アシアセラフィカ ―内なる獣―

ナガハシ

全てが狂った日

 森は過酷な生存競争の戦場であると同時に、豊かな恵みをもたらしてくれる楽園でもある。
 森なくしてヒトは生きられない。だがヒトにとって夜の森ほど恐ろしい場所もない。心を丸ごと飲み込んでしまうような、獰猛な闇に支配されているからだ。


 もしヒトが森の中で暮そうと思ったら、けして勝つことの出来ないその闇と、うまく付き合っていく術を学ばなければならないだろう。だがそれは、ある意味において死を受け入れることに等しい。森には森の掟があり、そこにヒトの世の理は通らないのだから。


 * * *


 チャプラール村を囲む深い森を抜けたシェンは、日の昇る方角から大よその見当をつけて、リーシャン方面へと向かって歩いていた。
 残された生身の左腕で、白磁の槍を杖代わりにし、相当な早足で歩いていく。
 チャプラールを出てからおよそ三刻。その歩みは、砂漠地帯辺縁の荒野へと差し掛かっていた。


 リーシャンまではおよそ九日里。徒歩でなら三日はかけたい距離である。
 しかしシェンは、その道を一昼夜歩き通しで抜ける気でいた。


「うっ……くっ……」


 その眼は赤く充血していた。先ほどまで泣いていたのだ。
 切り落とした場所が痛むからではない。腕は石床での処置を行いながら切断した。
 痛んでいるのは、もっと別のどこかだった。少年はその心の痛みを振り払うようにして、さらに歩みを進めていく。


 東の空を昇り始めた太陽が、その小さな姿を容赦なく照らしていた。


 * * *


 今から二年ほど前の話になる。目の前で幼馴染の少女を失ったシェンは、その年の春から秋にかけて、ずっと家の中に引きこもっていた。
 少女とシェンは、物心ついた時からの仲だった。彼女は幼少の頃に両親を失っており、その後シェンの母親であるシェトラに引き取られて育った。つまり二人は、血の繋がらない兄妹のような間柄だったのだ。


 シェンの生家は丸太組みの一軒家で、その二階にシェンと少女の部屋があった。部屋には二つの寝台が置かれていた。その間に絨毯が一枚。そして小さな机が一つ。窓際には、植樹するはずだった光り木の苗が、殆ど管理もされないまま放置されていた。


 少女が荒地の祠をマウソレムとして復活させようとしたことには理由があった。彼女の両親は、村の近くに現れた石獣を討伐する際に瀕死の重症を負ったが、村の石床の数が足りなかったために治療を受けることが出来ず、命を落としてしまっていた。
 まだ幼かったシェンと少女は、その場面を直接見たわけではなかった。それでも少女の両親の不在は、二人の心に色濃い影を落としていた。


「またいつ獣が襲ってくるかわからない。私は、いま出来ることをしておきたい」


 少女は十ニ歳の誕生日の時に、シェンとその母にそう宣言した。そして二人は、マウソレムの痕跡と思しき祠を復活させるために、村はずれの荒地の緑化を始めたのだった。


 だが、それもする意味がなくなった。祠は跡形もなく消し飛んでしまった。
 シェンの中に残ったもの、それは、目的を失った虚脱感、守るべき人を失った喪失感だった。生きる理由の一切を失った少年の心は、負の感情で満たされてしまった。


 母親が朝晩運んでくる食事にも、ろくに手をつけられない日々が続いた。
 村人達の何人かが、心配して訪ねてきたが、少年は口を利く気にもなれなかった。


「お前が元気を出してくれないと、村のみんなも辛いんだ」


 誰かがそんなことを言い残していった。その夜シェンは、言い表しようのない怒りと憤りにかられて、部屋の中にあったもの全てを、レアニムの槍で滅茶苦茶に叩き壊した。
 少年は既に、己の内で荒れ狂う獣を、制御することが出来なくなっていた。
 さらにその心の獣は、人々の通覚を通して村中に広がっていったのだ。


 通人のもつ悲しい習性。
 自分の中の感情が、その周りの者達に対し、容易に伝播してしまう。
 シェンが一人部屋に閉じこもっていたのは、その影響を誰よりも理解していたからでもあった。
 あえて自分を村の社会から隔離して、そして一人、身の内の獣と戦おうとしたのだ。


 しかし、物事は思い通りにいくことの方が少ない。その年の暮れには、ほぼ全ての村人が、シェンと同じ獣をその心の中に飼うようになっていた。
 村のあちこちで喧騒が耐えなくなった。収穫期の終わりに予定されていた祭りが開催できなくなった。この苦しい感情の発生源がシェンであることは、村人全員の知るところとなっていた。


 やがて、行き場のない怒りの矛先は全てシェンに向けられるようになった。
 何が起きても少年のせいにされた。あの子の心に巣食う獣が、村に滅びの風をもたらしていると。
 いっそ追い出してしまおうか。それとも、石床で矯正してしまおうか。そんな不穏な話が、村人達の間で頻繁に持ち出されるようになった。
 やがて母親が心労で倒れ、シェンをかばう者は一人もいなくなった。
 そして運命の日が訪れた。


「シェン、お前はこれまで良く頑張った。もうこれ以上、悲しむ必要はないんだ」


 村の長と、体格のよい男数名が、ついにシェンの身柄を拘束しにやってきたのだ。彼の中にある悲しみを、少女の思い出ごと消去する。そんな非情な決断が下されていた。


「人はみな、いつか何らかの形でこの世を去る。だがシェンよ、生きている私たちは、その痛みをのり超えて、これからも生きていかなければならんのだ」


 少年は激しく抵抗した。レアニムの槍を振るい、彼らを部屋から叩き出そうとした。しかし男達はそれを予想していた。彼らもまた武装していたのだ。


 シェンは狂ったように暴れまわり、その一人に深手を負わせるほどに抵抗したが、やがて体力が尽きて縄に捉えられた。そして一本の墓木の前に連れてこられた。
 少女は体が残されていなかったため、石葬が行えなかった。彼女の衣服を焼いて灰にしたものが、その木の前に撒かれていた。


「さあ、最後のお別れをするんだ」


 シェンは憎悪の炎をぎらつかせた瞳で、偽りの灰がまかれた、その木の根元を睨んた。
 その様子を見て、激昂した青年の一人が叫んだ。


「甘ったれるのもいいかげんにしろ! お前一人が辛いとでも思っているのか!」


 そしてシェンを蹴り飛ばした。少年は土の上に倒れこんだ。青年はその胸倉を掴んで持ち上げると、少年の頬を拳で殴り始めた。他の者達が彼を制しに入るも止まらなかった。


「いつまでもウジウジしやがって! そんなことをしても誰も喜ばねえんだよ! お前がそんなんだから、あいつはいつまでたっても成仏できねえんだ!」


 シェンの銀髪がザワザワと逆立っていった――殺す――シェンの胸のうちにたぎっていたものは、明確な殺意、それ以外の何物でもなくなっていた。


「なんだよその目は。お前がさっさと立ち直らねえから、いつまでたってもあいつの声が消えねえんだ。ずっと響き続けてるんだよ! この耳に! あいつの声が!」
「……ウウウウウ」


 シェンは血が滲むほど歯をかみ締め、狂犬の如き唸り声を上げはじめた。そして。


「アアアアアアアアアアア!」


 シェンは獣と化した。
 自分と、自分の中にあるラウとの思い出を踏みにじる、全ての者達をシェンは呪った。それが少年の心の全てになった。


「グガアアアアアアアアア!」
「いかん! 離れろ!」


 その身が激しく突き上げられた。髪を振り乱し、牙を剥き、獣は周囲の者全ての喉笛を噛み切ろうと暴れ狂った。彼を縛っている縄が肉に食い込み、体中から血がにじみ出る。


「もうだめだ! 早く処理しちまおう!」


 さらに何本もの縄が投げられ、少年の体はがんじがらめにされていく。
 シェンはそのまま引きずられるようにして、マウソレムへと連れて行かれた。ヒトとしての形を失ったシェンを、多くの村人達が悲痛な面持ちで見送った。それはもしかすると、獣に襲われて死んだ同胞の亡骸を見るよりも、辛いことだったかもしれない。


 霊廟に運び入れられると、少年はすぐに石床に縛り付けられた。ありったけの力で石床をかきむしったので、その爪は全て剥がれ落ちてしまった。獣はなおも狂ったように泣き叫び、何度もがつがつと石床に頭を打ちつけた。


「死んでしまうぞ! 押さえろ!」


 大人が五人がかりでその頭を押さえつけた。
 口をふさがれ、目もふさがれ、ついに少年は一切の身動きを封じられてしまった。
 ただ荒い息だけが鼻の穴から入っては出ていく。


「長、準備が出来ました」


 ウィタリスを操作していた者がそう告げた。村の長は今一度シェンの顔を見た。
 その顔は血と、涙と、口から吹き出した泡とでぐちゃぐちゃになっていた。眼の焦点もあっていない。どこか遠く、この世ならざる場所にでも、目を向けているようだった。


「すまんなシェン……これでお前は全てを忘れるが、ワシらはこのことを一生忘れん」


 そして村の長は、石床を操作している者に告げた。


「……やれ」


 次の瞬間、石床に横たわるシェンの体が、湧き上がるような閃光に包まれた。


――うおおおおっ!


 シェンを押さえていた男達が、一斉に飛びのいた。シェンの額に、何かの文字が次々と生まれ出し、そして綺羅めかしい光を放ち始めた。


 突如、石床がぐにゃりとその形を変化させた。
 そしてシェンの頭部をすっぽりと覆い隠した。
 宙に何枚もウィタリスが映し出される。


 それら全てに、あの幼馴染の少女の姿が浮かび上がって、走馬灯のように流れていった。
 目に終えないほどの速さでそれらの映像が、数字と記号の羅列に置き換えられ、少年の頭部に吸い込まれていく。
 記憶の消去、置換、捏造。それらの作業が、目にもとまらない速さで進行していた。


 少年の体はすっかり動かなくなっていた。指先からは、割れた爪の血がずっと滴り落ちていた。ぴくりとも動かない。動かなかったはずである。シェンはその時石床によって、その神経中枢を完全に支配されていたのだから。


 だが予想外の自体というものは、いつどこにでもありうるものだ。
 その場にいた者全てが、これでなにもかも元通りになると思ったその時、異変は起こった。


――カシャン


 硝子の割れるような音と供に、シェンの頭部を包んでいた被いが砕け散った。その場にいた者全てが戦慄した。中にはへたり込んでしまった者もいた。
 そこにあったのは、まるでこれから死者が蘇ろうとでもしているような光景だった。
 シェンはその血みどろの腕をゆっくりと持ち上げると、石床の上に手をついて、その体を持ち上げた。


――シュルルルル


 銀色の髪が、まるで命をもった生き物のように、うねりながら広がった。
 体全体を脈動させるようにして、何かどす黒い、憎悪の塊のようなものが駆け巡った。
 そして少年の瞳から、不気味なまでに神々しい、エメラルドの輝きが放たれた。


 少年はそのまま石床を降りる。そしてゆっくりとその前に立ち上がる。


「悪魔だ……」


 誰かがそう呟いた。恐怖の時間が始まった。
 シェンの全身を脈動させていた黒い塊が、濃い霧となって周囲に発散されていく。そしてその場に存在している全ての生命体を包み込んでいく。


――ギャアアアアァァァァ!


 部屋の空気を男の悲鳴が引き裂いた。
 その者はみるみる全身の皮膚を溶解させてゆき、その下の肉をさらけだしてもがき狂う。さらにその肉までをも溶解させて、その下の骨をも露出させ、そしてついに、一片の影も残さず消滅してしまった。 


「う、うわ……うわああああああ!」


 蜘蛛の子を散らすようにして、みな一斉に逃げ出した。
 しかし黒い霧はどこまでも彼らを追いかけていった。


 そして村中に、永遠とも思える暗黙の時が流れた。
 村人はもちろんのこと、鳥や獣、さらには周囲に生えている草木花々までもが、一斉にその口をつぐんで沈黙していた。


 霊廟の中からは、すり潰した血肉を無数の手でもってこね回すような、世にもおぞましい音が漏れ出し続けている。
 聞いているだけで精神が壊れてしまいそうなほどの、その禍々しい異音を耳にして、霊廟の周辺にいた者達は次々と嘔吐した。


「……どうなるんだ……これから」


 やがてその内の一人が言った。
 その答えを持つものは誰一人としていなかった。村の中心的な人物や、石床のことに詳しい者達は、みな全て霊廟の中にいた。
 誰もが足をすくめ、動けないでいた。


 それから半刻ほどがたった。
 ある瞬間を境に、異音はすっかりと止んだ。風が吹き、草木が揺れ始め、鳥の声が戻ってきた。
 その時を待っていたかのようにして、霊廟の扉がひとりでに開いた。


 そこにはシェンが一人で立っていた。


 驚くことにその体には傷一つなかった。爪は割れ、全身に縄が食い込み、生傷も無数にあったはずだった。
 まともに食事をとっていなかったために痩せ細ってもいたはずだ。だがその体は見違えるように逞しくなっていたのだ。


 一体何が起きたんだ――。
 通覚を介して伝わってくる村人達の問。
 少年はその問いに対する答えを探すかのように、己の体を見渡した。


 何故こうなったのか――。
 シェン自身にも見当もつかなかった。
 シェンがしたことは、ただ『あの声』が問うたことに対して、正直に答えただけのことだった。


『お前はあの少女のことを忘れたくないのだな?』


 それはどこか無機質な、感情のこもっていない男の声だった。
 石床に縛り付けられていた時に、その声が聞こえたのだ。シェンは答えた。


 ああいやだ。オレがあいつを忘れたら、いったい誰があいつの事を覚えている。村のみんなは忘れるつもりでいる。あいつことを忘れて、なかったことにして、それで死を乗り越えたと思い込もうとしている。そんなのオレは絶対に認めない。


 謎の声はさらに続けた。


『他のどんなものに変えてでも、お前はその意思を貫きたいか』


 ああ、どんなことでもする。あいつのことを忘れないためなら、オレは今もっている全部を失ったってかまわない! オレはあいつのことを忘れたくない! 絶対に!


 そしてシェンは目を覚ました。
 気づけば石床から数歩進んだ所で倒れていた。そしてその周囲には、何をどうすればこんな姿に成り果てるのか、まるで想像もつかないような形になってしまった、村の男達の屍が散乱していた。
 彼らの姿は、まるで溶けた蝋人形のようになってしまって、一つとして原型を留めてはいなかったのだ。


 やがてシェンは理解した。これは全部、自分がやったことなのだと。
 今この体には不気味なほどに力がみなぎっている。まるで、周りで死んでいる人達の生命力を、根こそぎ吸い尽くしてしまったかのように。そのことをシェンはその身をもって理解していた。


「全部、オレがやったんだ……」


 シェンは見渡していた両腕を力なく下ろすと。


「くっ……!」


 そしてシェンは脇目も振らずに走り出した。そして自分の家へと飛び込んでいく。
 二階に上がり、投げ捨てられていたレアニムの槍を拾い上げると、あとは一目散に村を飛び出していった。


 行く先など何処でもよかった。
 少しでも村の遠くに離れられればよかった。
 もうこれ以上、この世界を狂わせてしまう訳にはいかない。
 そう必死に願いながら、少年はどこまでも走り続けた。









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