしても、皆友人自体は多い。
もちろん、学校や会社など、人が集まる場所では集団で行動することは多くなる。昔の日本に比べると人間関係は「広く浅く」なった、と言えるかもしれない。

しかし、異性間となると、学校や会社などでも余程の必然性がない限りは交流はない。自然と女子の集団、男子の集団と分かれてしまう。
水と油、陰と陽。
決して交わることがないのが女と男だ、という世界に俺は暮らしている。
そんな世の中では、俺はやはり狂っている、ということになるのだろう。

ただでさえ学校の成績は低空飛行なのに、俺が狂っているのがバレたら、学校からのドロップアウトはもちろん、社会的に抹殺されかねん。
というわけで、中三に上がった時からなるべく女子のことを好きにならないよう努めてきたし(中二の時に女好き傾向が今のところ生涯マックスひどかったので、逆に危機感を感じ、この決断を下すことができた)、女子を視界に入れることすら自らに厳しく律した。

そんな風にして女を遠ざけ(ハナから交流などないのであるが)、女のことなどまるで考えないようになった(と必死に自己暗示をかけていた)俺はこの春、高校へと進学した。
しかし、これからも自分を偽り続けなくてはならないことを思うとうんざりすることこの上なく、その上そんな世の中なのに、どういうわけか学校は小学校から高校まで、基本は女男共学である。
まぁ確かに勉強をするのに性別で分ける意味は特にないとは思うが、今の俺にしてみりゃ生き地獄だ。
いや、女子と一緒の空間に居られるのはぶっちゃけた話嬉しい。しかし、それ故に地獄であることはお分かりいただけるだろう。

そんな感じの俺なので、高校生活には特に何も期待していなかったが、現実は常に悪い予想をはるかに上回るというか下回るというか、とにかく「期待しない」とかいうような、そんな生やさしいものではなかった。
高校では幸せな不幸が舌なめずりをして俺を待ち受けていたのだ。


入学式の日、俺は両サイドに桜が植えられた長い道を歩き、学校へと向かっていた。
白いタイルで舗装された歩道に薄桃色の花びらが転々と模様を作っている。延々と続く散りつつある桜にさすがにうんざりし始めたが、まだ校門までは距離がある。

もちろん、俺だって散っていく花びらが風に乗って舞う姿は綺麗だと思うし、ありていに言えば好きだ。しかし、ものには限度がある。
桜並木の一本道がはじまるところからが学校の敷地らしいのだが、そこから校門まではゆうに三百メートルはある。こうも続くといい加減うざったい。
最終的には宙を漂うピンクの花びらもプランクトンくらいにしか認識できなくなり、空を泳ぐヒゲクジラの類が一網打尽に飲み込んでくれたら、とUMA的想像を巡らす始末である。
たかが一介の高校に神社の参道のごとき一本道が延々と横たわっているのは全く解せないが、おそらく土地が余ってるからだろう。

以前の日本は、一億を越える人口を誇っていたらしいが、この話を聞くたびに俺はぞっとする。この狭い国土にそれだけの人間がひしめいていたとは全く異常事態だ。
一体どこに住んでいたのだろうか? 想像しただけで息が詰まりそうになる。

しかしその後、順調に少子化が進み、現在は二千九百万人ほどに落ち着いている。
加えて二〇二〇年に起こった関東大震災、そしてそれに呼応するように起こった富士山の爆発で首都圏は壊滅。
日本、いや世界史を紐解いても未曽有の大惨事であったらしいが、そんな最悪な状況の中、復興と共に区画整理が行われ、現在へと至る都市の基盤が出来上がった。

その時に行われた土地利用の効率化と人口の減少が合わさり、現在では土地は余り倒している。
そのため、こんなアホな構造の高校は特に珍しくはない。
人間、余っているものを見ると無駄に使いたくなってしまうものらしい。全く愚かな生物である。

うんざり気分が一歩ごとに膨れ上がり、もうパンパンになった頃、ようやく校門に辿り着いた。
幸いにも校門から校舎まではそれほどの距離はない。
それでも小さな公園なら作れるくらいのスペースがある。
歩道と同じ白いタイルが敷き詰められただだっ広い空間で、殺風景を体現しているようだ。
噴水の一つでも置けばいいのに、と思った。

そのスペースの奥に校舎が鎮座している。塔のようになった全面ガラス張りの部分を中心に建物全体が左右対象となっている。玄関は中央部にあり、塔のテッペンにはアナログの時計が嵌め込まれ、針を刻んでいる。ガラス張りなのは真ん中の塔だけで両サイドは白い壁面となっており、そこに教室があるようだ。

俺は歩いてきた『散り桜参道』を振り向いた。何人もの生徒がまだまだ校門を目指して歩いてくる。

今日は入学式なので早めに出たが、基本俺は朝はギリギリまで寝てる派だ。このクソ長い『参道』があるために、その分だけ早く起きなくてはならないことを思うと、大変腹立たしい。
入学式の日に、まだ校門すら通り抜けていないのに、早くも高校が嫌になった。
高校なんざ早いとこ卒業したいと切に願った。

そうだ、光陰矢の如しというではないか。その言葉が頭に閃き、少し待ってみたが、俺の横を数人の生徒が通り過ぎただけだった。
何が「矢の如し」だ。全然遅いじゃねぇか。亀の如き牛歩である。
やはりそんなに早く時間は過ぎない。その時、悠久の時の流れ、という言葉が頭をよぎった。
あぁ、悠久かぁ……。
時の流れの遅さに絶望した俺はもう人生をあきらめて、校門の中へと足を踏み入れた。

その時である。
一歩足を踏み出した俺の横をさわやかな風が通り過ぎた。
しかも良い匂いを撒き散らして。
その風はダークグリーンの地に細い赤色のチェックの入った短めのスカートをひらめかせた。
白いソックスは目に眩しく、臙脂色のブレザーの背中を真っ直ぐに伸ばしてガラス張りの塔の中へと消えて行った。
同じ制服でも着る人が違うとこうも違うのか。

俺は一歩を校門の中へと踏み出したきり、しばらく動かなかった。女子を好きになってはいけない、と自分を律したからではない。
その子から目が離せなかったからだ。

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