アシアセラフィカ ―内なる獣―

ナガハシ

不穏な影

 猟師の元に油を届けたアデハは、そのままエランのいる高台へと向かった。
 そこは剥き出しになった火山礫の上に、僅かに短草が茂っているだけの、閑散とした場所だった。村人達がエランの様子を見に行くために頻繁に行き来するようで、高台へと続く山の斜面には、うっすらと獣道が出来ている。


「……ん?」


 しかしその途中でアデハは足を止めた。そして辺りを見回す。しかし周囲に人影は見えない。うら寂しい岩山の輪郭を撫でるように、一筋の雲が流れているだけだ。


「気のせい……?」


 首を傾げつつ、アデハは少女のいる高台を目指す。
 高台の上では、直立不動の姿のエランが、周囲の景色に目を光らせていた。アデハが横に立っても反応がない。だが、その彫像のような姿こそが、普段の少女の姿なのだった。


「ここからだと村全体が見渡せるのね……あ、グライトが館の前で何かやってる」


 村の入り口に程近い場所に建っていた、あの古びた旅館の前に、グライトの姿が胡麻粒のようにして見えた。
 もうニ、三人誰かいるようだが、遠すぎてよく見えない。


「誰だかわかる? エラン」


 少女は何も言わずに目を伏せた。その横顔はどこまでも無機質だったが、その奥底に、一抹の寂しさを秘めているようにも見えた。
 アデハはエランから視線を外し、どこか悲しげな目で遠くを見た。日はすでに天の頂に届きつつあった。あの子は今頃どこをほっつき歩いているのか――。


「シェンのこと……気になる?」


 やがてアデハはそう口にした。エランの耳がピクリと跳ねた。
 その言葉は、アデハ自身への問いでもあるようだった。二人はしばし見つめ合う。


「シェン……いなくなった。エランはもう、見張らなくていい」


 エランはそれだけ言って顔を戻す。アデハもそれに合わせて正面を向く。


「もう、戻ってこないかもしれない。せっかくエランが腕を見つけてくれたのに。ごめんなさいね」


 少女は小さく首を振って否定した。


「エラン、気にしてない。でも……」


 その先をエランは続けなかった。どう表現していいかわからなかったのだ。森の中でシェンの腕を見つけたときの感情、それは、この世のどんな言葉を用いても、表しきることの出来ないものだった。
 ただ、何かが繋がっていたとしか。


「シェンは敵。あのときの獣と同じ匂いがした。でも……」


 そしてエランは、その琥珀色の瞳を、微かに潤ませる。


「側にいると安心した。それがエランにはわからない」


 徐々に小さくなっていくその声を、高台の上を吹きぬける風がかき消した。アデハの黒髪が、サラサラとその風になびいていく。山の上の雲も、やがてどこかへ消えていく。


「……戻ってきて欲しい?」


 アデハはそう問うも、エランは答えない。
 わからないことは答えようがないのだった。


「ねえエラン。私、もう一日だけこの村に居るわ。それで明日になってもあの子が戻ってこなかったら、あの腕を持ってまた旅に出ようと思う」


 エランはまるで溶けかけた雪のような、微妙な無表情を浮かべた。


「それじゃあ、ちょっと行って見てくるわ。グライトが何かやってるみたいだから」


 アデハはその場を後にする。そこにエランが声を掛けてきた。


「気をつけて、アデハ。下りは危ない」
「うん、ありがとうエラン」


 そう言って微笑むと、アデハはもと来た道を引き返して行った。


 * * *


 エランが言うとおり、下るには難しい道だった。登って来る時は気にならなかったが、岩盤の上に堆積した黄土や腐葉は、ぬめりがあって滑りやすかった。アデハは慎重に下って行ったのだが、途中で何度か足を取られた。


「やだ……裾が汚れちゃった」


 と言って汚れを払うも、赤黒い土が道衣の裾にこびりついてしまった。


「転んだら大変ね……ゆっくり、ゆっくり」


 といって、一歩一歩足場を確認しながら下りて行く。地盤そのものはしっかりしているのだから、表面の滑りにさえ気をつければ良い。変に角度のついた場所を踏んだりしなければ、特に問題なく降りられるはずだった――しかし。


「――えっ!?」


 突然、音もなく足場が崩れた。アデハの視界がガクンと下がる。崩れる訳が無いと思っていた足場が、いとも簡単に崩れたのだ。そしてその下はどこまでも続く急斜面――。
 アデハは鋭い反射神経で、残っていた方の足を蹴り出すと、そのまま宙を舞った。そして崩れた場所を飛び越えて、その向こう側に着地する。


「あ、あぶ、あぶぶ!」


 そのままあたふたと体勢を整える。崩れた岩が、その下に落ちていく。アデハは粋人であるため、おいそれと石床を使うことができない。大きな怪我をすると面倒なことになるのだ。
 彼女は高鳴る胸を抑えつつ呼吸を整えた。そうして気持ちを落ち着けると、今度は別の意味において表情を険しくし、怪訝な瞳で崩れ落ちた岩肌を見た。


 自然に崩れたという様子ではなかった。
 その岩はあらかじめ崩されていたのだ。


 アデハは来た道から少し離れた経路を歩いて山を下った。道衣が草の露で汚れてしまった。グライト達のいる館に向かう前に、神駆の元へと立ち寄る。神駆は光り木の森の中にいた。森のアウラを補充しているらしい。


「気持ち良さそうね、神駆」


 と言ってアデハは安心したような表情を浮かべた。


《うーん、いいわぁ。海那方の森に勝るとも劣らないアウラの量だわ》
「今のうちに十分休んで頂戴。この先、何があるかわからないから」
《わーお、怖いこというなー。あんまり無茶なことしちゃダメなんだからね?》
「旅に危険はつきものよ。ところで神駆、何か変わったことはなかったかしら?」
《え? どうしたのよ突然》
「なんとなく、気になってね」
《変わったことならあるにはあるわ。わたしの背中を見てみなさいよ》


 アデハは神駆の荷台を覗き込んだ。するとそこには『二枚』の紙切れが落ちていた。
 一枚はリーシャンに居た時に、子供たちが書いてくれた絵だ。もう一枚は、その上に重なるようにして貼り付けてあり、表には何も書かれていない。


《親切な村の方が、わたしのお尻にくっついていたその紙を取ってくださったの》


 アデハは何も言わず、二枚の紙片を手に取った。そして注意深く上の一枚をめくった。


《やっぱり何かついてたんじゃない! もう! あんまりふざけたことしてると、この一発だけ残してある弾をぶっ放しちゃうんだから!》
「――くっ」


 アデハはその紙を見て口元を歪めた。


《んん? どったの?》


 そして、さらにそこに書かれている『文字』を凝視する。


「……ううん、なんでもない」


 アデハはその紙片を折り畳んで袖の中に入れた。


「ねえ神駆、この紙は誰が取ってくれたの?」
《うんとね、さっきそこでお祈りしてたお婆ちゃん……って、はぐらかさないでよ!》
「ごめん……ちょっと、グライトの様子を見て来るわ」
《え? ちょっと! なに描いてあるのか教えなさいよ! ねえってばー!》


 アデハは逃げるようにして立ち去った。そして人気のない場所まで来ると、もう一度その紙を広げてみた。そこには、ごく薄い字でこう書かれていた。


【ハヤク出テイケ、サモナクバコロス】


 それは脅迫状だった。アデハは食い入るようにその文章を読み、そしていまだ信じられないといった様子で眉間を指で強く押した。その時、近くの茂みがガサガサと鳴った。


「――だれ!?」


 アデハは反射的にその気配を追いかけた。しかしその者はすぐ森の深くに入っていってしまった。一瞬黒っぽい布地が見えた。その者が村の人間だとすれば、土地勘のないアデハにとっては酷く不利だ。
 アデハはそれ以上の深追いはせず、再びグライト達の居る場所へ向かって歩き始めた。


 * * *


 グライトは館の前で、トートスと供に建物の点検をしていた。
 二人は彼女に気付いて振り向いてくる。


「あっ、アデハさん。今、この建物が使い物になるかどうか見ていたんです」
「柱がいくつか駄目になっていますが、それ以外は思いのほか痛んでいません。何本か柱を入れてやれば使えそうです」


 そう言ってグライトは、近くの丈夫そうな柱を手で叩いた。


「それは良かったわね。キャラバンが戻ってきた時に使えるわ」


 そこでグライトはアデハの異変に気付いた。黒眼鏡の奥で怪訝な表情を浮かべる。


「顔色が優れないようですが。何かございましたか?」
「いいえ……別に何もないわよ。ただちょっと、歩きすぎて疲れただけ」
「本当ですか? ならば良いのですが」
「うん、大丈夫よ。それでねグライト。明日の朝、出発することに決めたから」
「了解しました。して、あの少年のことは」


 その言葉に、アデハはただ首を横に振った。それを見たトートスが驚いて言った。


「そんな、お仲間さんなんでしょう? 石床でしたら今は二つとも空いてますし、もう少しここにいて探されたらいいじゃないですか。グライトさんも、そう思うでしょう?」
「いえ、自分は、アデハ様の決定に従うまでです。もちろん、ここに居るうちは、出来る限りのことをさせて頂きますが」


 そう言ってグライトは、彼にとっては幾分低い館の軒下を潜り抜けて、その中に入って行ってしまった。


「トートスさん、いくら石床が空いてるとはいえ、いつまでもあのような形でお借りするわけにはいきません。それにきっと……あの子も探されることを望んでいないでしょう」
「そ、そうですか……?」


 アデハはそのまま館の中に入った。館内はひどく散らかっていた。床には木片やごみ屑が散乱している、アデハはグライトとともに、それらを拾い始めた。


「アデハ様、やせ我慢をしておられませんか?」


 不意にグライトが口にする。
 痛いところを突かれたらしく、アデハは一瞬にして表情を険しくした。


「むっ、そんなことないわグライト。私が何を我慢しているというの?」
「本当は、あの少年のことが気になっているのではないかと」
「グライト、貴方こそシェンにやきもちでも焼いてるんじゃないかしら?」
「心外です。いくらアデハ様とはいえ、それは自意識過剰というものです」
「むむ、言ったわね、もう貴方の料理食べてやんないんだから」
「アデハ様、どうか冷静になってください。腹が立つのはわかりますが」
「腹なんて立ててないわ。それはグライトの方でしょう? そんなに探しに行きたければ神駆と二人で行ってくればいいじゃない。私は温泉につかってのんびりしてますから」


 どんどん険悪になっていく二人にトートスが歩み寄る。


「お二人とも、どうか落ち着いて!」


 しかし焼け石に水だった。


「もしものことがあったら、自分は父上様の前で腹を切らなければなりません」
「あのオヤジの名前をもちださないで。だったらシェンなんか放っときなさいよ」
「しかし、アデハ様が一言探すと言ってくだされば、みなで探しにいけるのです」
「行かないって言ってるでしょ? もうその話はしないで。言令かけるわよ」


 グライトは深くため息をついて頭を振った。アデハはグライトが思っていた以上に不機嫌だった。仕方なくグライトは、拾った木片を捨てるために屋敷の外に出る。
 だが彼が外に出ようとしたその瞬間、鈍い音が館内に響いた。


「――ぐぬっ!」


 建物全体に衝撃が走る。
 なんとグライトは入口の軒下に頭をぶつけてしまったのだ。抱えていた木片を地面にばら撒き、痛打した箇所を押さえて屈み込む。
 彼の頭部は生身である。いくら彼が屈強な肉体の持ち主とはいえ、流石にこれは耐え難い。


「ぐぬうう……噴ッ!」


 そしてグライトの鬱憤が限界に達した。
 慌てて歩み寄ったトートスの目の前に、グライトの両腕が振り下ろされた。そのまま大質量の鉄の玉となって、足元の敷石に叩き付けられる。石は一瞬にして砕け散った。


「ぎょえ!?」


 トートスは目を剥き、尻餅をついた。
 石を砕いた衝撃は、地面を通して建物全体をも揺るがした。天上から夥しい量のすすが降り注ぐ。たまらずアデハは外に逃げ出した。


「ちょ、ちょっと……グライト!」


 流石のアデハも驚いた。いつも物腰穏やかで感情を荒げることのない彼が、いかに頭を痛打したとはいえ、このような憤怒をあらわにするとは。


「……はっ、なんとしたことだ」


 自分のしたことに気付いたグライトが、珍しく困惑の表情を浮かべた。


「あ、あはは……。わかりますよグライトさんっ、僕もそれやったことありますから!」


 トートスが必死に合いの手を入れるが、グライトは頭を抱えてうな垂れてしまった。


「なにか冷やすものを持ってきますね!」


 といってトートスはばたばたと走っていった。毒気を抜かれたようにしおらしくなったアデハが、そっとグライトの横にしゃがみ込む。


「ごめんなさい……言い過ぎたわ。確かにちょっと、いらいらしてた……」
「いえ……自分の修行が足りないのです。この程度で我を忘れるとは……不覚」
「ううん、きっとそれだけではないと思う……」


 と言ってアデハは周囲を見渡し、誰もいないことを確認する。


「村の意思の影響。今にして思えば貴方、朝から様子が変だった。お椀の中にも骨が入っていた。普段の貴方なら、そんなことは絶対にしない」


 グライトは沈痛な面持ちでアデハの話を聞く。


「あちこち回って、村の人達と話してきたんだけど、思っていた以上に深い問題がこの村にはあるようなの。私がお節介をかけたくらいではどうにもならないほどのね。それはきっと、貴方にこんなことをさせちゃうくらいのものなのよ」
「むう……」


 その言葉を、グライトはただ黙って耳にする。


「長居しない方がいいと言った貴方の言葉の意味が、今わかったような気がする。私もこれ以上あなたの心に負担をかけたくない。だから……やっぱり明日ここを発つ。そして近くの街を回れるだけ回って、少しでも多くの人にチャプラールに来てもらおうと思う。それ以外に、この村を建て直す方法はない」
「あえてお聞きします。明日なのですね? 今すぐではなく」


 アデハの理屈にならうなら今すぐにでも発つべきであった。しかしそれを明日というからには、そこにはそれなりの理由があるのだろう。


「一晩だけ待つ。それがきっと、今の私達にできる精一杯」


 と言ってアデハは苦い顔をする。


「わかって、これ以上はどうしようもないの。今シェンを追いかけて、それで何かが良くなるとは思えない。私はもう待つことしかできない。謝ることさえ出来ないのよ」


 しかしあの腕だけでも返すべきでは――と、そこまで思ってグライトは考えを改めた。
 腕を返せばそこで少年との縁は切れる。そして金輪際、関わりあうことは無いだろう。
 おそらくアデハは信じているのだ。意識してのことではないかもしれないが、シェンが自ら戻ってくることを信じているのだ――。


 そこまで思い至ったグライトは、その場で静かに立ち上がった。


「少し頭を冷やしたいので、その辺りを走ってこようと思います」


 と言ってグライトは、どこか吹っ切れたような表情を、黒眼鏡の奥に浮かべた。


「もしかするとその間にシェンを見つけてしまうかもしれませんが、それは偶然です」
「グライト、あなた……」


 アデハは呆けたようにグライトを見上げて言った。


「神駆の側から離れないでいてください。今日中には戻らないかもしれません」
「え? ちょっと、どこまで行く気よ!」
「この頭が冷えるまでです。ご存知とは思いますが、自分は日に十日里は走れます」
「で、ででで、でも……とんでもなく疲れるわよ! そんなに走ったら!」
「このところ運動不足でして。いい機会です」


 と言ってグライトは口元に笑みを浮かべた。
 その時、トートスが水桶と布巾を持って走ってきた。


「遅くなりました! これで頭を冷やしてください……って、あれ、どうしたんです?」
「いいえ、こちらこそすみません。ところでトートスさん、その水って……飲めます?」
「ええっ?」


 グライトは桶の水を水袋に入れると、濡れ布巾を首にかけ、軽快な足取りで走って行ってしまった。
 あっと言う間に遠くなるその後姿を見つめながら、トートスが言う。


「まさに鉄人ですね……」
「まあ、色んな意味でね……」


 そう言ってアデハは、祈るような視線を彼に送った。









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