アシアセラフィカ ―内なる獣―
夢
その後アデハは、気絶したゼンの体を縄で巻いて天幕の中に放り込んだ。
その後、図らずも村の出身者となってしまったその青年を見るために、村中から人が集まってきた。
もし心を入れ替えて村のために働いてくれるのなら実に有難いことだと、みな期待してやってきたのだが、無様な格好で伸びている青年の姿を一見すると、誰もが落胆の表情を浮かべて帰っていった。
あの者達がきてからろくなことが無い――。そう誰かが口にしていった。
村人達がいなくなると、アデハは神駆の荷台に座り込んでグライトの帰りを待った。
「ゼンには、あとで聞かなきゃならないことが沢山あるわね」
《ホントにね。いつからこの村に居たのかしら》
「昨日、温泉に入ろうとした時から、変な気配は感じていたんだけど……。さっき村の人が、近くで乗り捨てられていた馬を見つけたんだって。きっとどこかで奪ってきたのね」
《なんてひねくれた根性なのかしら! もっと別のことに情熱を向ければいいのに!》
「そうね。でもそれが私たち粋人の危うさなのかもしれない。通じ人と違って、どこまででも自分だけの欲望を増幅できてしまう。私も気をつけないと」
《んだね、特にお酒のことになるとアデちんは……あうっ!》
ゴツンと一つ音が響く。
「何か言った? 神駆」
《いんや……なんでも……》
「あーあ、歩き回って疲れちゃった。温泉入りたい。早く帰ってこないかな」
《うん、あの狼少年くんも一緒にね》
その言葉にアデハは口をつぐむ。そして遠くリーシャンの方角を見上げた。
何かに迷った時、アデハはこうして神駆の上で過ごすことが多かった。この旅に出る前日も、こうして一日中座り込んでいた。神駆はアデハにとって、物心ついたときからの親友であり、大切な相談相手でもあるのだ。
旅立ち日の前日、アデハは神駆にこう言った。
――神駆。私、通じ人になりたい。
通人の従者に囲まれて育ったアデハは、周りの者と気持ちを共有できないことの寂しさを、ずっと感じ続けてきた。
通じ人になれば皆のことがもっとわかる。皆の上に立たなくて済む。そういったことをアデハが神駆に打ち明けるのは、それが始めてではなかった。
気を紛らわすための酒を覚えたのも、神駆の上でのことだった。そして、そんな彼女の思いこそが、白粛の秘密を解き明かすという使命を自らに課した、一番の理由だった。
もし本当に白粛が起こってしまったら、皆と一つになりたいという願いそのものが、無意味になってしまうのだから。
そんな目的を持って生きる彼女に、見るからに悲惨な状況に陥っていた少年のことを、放っておくことが出来るはずもなかったのだ。
「……神駆。やっぱり、私が間違っていたのかな」
やがてアデハはそう言った。自分が強制的にシェンをつれまわしてしまっていることの是非について、迷いがあった。神駆はその問いに対し、少し間を置いてから答えた。
《それは誰にもわからないんじゃない? アデハはアデハがしたいと思ったことをするしかなかったんだし。あの子もあの子でしたいようにした。どっちもどっちよ》
その言葉に小さく頷き、アデハは荷台の上に寝転んだ。そして空を見上げて、流れ行く白い雲に眼をやった。
「なにもかも、思い通りにいくわけじゃない。それはわかってはいるけど」
その先は言葉にならなかった。だが、あえて口にする必要もなかった。
* * *
少年は夢の中にいた。
真っ暗な森の中を一人で彷徨っている。しきりにルゥの名前を呼ぶが、その姿はどこにも見当たらない。少年は罰が下されたのだと思った。
世の掟に自分は背いた。自分を救おうとしてくれた者達に対して、自分はは二重の裏切りを行ってしまったのだと。
ヒトの服を着て、ヒトの食べ物を食べて、ヒトの住む場所で眠って。この心は限りなくヒトのものに戻ろうとしていた。
それは森で帰りを待っているルゥに対する裏切りだった。
さらに、その温かさに安らいでしまった。あの女にも甘えてしまった。甘えた上で逃げ出した。それは、この悪夢を覚ましてみせると言ってくれた、あの女への裏切りだった。
そして再び少年は、ルゥの名を叫びながら夢の中の森を彷徨い始めた。
何もかもを見捨ててここまで来た自分は、もう、全てから見放されてしまったのだと思いながら。
この先自分は、ただ一人でこの森を生きていく。最後まで少女ことを思いながら死んでいく。
だがそれとて彼女は望むだろうか?
何度も繰り返したその質問。答えなど無いことはとうの昔にわかっている。だがそれでもなお問わずにはいられなかった。何故自分はここにいる? 何のために生きている? そして何のために死んでいく――。
森はやがて、その姿さえ無くしてただの闇となった。少年はその中にどこまでも沈み込んでいく。闇の中のそのまた闇へ。
掴まるものも、踏み出す場所もない、純粋な虚無の中に。
――シェン。
だがその時ふいに、一筋の光りが差し込んだ。またあの声が聞こえたのだ。これまで幾度と無く迷える少年を励まし、そして導いてきた少女の声。
――シェン。
まだ眠ってはいけない。貴方を必要としている人が、まだそこにいるのだから。
少女の声はそう訴えるかのように、いつまでも少年の名を呼び続けた。彼を眠りから呼び覚ますように。何度も……何度も――――シェン――
「おいシェン! 生きているなら目を開けろ!」
少年は目を覚ました。
* * *
シェンは仰向けになって眠っていた。鼻の穴がむずがゆい。手で触ってみると何かの管が刺さっている。シェンはえずきながらその管を引き抜いた。
それは石獣の血管だった。治療のために、胃の中まで挿入されていたのだ。
「ははっ、そんだけ元気がありゃあ大丈夫だな」
「うむ、砂漠で倒れている所を見た時は、もうダメかと思ったが」
二つとも聞き覚えのある声だった。一つはグライト、もう一つは――?
シェンは慌てて周囲を見渡す。時間はもう夜のようだった。周囲に幾つものかがり火が焚かれ、そして大きな天幕が幾つも張られている。ここは。
「先日倒したトラの近くだ。今、走竜乗りの一隊が来て解体してくれている。すまんが管を通して、胃に直接、水を補給した。全身がすっかり干上がっていたのでな」
グライトの声だった。彼はシェンのすぐ側で、水袋を手にしゃがみこんでいた。そしてその隣にいるのは、赤いバンダナと高く逆立てられた長髪が特徴的な、一人の男。
「よお、俺のこと覚えてるか? ほら、これ」
といって男は自らの頭を指差す。
「……あんたは」
シェンは目をしばしばさせた。彼とは面識があったのだ。彼はコンスタンからリーシャンまで来る間、行動を供にしていた、走竜乗りの青年だった。
「世の中狭いな。グライトさんがお前を担いできた時は、幽霊でも出たかと思ったぜ」
シェンは体をおこし、不機嫌そうにグライトの方を見て言った。
「……探しに来たのか」
「いや、偶然見つけただけだ。体がなまっていたのでな、その辺を走っていた」
「その辺って……」
あれからどれだけ歩いてきたと……。シェンはそう思いつつ、どこか腑に落ちない表情を浮かべた。それを見ていた青年が笑った。
「ははは! 聞いたぜお前、海那方の姫さんとこから逃げてきたんだってな。このバチ当たりがよお。本物のお姫様の護衛なんてそうそう出来ることじゃないんだぜ。ったく、男子の本懐ここに極まれりだろうが。それをわざわざ反故にするたあ……お前は」
まくし立てるようにそう言われ、シェンはやれやれと首を振った。
「じゃあ、アンタがやれ……」
「へへっ、変わってねえな、その態度。でも安心したぜ。意外と元気そうじゃないか。面構えも随分と良くなったな。何してたかは知らねえが、生きた目をしているぜ」
この男と話していると調子が狂う、そうシェンは思う。否応無く、彼の豪放な気質に巻き込まれてしまうのだ。
キャラバンで一緒に行動していた時も、出来るだけ距離をとるようにしていた相手だった。
シェンは立ち上がって歩き去ろうとしたが、青年の持つ曲刀がその動きを遮ってきた。
「待てよ。俺たちは命の恩人なんだぜ? せめて話くらいは聞いていけ」
「助けろとは言ってない」
「いいや、言ってたぜお前。ルゥ、ルゥって何度もな。明らかに助けを呼ぶ声だった」
「なっ……!?」
シェンは顔を紅潮させた。確かに、言ったとしてもおかしくはなかった。
「まあ聞けや。お前は一匹狼を決め込みたいのかもしれねえが、世間はそう甘くはねえ。なあ……ミルスタラ村のシェン」
その言葉にシェンは息を飲んだ。そしてその表情を一変させる。とっさにグライトの様子を伺うと、彼は頷きつつ、
「話は聞かせてもらった」
とだけ答えた。
シェンは全身から力が抜け落ちていくのを感じた。自分の伺い知らぬところで、自分の過去の話が、随分と広まってしまっていたのだ。その事実に、少年はただ無力感を覚える他なかった。
「お前、あの辺じゃあ、ちょっとした有名人だぜ? 村の男達を奇妙なやり方で殺して、そして風のように逃げ去った。そしてその後は行方知れず……だ」
シェンはきつく歯を噛みしめ、その場に立ち尽くした。自分が一人で孤独に耐えている間にも、世界は、その見えない大きな手を伸ばしてきていたのだ。
あの森にもそう長くはいられない。捕まえられるのは時間の問題だ。青年の言葉はその事実を告げていた。
「お袋さん、毎日霊廟の前で祈ってるんだと。可哀そうに。大事な子供を二人とも失っちまったわけだ。せめて無事なことくらい伝えてやればいいものを」
篝火の炎がざわざわと揺れた。宿営地のどこかで、走竜がけたたましい声を上げて騒ぎ立てた。少年は今にも泣き出しそうな表情で、ただじっと地面を睨んでいた。
「旦那からは何かないのかい?」
青年はグライトに話を振る。
「いや、自分は連れ戻しにきたわけではないのでな。アデハ様もそれを望んではおられない。だがせっかくの機会だ、一言だけ言っておこう。シェン、お前の右腕はチャプラール村の霊廟に保管してある。明日、村を出発する時まで置いておくそうだ。アデハ様はもうお前に言令をかけたりはすまい。その気があるのなら、取りに来ればいい」
グライトは直接は言わなかったが、シェンが自ら戻ってくるその時を、アデハが待ち望んでいるのだという事実は、彼の意志の波動を通じてありありと伝わってきた。
「うっ……」
少年の心は揺れていた。戻りたいという思いが確かにあった。まだ自分のことを待ってくれている人がいる。帰りたいと思わないはずがなかった。
どれほど獣に近づいたとはいえ、少年がヒトである事実は変わらないのだから。
むしろ野生の生活を知った今――容赦なく襲い掛かってくる自然力の前では、何しもが無力であることを知った今では――その思いは尚のこと強くなっていた。
「……そうか」
だが、それだけ言ってシェンはその場を立ち去った。
今はまだ、戻れない理由があったのだ。
その後、図らずも村の出身者となってしまったその青年を見るために、村中から人が集まってきた。
もし心を入れ替えて村のために働いてくれるのなら実に有難いことだと、みな期待してやってきたのだが、無様な格好で伸びている青年の姿を一見すると、誰もが落胆の表情を浮かべて帰っていった。
あの者達がきてからろくなことが無い――。そう誰かが口にしていった。
村人達がいなくなると、アデハは神駆の荷台に座り込んでグライトの帰りを待った。
「ゼンには、あとで聞かなきゃならないことが沢山あるわね」
《ホントにね。いつからこの村に居たのかしら》
「昨日、温泉に入ろうとした時から、変な気配は感じていたんだけど……。さっき村の人が、近くで乗り捨てられていた馬を見つけたんだって。きっとどこかで奪ってきたのね」
《なんてひねくれた根性なのかしら! もっと別のことに情熱を向ければいいのに!》
「そうね。でもそれが私たち粋人の危うさなのかもしれない。通じ人と違って、どこまででも自分だけの欲望を増幅できてしまう。私も気をつけないと」
《んだね、特にお酒のことになるとアデちんは……あうっ!》
ゴツンと一つ音が響く。
「何か言った? 神駆」
《いんや……なんでも……》
「あーあ、歩き回って疲れちゃった。温泉入りたい。早く帰ってこないかな」
《うん、あの狼少年くんも一緒にね》
その言葉にアデハは口をつぐむ。そして遠くリーシャンの方角を見上げた。
何かに迷った時、アデハはこうして神駆の上で過ごすことが多かった。この旅に出る前日も、こうして一日中座り込んでいた。神駆はアデハにとって、物心ついたときからの親友であり、大切な相談相手でもあるのだ。
旅立ち日の前日、アデハは神駆にこう言った。
――神駆。私、通じ人になりたい。
通人の従者に囲まれて育ったアデハは、周りの者と気持ちを共有できないことの寂しさを、ずっと感じ続けてきた。
通じ人になれば皆のことがもっとわかる。皆の上に立たなくて済む。そういったことをアデハが神駆に打ち明けるのは、それが始めてではなかった。
気を紛らわすための酒を覚えたのも、神駆の上でのことだった。そして、そんな彼女の思いこそが、白粛の秘密を解き明かすという使命を自らに課した、一番の理由だった。
もし本当に白粛が起こってしまったら、皆と一つになりたいという願いそのものが、無意味になってしまうのだから。
そんな目的を持って生きる彼女に、見るからに悲惨な状況に陥っていた少年のことを、放っておくことが出来るはずもなかったのだ。
「……神駆。やっぱり、私が間違っていたのかな」
やがてアデハはそう言った。自分が強制的にシェンをつれまわしてしまっていることの是非について、迷いがあった。神駆はその問いに対し、少し間を置いてから答えた。
《それは誰にもわからないんじゃない? アデハはアデハがしたいと思ったことをするしかなかったんだし。あの子もあの子でしたいようにした。どっちもどっちよ》
その言葉に小さく頷き、アデハは荷台の上に寝転んだ。そして空を見上げて、流れ行く白い雲に眼をやった。
「なにもかも、思い通りにいくわけじゃない。それはわかってはいるけど」
その先は言葉にならなかった。だが、あえて口にする必要もなかった。
* * *
少年は夢の中にいた。
真っ暗な森の中を一人で彷徨っている。しきりにルゥの名前を呼ぶが、その姿はどこにも見当たらない。少年は罰が下されたのだと思った。
世の掟に自分は背いた。自分を救おうとしてくれた者達に対して、自分はは二重の裏切りを行ってしまったのだと。
ヒトの服を着て、ヒトの食べ物を食べて、ヒトの住む場所で眠って。この心は限りなくヒトのものに戻ろうとしていた。
それは森で帰りを待っているルゥに対する裏切りだった。
さらに、その温かさに安らいでしまった。あの女にも甘えてしまった。甘えた上で逃げ出した。それは、この悪夢を覚ましてみせると言ってくれた、あの女への裏切りだった。
そして再び少年は、ルゥの名を叫びながら夢の中の森を彷徨い始めた。
何もかもを見捨ててここまで来た自分は、もう、全てから見放されてしまったのだと思いながら。
この先自分は、ただ一人でこの森を生きていく。最後まで少女ことを思いながら死んでいく。
だがそれとて彼女は望むだろうか?
何度も繰り返したその質問。答えなど無いことはとうの昔にわかっている。だがそれでもなお問わずにはいられなかった。何故自分はここにいる? 何のために生きている? そして何のために死んでいく――。
森はやがて、その姿さえ無くしてただの闇となった。少年はその中にどこまでも沈み込んでいく。闇の中のそのまた闇へ。
掴まるものも、踏み出す場所もない、純粋な虚無の中に。
――シェン。
だがその時ふいに、一筋の光りが差し込んだ。またあの声が聞こえたのだ。これまで幾度と無く迷える少年を励まし、そして導いてきた少女の声。
――シェン。
まだ眠ってはいけない。貴方を必要としている人が、まだそこにいるのだから。
少女の声はそう訴えるかのように、いつまでも少年の名を呼び続けた。彼を眠りから呼び覚ますように。何度も……何度も――――シェン――
「おいシェン! 生きているなら目を開けろ!」
少年は目を覚ました。
* * *
シェンは仰向けになって眠っていた。鼻の穴がむずがゆい。手で触ってみると何かの管が刺さっている。シェンはえずきながらその管を引き抜いた。
それは石獣の血管だった。治療のために、胃の中まで挿入されていたのだ。
「ははっ、そんだけ元気がありゃあ大丈夫だな」
「うむ、砂漠で倒れている所を見た時は、もうダメかと思ったが」
二つとも聞き覚えのある声だった。一つはグライト、もう一つは――?
シェンは慌てて周囲を見渡す。時間はもう夜のようだった。周囲に幾つものかがり火が焚かれ、そして大きな天幕が幾つも張られている。ここは。
「先日倒したトラの近くだ。今、走竜乗りの一隊が来て解体してくれている。すまんが管を通して、胃に直接、水を補給した。全身がすっかり干上がっていたのでな」
グライトの声だった。彼はシェンのすぐ側で、水袋を手にしゃがみこんでいた。そしてその隣にいるのは、赤いバンダナと高く逆立てられた長髪が特徴的な、一人の男。
「よお、俺のこと覚えてるか? ほら、これ」
といって男は自らの頭を指差す。
「……あんたは」
シェンは目をしばしばさせた。彼とは面識があったのだ。彼はコンスタンからリーシャンまで来る間、行動を供にしていた、走竜乗りの青年だった。
「世の中狭いな。グライトさんがお前を担いできた時は、幽霊でも出たかと思ったぜ」
シェンは体をおこし、不機嫌そうにグライトの方を見て言った。
「……探しに来たのか」
「いや、偶然見つけただけだ。体がなまっていたのでな、その辺を走っていた」
「その辺って……」
あれからどれだけ歩いてきたと……。シェンはそう思いつつ、どこか腑に落ちない表情を浮かべた。それを見ていた青年が笑った。
「ははは! 聞いたぜお前、海那方の姫さんとこから逃げてきたんだってな。このバチ当たりがよお。本物のお姫様の護衛なんてそうそう出来ることじゃないんだぜ。ったく、男子の本懐ここに極まれりだろうが。それをわざわざ反故にするたあ……お前は」
まくし立てるようにそう言われ、シェンはやれやれと首を振った。
「じゃあ、アンタがやれ……」
「へへっ、変わってねえな、その態度。でも安心したぜ。意外と元気そうじゃないか。面構えも随分と良くなったな。何してたかは知らねえが、生きた目をしているぜ」
この男と話していると調子が狂う、そうシェンは思う。否応無く、彼の豪放な気質に巻き込まれてしまうのだ。
キャラバンで一緒に行動していた時も、出来るだけ距離をとるようにしていた相手だった。
シェンは立ち上がって歩き去ろうとしたが、青年の持つ曲刀がその動きを遮ってきた。
「待てよ。俺たちは命の恩人なんだぜ? せめて話くらいは聞いていけ」
「助けろとは言ってない」
「いいや、言ってたぜお前。ルゥ、ルゥって何度もな。明らかに助けを呼ぶ声だった」
「なっ……!?」
シェンは顔を紅潮させた。確かに、言ったとしてもおかしくはなかった。
「まあ聞けや。お前は一匹狼を決め込みたいのかもしれねえが、世間はそう甘くはねえ。なあ……ミルスタラ村のシェン」
その言葉にシェンは息を飲んだ。そしてその表情を一変させる。とっさにグライトの様子を伺うと、彼は頷きつつ、
「話は聞かせてもらった」
とだけ答えた。
シェンは全身から力が抜け落ちていくのを感じた。自分の伺い知らぬところで、自分の過去の話が、随分と広まってしまっていたのだ。その事実に、少年はただ無力感を覚える他なかった。
「お前、あの辺じゃあ、ちょっとした有名人だぜ? 村の男達を奇妙なやり方で殺して、そして風のように逃げ去った。そしてその後は行方知れず……だ」
シェンはきつく歯を噛みしめ、その場に立ち尽くした。自分が一人で孤独に耐えている間にも、世界は、その見えない大きな手を伸ばしてきていたのだ。
あの森にもそう長くはいられない。捕まえられるのは時間の問題だ。青年の言葉はその事実を告げていた。
「お袋さん、毎日霊廟の前で祈ってるんだと。可哀そうに。大事な子供を二人とも失っちまったわけだ。せめて無事なことくらい伝えてやればいいものを」
篝火の炎がざわざわと揺れた。宿営地のどこかで、走竜がけたたましい声を上げて騒ぎ立てた。少年は今にも泣き出しそうな表情で、ただじっと地面を睨んでいた。
「旦那からは何かないのかい?」
青年はグライトに話を振る。
「いや、自分は連れ戻しにきたわけではないのでな。アデハ様もそれを望んではおられない。だがせっかくの機会だ、一言だけ言っておこう。シェン、お前の右腕はチャプラール村の霊廟に保管してある。明日、村を出発する時まで置いておくそうだ。アデハ様はもうお前に言令をかけたりはすまい。その気があるのなら、取りに来ればいい」
グライトは直接は言わなかったが、シェンが自ら戻ってくるその時を、アデハが待ち望んでいるのだという事実は、彼の意志の波動を通じてありありと伝わってきた。
「うっ……」
少年の心は揺れていた。戻りたいという思いが確かにあった。まだ自分のことを待ってくれている人がいる。帰りたいと思わないはずがなかった。
どれほど獣に近づいたとはいえ、少年がヒトである事実は変わらないのだから。
むしろ野生の生活を知った今――容赦なく襲い掛かってくる自然力の前では、何しもが無力であることを知った今では――その思いは尚のこと強くなっていた。
「……そうか」
だが、それだけ言ってシェンはその場を立ち去った。
今はまだ、戻れない理由があったのだ。
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