ガチ百合ハーレム戦記

ナガハシ

リーン、俯瞰する

 アルデシアという世界は、何時、どのようにして作られたのか?
 それを知るものは誰一人としていない。
 大陸に残る最も古い史書には、およそ3000年前の出来事までが記されている。
 だが、それ以前の記録は、一切残されていないのだ。


 すべては、世界をくまなく照らす光から始まった。
 光はやがて炎を産み、炎が冷えて水となった。
 続いて風が生まれ、土が生まれて、そのうち人が現れた。
 最後に金――価値という概念――が人の手によって作られた。


 3000年より遠い昔の事については、“ただ光があった”と言うしかない。
 たとえ、そんなに昔のことを知ったとしても、今ある生活には一切の影響がない。
 だから今まで、誰も昔のことを知ろうとしなかった。
 調べようともしなかった。


 天人は全てを知っている。
 全てを知っている天の人々が、光り輝く天の円盤の上から見守ってくれている。
 だから地上に生きる人々は、そんなに小難しいことは考えずに、ただ日々の糧を得るために生きればよい。


 それが、アルデシアに暮す人々の、大よその世界観だった。


 
 * * *


 
 星が見えていた。
 天の円盤じめんに上がったリーンの目に、まず飛び込んできたのが、その星の輝きだった。


 見上げた宇宙そらは真っ黒だった。
 これまで見たどんな闇よりも、深くて濃い闇の色だった。


 リーンはしばし、その真っ暗な空間に浮かぶ、無数の星々を眺めた。
 そして、自らの周囲に目を向けてみた。


「ああ……」


 自然と、驚きの声が漏れる。
 足元も同じように真っ暗かと思いきや、意外なほどに明るいのだ。
 宇宙そらは暗く、円盤じめんは明るい。
 不思議な逆転現象がそこにはあった。


 円盤の辺縁部は、そう遠くない距離にあった。
 恐らく2、3日もあれば、円盤の上をくまなく歩いて回れるだろう。
 円盤の辺縁部の先には、見慣れた青い空が広がっている。
 天の円盤の光が、真下から照り上げてくるのだ。


 空は辺縁部から天頂にかけて、徐々に闇の色を濃くしていく。
 横を見れば昼。
 上を見れば、真夜中。
 どれだけ眺めていても、不思議な光景だった。


 リーンは両腕にアルメダ姫を抱えたまま、しばし周囲を歩き回ってみた。


「ついに来たぞ……、アルメダ」


 リーンは歩きながら語りかける。
 黄金の姫は、再び眠り姫へとその姿を変えていた。
 もし、うっかり手放してしまえば、天の円盤じめんをすり抜けて、地上へと落下させてしまうかもしれない。
 リーンはそうならないよう、しっかりとアルメダの身体を抱きかかえた。


「誰も……いないのか?」


 円盤は石灰岩のようなもので構成されていた。
 コツコツという乾いた靴音が、宇宙そらの彼方へと響いていく。
 空気はどこまでも澄んでいる。
 ここには、一切の穢れがないようだった。


 所々、大きな石柱が建っている。
 神殿か何かが建っていた跡のようだ。
 柱はその半分ほどが倒壊してしまっている。


 廃墟と聖域。
 その二つを合わせたような景色が、円盤の上に広がっていた。


「これが……天界なのか……」


 ゴーンは、天界は何もない場所だと言っていた。
 確かにそれは間違っていないようだ。


「何も……ないな」


 リーンの言う通り、そこには欲望の色を持つ物の、一切が無かった。
 確かに、こんなにも禁欲的な場所であれば、人は食べ物さえも採らずに生きていけるのかもしれない。
 リーンは円盤の上を歩き回りながら、そんなことを考えた。


「あっ……」


 そして、ふと気付いた
 ここに来るために、全ての力を搾り出したはずだった。
 にも関わらず、リーンは軽快に歩くことができている。
 天界には、疲労という概念さえ存在しないのだ。


 コツコツと、靴の音が響く。
 どこまで歩いても同じような景色が続く。
 宇宙そらは暗く、円盤じめんは明るい。
 そして、虫の一匹とて、いはしない。


 リーンはひとまず、倒れた石柱の上に腰を下ろした。
 そして両手にアルメダを抱えたまま、宇宙そらを見上た。


「天人なんて居ないじゃないか……」


 ポツリ呟く。


「さっきの声は何だったんだ……?」


 首を傾げる。


 天の円盤へと辿り着く直前。
 リーンは確かに、女性の声を聞いたのだ。
 そして反射的に答えていた。
 ただいま、母さん――――と。


「どうなってるんだ……」


 リーンはすっかり途方に暮れてしまった。
 天界というほどだから、さぞかし凄いものに出会えるだろうと思っていた。
 だが、期待はずれもいいところだった。
 国王のおっちゃんにこのことを教えたら、さぞかしガッカリするだろう。
 そう、リーンは思った。


「こんなに何も無いんじゃ、どうにもならねえぜ……」


 もう、さっさと帰った方が良いのだろうか。
 それとも、このままずっとアルメダと二人でここに居ればよいのだろうか。


 腹も減らない、眠くもならない、いやらしい気持ちにもならない。
 このままずっと宇宙そらを見上げて星の数を数えていれば、そのうちアルメダは目を覚ますのかもしれない。


 そんなことさえ、リーンは考え始めた。
 その時だった。


――リイイィィン……。


 突如、目の前に一筋の光の柱が現れたのだ。


「なんだ!?」


 リーンは思わず立ち上がった。


――キイイィィン……。


 光の柱は徐々にその幅を広げていく。
 そしてすぐに、木の扉に変化した。
 扉の向こうから声が聞こえてくる。


――こっちです、リーン。入ってらっしゃい。


 先ほど、天の円盤に昇るときに聞いた声だった。
 リーンはその声を聞き終えないうちに、扉の取手に手を伸ばしていた。


「母さん!?」


 そして扉を押し開く。
 扉の向こうから、柔らかな光があふれてきた。 
 その光の中にいた人物。
 それは間違いなく自分の母親であると、目にした瞬間にリーンは確信した。


「おかえりなさり、リーン。良くここまで来れましたね」


 リーンより僅かに高い背丈。
 長くて真っ直ぐな、緋色の髪。
 真っ白な羽衣のような服。
 湖の底のように深い青色をした瞳。


「あああ……」


 リーンはただポカンと口を開いて、目の前に立つ女の瞳を見つめた。
 それはどこまでも澄んだ青だった。


 続いて、あの森の奥で一人暮らしをしている、木こりオヤジの眼を思い出した。
 あの眼は血のような赤だった。


 赤と青。
 半分づつ混ぜれば紫色になる。


 それはまさに、リーンの瞳の色だった。


「早く入ってお休みなさい。さぞ疲れたでしょう」


 といって、彼女は優しく微笑んだ。


―-本当に、俺の母さんは天人だったんだ……。


 彼女は、以前エリィから聞いた、湖の聖人エリィシェンだった。
 名乗られるまでもなく、リーンにはそのことがわかった。


 自分の中に特別な血が流れているとすれば、それは母親の血に違いない。
 予感はしていたことだが、実際にその母親を目の前にすると、それは衝撃以外の何ものでもなかった。


「驚くのも無理はありませんね。それに、話すことも沢山ありますね、リーン」
「ああ……母さん……」
「でも、その前にまず……謝らせてください」


 母の腕がリーンの肩にまわされる。
 気付けばリーンは母の腕のなかにいた。


「ごめんなさい、私にあなたの母を名乗る資格はないのです……」
「そんなことないぜ、母さん……」
「私はあなたを放っておくことしか出来なかった……本当に、本当に……ごめんなさい」


 何と言葉を返してよいか、リーンにはさっぱりわからなかった。
 初めてなのに懐かしい、そして何より暖かい母親の腕の中に抱かれて。
 理由わけも解らず涙を流してしまうだけだった。


 
 * * *


 
「元気にしてたか? 母さん」


 初めて会った母親に、そんなことを聞くのも奇妙な感じがするが、やはり最初はそう聞かなければならないと思って、リーンは口を開いた。
 リーンは母親と二人、テーブルを挟んで座っている。
 アルメダはベットの上に横たえられている。


 リーンの母、エリィシェンの家は、こじんまりとしたワンルームだった 
 置いてある家具は椅子とテーブルとベッドだけ。
 あとは、両開きの窓が一つあるのみだ。
 この上なく簡素な部屋だった。


「ええ、ここでは怪我も病気もしないから」


 エリィシェンは、にこりと微笑みながらそう答えた。
 リーンもつられて、顔を綻ばせてしまう。


――本当に俺の母さんなんだな。


 そしてしみじみとそう思う。


「こんな、誰もいない場所に一人で住んでて、寂しくないのか?」


 その質問に、エリィシェンは首を横に振って答えた。


「ええ、大丈夫よ」


 そして、扉の反対側の壁に取り付けられた、大きな両開きの窓に目を向けた。


 窓の向こうには青空が広がっていた。
 この部屋は天の円盤の上にあるはずなのに、窓の向こうには、その天の円盤が見えている。
 どういう理屈なのか、リーンにはさっぱりわからなかった。
 唯一つ言えるのは、この部屋の窓からは、アルデシア大陸の全てが見渡せるということだ。


「私はこの部屋にいながら、いつでも地上の人達と心を交わすことができるから」
「心を交わす?」
「はい、心を交わすのです。言葉でも行動でもなく、ただ心をもって人々と語らう。それは、私達天人に与えられた役割の一つです」
「なんだか夢見たいな話だ……。天人は母さん一人なのか?」


 その質問も、エリィシェンは首を横に振って否定した。


「いま、この天界には、12万7千8百2十5人の天人達が暮しています」
「そんなにっ!?」


 一体どこにそんなに大勢の天人が?
 リーンは開いた口が塞がらない。


「みんなそれぞれ、自分の部屋を持っていて、たまに、私がさっきやったように、扉を開いて外に出るのです。ごくたまにですが」
「そう、なのか……」


 遥かな高みから地上を見守り、心で語らうことによって地上の人々に助言を与える。
 それが天人たちの職分なのだろうと、ひとまずリーンは納得しておく。
 他にも聞きたいことが沢山あるのだ。
 だが、あまりにも聞きたいことが多すぎて、何から聞いていいかわからない。


「あの方は、あなたの大切な人なのね」


 リーンがまごついていると、母親の方から話を切り出してきた。


「ああ、そうなんだ、母さん。俺はあいつを、アルメダを助けてやりたいんだ」


 と言ってリーンは、懇願するような目で母親を見た。
 するとエリィシェンは、答にくそうに表情を暗くした。


「リーン」
「なんだい母さん」
「助けるとは、具体的に言ってどういうことなのでしょう」


 どこか険しい瞳でリーンを見据えて、母は問いかけてくる。
 助けるとは、具体的にどういう状況にもっていくことを指すのか、リーンに考えさせてくる。


「どういうことって……」


 改めてそう問われると、具体的な言葉は出てこない。
 リーンはアルメダの目を覚まさせたいと思っていた。
 だが、それは本当に、彼女を助けることになるのだろうか。
 リーンは、わからなくなってしまった。


「彼女がこのまま目を覚ますことは、彼女のためになるのでしょうか、リーン」
「それは……」


 リーンは何も答えることが出来ない。
 それもそのはずだった。
 実際リーンは、アルメダの気持ちなど微塵も考えていなかった。
 ただ彼女に目を覚まして欲しいという、自分だけの欲求に従って、ここまで彼女を担ぎ上げてきたのだ。


 そして、またもや最後は、助けようと思っていたその相手に救われてしまった。
 もう、何が何だかわからない状況だった。


「彼女は、自らの愛がもっとも強く輝いた瞬間に、その瞳を閉じたのです」
「ああ……」
「だから、その瞳をあなたが無理やりこじ開けようとすることは、彼女の心を……いえ、彼女の魂を損ねてしまうことになる」
「魂を……損ねる?」


 またしても突きつけられた“魂”という言葉。
 だが、その言葉は今まで聞いた同じ言葉の、どれとも違っていた。
 天人たるエリィシェンがその言葉を口にすると、ある種の特別な響きが生じるのだ。


「リーン。あなたは自分のわがままのために、アルメダさんの魂を損ねようとしているのです。そして、それを“助ける”という言葉で飾っているのです。ひどい言い方かもしれませんが、私は天より地上を見守る者として、あなたにそのことを告げなければなりません」


 天人として、母として。
 リーンの胸に、その言葉が突き刺さる。
 説教嫌いのリーンだが、この時ばかりは、微塵たりとも反発する気が起きなかった。
 まさに、グウの音も出なかった。


「……俺は、母さんに怒られるためにここに来たのか」


 と言ってリーンは、ごしごしと目を拭った。
 地上においては、最も強大な力と名声をもつ国王であるリーンが、ここではまるで子どもだった。


「やっぱりそうなのか……アルメダは……もう、このまま死んでしまうしかないのか……」
「はい、そうですリーン。彼女はもう眼を覚ましません。覚ますべきはないのです」


 エリィシェンが、震えるリーンの手を握ってくる。


「じゃあ俺がここまで来たことには、まったく意味がなかったんだな。母さん」
「いいえ、そんなことはありませんよ、リーン」


 その言葉とともに、握る手に力がこもった。


「貴方の存在は、確実にアルメダさんの魂に良い影響を与えました。リーンがここまで運んできたことで、彼女の魂はまた一つ、天への階梯かいていを昇ることが出来たのです」
「天への階梯?」


 リーンは母の目を見た。
 湖の底のように青い瞳が、燃えるような輝きを放っていた。


「彼女は最後の最後で人間になれたのです。地上へと堕ちゆく貴方を、自らの意思で救い上げたあの時に。ホムンクルスという機械仕掛けの存在から、自ら考えて行動し、愛そうとする、有機的な存在へと進化したのです」
「進化した……? 人間に?」
「そうです。天界に昇る存在は、人間の中から選ばれます。彼女の体は、まもなく朽ちて死ぬでしょう。しかし、その魂は永遠です。次は間違いなく人間に生まれ変わって、また新たに天への階梯を昇り始めるでしょう」
「天への階梯…………はっ」


 そこでリーンは、あることに気がついた。
 今、エリィシェンがリーンに伝えてきたことは、あの宰相ゴーンが祭壇の間でが言っていたことと、完全に一致しているのだった。


「俺たちの魂は、天界と魔界の間を行き来する……。あの男が言っていたことは、本当だったのか!」
「そうです、リーン。全ての魂は、天土の間を流転しているのです。このアルデシアという世界においては」
「なんてこった……」


 まさに驚天動地の事実だった。
 エリィシェンの言っていることが本当なら、人々は“死”に対する考え方を、根本から見直さなければならない。
 地上に生きる多くの人々は、人生は“一度しかない”と考えているのだ。


 エリィシェンは続ける。


「魔界にすむ生物達は、生まれ変わるごとに知性を身につけ、やがて人の姿をとるようになります。そして地上に這い上がってきて、そこで人間として暮そうとするのです。そしていつしか本当に、人間へと生まれ変わるのです」
「じゃあ……俺も、みんなも、元は魔物だったのか!?」
「そうです。そしてその魔物達は……」


 リーンは、衝撃のあまり、呼吸すらままならなくなった。
 ゴーンは言っていた。
 自分はもともと天界の住民だったと。
 そして、地上の女と交わってエルグァの民を生み出し、その罰をうけて魔界に落とされたと。


 つまり、それは。


「みんな……、もともとはみんな、天人だったってことか!」


 ついにリーンは、世界の真実に辿り着いた。
 全ての命は、留まることなく巡り続けているのだ。


「そうです、リーン。天人と魔物、どちらが先だったのかはわかりません。とにかくこの世界では、魂とよばれるものが、延々と天地の間を巡り続けているのです。それこそ、気の遠くなるような昔から」


 エリィシェンはそこまで言うと、どこか悲しげに目を伏せた。
 リーンは呆然とした表情で、天人である母親の言うことに、耳を傾けた。


「天人が魔界落ちになる状況は三つあります。まず、自らが望むこと。リーン、あなたが昇ってきた光の階段を逆に下っていけば、やがて魔界へと辿り着きます。自らの足でそこに赴くこと。それがまず一つです」


 と言ってエリィシェンは、指を一つ折る。


「次に、大変な悪事を働いた場合です。天人達には天人達の社会があって、その秩序を守るための決まり事が存在します。天人達が協議して、その者に天人としての資格がないと判断した場合、私達は実力をもって、その者を魔界に落とすことが出来ます」


 エリィシェンは、また一つ指を折る。


「そして、最後が……」


 リーンは、胸の奥にひどい焦燥感が駆け上がってくるのを感じた。
 三つ目は聞きたくない。
 そう思えて仕方が無かった。


「母さん……」


 エリィシェンは開きかけていた口を閉じた。
 リーンの瞳には、大粒の涙がたまっていた。


「リーンは、察しが良い子ですね」
「やだよ母さん……そんなのってないぜ!」


 だが母は、リーンを嗜めるようにして首を振った。


「これは、天界における最も厳しい掟なのです。けして誰にも覆すことの出来ない決まりなのです」
「天人のみんなで話し合って、何とか変えられないのか?!」
「こればかりはダメなのです。私達の意志ではどうにもできない、この世界の仕組みそのものなのです」


 リーンはガックリと肩を落とした。
 そしてテーブルにつっぷして、歯を食いしばって泣いたのだった。


 
 * * *


 
 地上の人間と交わった天人は、例外なく魔界落ちになる。
 それが、三つ目の魔界落ちの条件だった。


 エリィシェンは、森の奥で暮していた一人の木こり男に、自らの子供を産ませた。
 その時点で、彼女の魔界落ちは確定していたのだ。


 リーンは、自分が産まれて来たことによって、母親が魔界落ちになるのだという事実を知った。
 そして、嘆き悲しんだのだった。


「どうしてそんなことをしたんだ……母さん!」


――どうして俺を産んだ?


 その問いに、母親はただ一言だけ答えた。


「世界が、勇者を必要としていたからです」
「…………そんな」


 それでリーンには十分だった。


 魂が壊れた天人、ゴーン。
 彼を中心とする巨大なたくらみが、アルデシア全土を深い混沌の海に落とそうとしていた。


 ゆえに勇者が必要だった。
 誰かが、その勇者を産み落とさなければならなかった。
 自ら湖の生贄になることで天人となった彼女は、やはりここでも、進んでその役を買って出たのだ。


「母さんは馬鹿だ……、お人よしにも程がある!」


 机につっぷしたままた泣きじゃくるリーン。
 エリィシェンは立ち上がって、その後ろにまわると、何も言わずにリーンを抱きしめた。
 そして震えるその背中を、いつまでも撫で続けた。


 リーンにはもう一つわかっていることがあった。 
 どこまでも無私で、自己犠牲的なエリィシェン。
 そんな彼女の中にも、たった一つエゴが存在していたということを。


――魔界落ちになることと引き換えに、地上に我が子を残せたなら。


 そして一度で良いから、この腕で抱きしめることが出来たなら。
 全ての生き物が、等しくその身のうちに持ってる欲求。
 エリィシェンは、その罪深き欲求を、リーンの地上に産み落とすことによって果たしたのだ。


 なぜリーンを産むことが罪深いか?
 それは、天人と地上人の混血であるリーンは、地上において子孫を残すことが許されないからだ。
 それもリーンにはわかっていた。
 もし自分が子供を産めば、天人の血を色濃く受け継いだ人間が、地上に存続してしまうことになる。
 エルグァの民に続く一族を、再び地上にもたらしてしまうのだ。


 だからリーンは子供を産んではいけない。
 そして、その原因はすべて母親たるエリィシェンにある。


 だが、リーンはそのことを責めなかった。


「母さん」
「はい……」


 リーンは頭を上げると、涙を拭って母に告げた。


「俺、生まれてきて本当に良かったと思ってる」
「リーン……」
「色んな人に出会えた。楽しいことも沢山あった。産まれてこれて本当によかった。だから俺は、絶対に母さんを憎まない。この気持ちだけは、絶対に変わらないから」


 今度はエリィシェンが涙ぐむ番だった。


 そして二人はぴったりと寄り添って、最初にして最後の団欒の一時を、しばし過ごしたのだった。


 
 * * *


 
 リーンとエリィシェンは、外に出ていた。
 円盤の周縁部が暗くなっていた。
 早くも地上は夜になっていた。


「早く帰らなければなりません。リーン」
「ああ、わかってる、母さん」


 さきほど部屋の窓から地上を見たときにわかったことだ。
 天上では時の流れが遅くなっている。
 天上における一日は、地上の一月に相当するのだ。


「アルメダのこと、よろしく頼みます……母さん」
「はい。私達が責任をもって、彼女の魂を次の人生へと導きましょう」


 天界に預けておいたほうが、地上にいるよりアルメダの魂にとって良い。
 そう判断したリーンは、彼女をエリィシェンに預けることにした。


「私は間もなく魔界落ちになるでしょう。いままで天人でいられたのは、まさに神の思し召しです。ですが心配しないでリーン。アルメダさんの体は、天人のみなさんが最後まで面倒を見てくれますから」


 そう言ってエリィシェンは、少し離れた場所に目を向けた。
 そこには、白い羽衣を身に纏った老女がいた。


 さらにエリィシェンは、次々と視線を移していく。
 リーンもまた、その視線の先を追う。
 他にも数名の天人が外に出ていた。


 神父のような服装の男。
 仙人のごとき姿の老人。
 透き通るような肌をもつ少女。
 目に包帯を巻いた長身の女。


 みな、アルメダの面倒を見てくれる人達だ。


「ありがとう、みんな」


 リーンは彼・彼女らに向かってそうつぶやく。
 彼・彼女らは、ただ静かな視線をもって、それに答えてきた。


「ありがとう、母さん」


 エリィシェンに向かって、同じ言葉をつぶやく。


 そして最後にもう一度、二人はしっかりと抱きしめあった。
 リーンの顔が、エリィシェンの胸に埋もれる。
 それは、夢にまでみた母親の胸の柔らかさだった。
 そのままリーンは、胸いっぱいに息を吸い込んだ。


 そして二人は抱擁を解いた。


「では、貴方の記憶を消去します」


 母は静かにそう告げる。


「ああ、母さん」


 リーンはしかと頷いた。


「貴方は、天界のことを知ってしまった。このままでは地上には戻れません」
「ああ、母さん、わかってる」


 リーンは、ゴーンを尋問した時のことを思い出していた。
 彼は、天界で天人たちがやっていることだけは、けして話そうとしなかった。 
 天人になった者は、この世界の全てを知る権利があたえられる。
 だが、その天界で得た知識は、地上の人々に教えてはならないのだ。


 もし地上の人々に、天界で行なわれていることを教えてしまったら、その天人の魂は、この世界から消去されてしまう。


 そして、さらに――。


「このまま俺がみんなの所に戻ったら、俺は、俺の話を聞いた人達まで巻き添えにして消えてしまう……。そうなんだな? 母さん」
「そうです。そして、もう二度と転生できなくなるのです。だからあの男は……」


 エリィシェンは遠い目をして言う。


「転生のことは話せても、天界のことは話せなかったのです」


 ジュアの前で、転生のことをペラペラと喋り始めたのは、すぐにジュアを殺す予定でいたからだ。
 ゴーンにとってあのお喋りは、実に危険な行為だったのだ。
 だが、それ故に話さずにはいられなかった。


「ゴーンは、どういうわけか天界の記憶を持ったまま転生を繰り返していました。よほど世界を憎んでいたのでしょう。何をどう足掻いても絶望にしか辿り着けない。彼はそう思い至って、刹那的な享楽に逃げたのです」


 そして同時に彼は、常に“魂の消滅”の危機にさらされていた。
 その危機から逃れるためには、早く天人に戻らなければならなかったのだ。


「リーンは地上に戻った後、王として、あの男をどうするつもりですか?」


 母は最後に、その質問をリーンに投げかけた。


「あいつが地上でやったことを考えれば、ギロチン刑は確実なんだ。でもそれだと、また天界の記憶を持ったまま転生しちまうんだな」
「その可能性は大きいのです」
「それじゃあ意味が無いんだ。一つ良い考えを思いつたんだけど……。母さん、この記憶も消えちまうんだろうな」
「それなら大丈夫です。貴方の記憶は消えますが、その意志までは消えません。貴方は記憶を失っても、間違いなく同じ判断を下すでしょう」
「そうか……それは良かったぜ」


 その言葉を聞いて、リーンはホッとする。
 それと同時に、せっかく会えた母親の記憶を失ってしまうことを思って、酷く切ない気持ちになるのだった。


「大丈夫ですよ」


 と言ってエリィシェンは微笑んだ


「記憶を失っても、心はいつでも通じています」
「ああ……」
「またいつか会いましょう。この無限に続く世界の、どこかで」
「ああ、約束だぜ…………母さん!」


 二人は互いの小指を絡ませた。
 指きりをして、再会のための誓いとする。


 するとにわかに、暖かな日差しがリーンの意識の中に注ぎ込まれてきた。
 そして、あっという間に目の前が真っ白になった。


 柔らかな光の向こう側。
 リーンは、母親の笑顔を見る。


――リーン。


 声が聞こえてくる。


――もし、生きるのが辛くて、どうしようもない闇の衝動にかられることがあったら、こう思うようにするのです。


 それは、常に周囲のために、その命を捧げ続けてきた者の言葉。


――次の自分があるのだと。そうすれば、どんなに辛く惨めな状況であっても、次の自分のために頑張れるはずです。


 真っ白な日差しの中で、リーンはただその言葉に頷いた。


――貴方の魂が、ずっとずっと気高くあることを祈っています。


 母の姿が遠のいていく。
 言葉も徐々に小さくなっていく。
 リーンは、何もかもを忘却して、夥しい光の中を、いつ果てるともなく落ちていく。


 地上へと帰っていく。


――がんばって。


 その言葉を最後に、すべての光は、無意識の闇に沈んだ。


 そしてリーンは――――














 天界におけるすべての記憶を失った。




 * * *


 
 リーンとアルメダの姿が、天の円盤の光で見えなくなってから一週間後。
 ボロボロになったリーンの体が、エヴァー湖のほとりで発見された。


 彼女は、あまりにも安らかな寝顔をしていたため、第一発見者の歩哨兵は、すっかり死んでしまっているのだと思ってしまった。


 リーンの治療には、それから一月以上の月日を要した。
 意識の戻ったリーンに、最初に話しかけたのはエイダだった。


「アルメダ様はどうしたのです? リーン」
「ああ、どうしたんだろう……」


 目を覚ましたリーンには、天界における一切の記憶がなかった。
 何もかもが曖昧模糊としていた。
 とても嬉しいことと、悲しいことがあった。
 何となく、そんな感じがするだけだった。


 だが、間違いなくリーンとアルメダは、天への道を昇りきった。
 それだけは確かなことだった。


 そして今、アルメダは地上にいない。
 それはつまり――――。


「置いてきちまったのかな……?」


 彼女が今、天の円盤の上にいることを意味している。













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