アシアセラフィカ ―内なる獣―

ナガハシ

下山

 翌朝。
 東の地平にうっすらと青みが差してきた頃、続々と里人達が起床してきた。
 シェンは石畳の上に胡坐をかいて眠っていたが、周囲の状況はしっかり認識していた。野生動物のように、完全に熟睡するということがないのだ。


 やがてアデハが起きてきて、シェンの様子を見にやって来た。その気配すら眠りながら感知していたシェンは、彼女に肩を揺すられるまでもなく目を覚ました。
 それから二人は、再び古蔵にこもって古文書や来訪者の残した記述を調べた。


 シェンは昨日よりもいくぶん素直になっていた。アデハの指示に従って、幾つかの書物を運んだりもしたのだ。
 その後朝食を食べ、下山の仕度をした。その時に土産の品をどっさりと頂いた。そのためにシェンは、来たときよりもかなり重い荷を担いで山を下りることになった。
 澱粉の入った袋と木の実の入った袋、その二つを背負って、シェンはインの正門をくぐる。


「ん?」


 門の前にゼンダが一人で座らされていた。野盗を主導した罪に対する罰だ。彼はしばらくの間、このまま風雨にさらされ続けるのだそうだ。
 シェンは、アデハと僧長が話し込んでいる間に、そっと彼に近づいた。


「な……なんだ?」


 鼻を潰されているゼンダは、話しにくそうにそう言った。
 するとシェンは、どういうわけか懐から干し肉を取り出した。それはゼンダ達の野営地からくすねてきたものだった。よほど空腹が我慢できなくなったら食おうと思っていたのだ。


「口あけろ」


 と言ってシェンは、干し肉をゼンダの口に押し付けた。
 ゼンダはしばし怪訝な顔でシェンを見つめていたが、やがて恐る恐る口を開いた。


「食え」


 ゼンダが干し肉を咥えたことを確認すると、シェンは踵を返してアデハの元に戻った。


「じゃそろそろ行きます。本当にお世話になりました」


 アデハは、僧長に向かって深々とお辞儀をする。


「また、いつでもいらして下さい」


 僧長もまた手を合わせて頭を下げた。


 そしてシェンとアデハは山を下り始めた。アデハは里人達の姿が見えなくなるまで、何度も振り返っては手を振っていた。


「ねえ、シェン。さっき何をしてたの? ゼンダに何か咥えさせてたわよね?」


 やはり気になったらしく、アデハがそう問いかけてきた。 


「肉を返した」


 とシェンは、極めて簡潔に返答する。


「肉? そんなものいつの間に……あの野営地で拾ったの?」


 シェンは機械的に頷く。アデハはどこか腑に落ちない顔をしていたが、シェンはそれ以上の説明はしなかった。


「悪いことをした僧の口に肉……ねえ。何かの公案みたい」


 そう言ってアデハは首を傾けた。公案ってなんだ? そうシェン思ったのだが、長々と講釈を垂れ始めそうだったので聞かないでおいた。また昨夜のようになっては堪らない。
 代わりにシェンは、昨夜からずっと気になっていたことを考えることにした。なぜアデハが、自分に悪夢の話を聞かせてきたのかということだ。始めは見当もつかなかったシェンだったが、それでも考え続けるうちに、ある重大な事実に気付いた。


 それは、もしアデハの言う悪夢が正夢なのだとすれば、白粛は彼女が生きているうちに必ず訪れるということだ。
 何か手を打つとすれば、今から動かなければ間に合わないだろう。もしかすると既に手遅れなのかもしれない。大勢の人々を従えるべき者が、近い将来の破滅を予見し、その回避のためにやっきになっている。
 もしそのことが広く知られたとしたら、それはそれで、とても面倒な事になりはしないか。そう少年は考えたのだった。


 アデハは世界を救いたいと本気で言っていたが、それは一歩間違えれば、自ら世の破滅を招きかねない、恐ろしい願望でもあるのではないか――。 
 ひとまずシェンは、その考えを胸の内に隠した。そして彼女に続いて山道を下っていった。来るときと明らかに道の雰囲気が違っていた。あの賊徒達が放っていた邪気がなくなっている。相変わらずうんざりするような獣道だったが、それでもその道は、どこか暖かな空気で満たされていた。


 あの里の粋人は、その多くがあの地で一生を過ごし、子をもうけるのだという。しかし通人の多くは、自らの意志で修養の日々を求め、この道を登ってきた者達だ。そんな通人の思いが、この道にはしみついているのかもしれない。
 吊橋を渡り、再び断崖に渡された足場を抜ける。倒木をまたぎ、茨の草をかきわけて、二人は登る時よりもやや早い、二刻ほどの時間で山道を下りきった。
 道が開け、歩行も楽になってきたころ、シェンはアデハに切り出した。


「……おい」


 どこか間の抜けた声になった。アデハがシェンの目の前で飛び跳ねた。


「んえっ!?」


 彼女はシェンが予想していた以上に驚いた。彼から話しを切り出すのはこれが始めてなのだ。アデハはその場で足をもつれさせ、たたらまで踏んでしまった。


「な、ななな、何かしら? シェン君」


 アデハもまた考え事をしていたのかもしれないとシェンは思った。そしてどことなく居心地の悪い気分を感じつも、そのを先を続けた。


「……本当に起ると思っているのか、白粛」
「え? ああ、そのことね……」


 アデハはすっかり足を止めてしまっていた。一端呼吸を整えてから、問いに答える。


「うーん……起らないって信じたいわね、本音を言えば」


 と言ってアデハは、シェンが自ら言葉を発した事実をようやく飲み込んだらしく、にんまりと満足げな笑みを浮かべた。ただこっちから話しかけただけで、そんなに微笑まれてしまっては正直困る。シェンはそう思いつつ、その笑顔から逃げるようにして顔をそむけた。そして。


「……他の奴も、そうなんじゃないか」


 とだけ、小声で付け加えた。
 アデハは軽く首を傾げると、再びシェンを背にして歩きだした。
 そしてどこか遠くを眺めながら、何かを考え始めた。シェンの目の前で、その首を何度かひねる。


「それもあるかもね。起こらないと思ってるんじゃなくて、信じたがっている」


 と言ってアデハは、背負ってる荷物を直す。そしてシェンの方を振り向いてきた。


「いずれ人々が互いを食い合うようになるなんて、誰も信じたくはないでしょうね。それにもし、みんなが白粛のことを信じてしまったら、それはそれで困ったことになる」


 そう言ってアデハは前を見る。
 その言葉を聞いて、シェンは心の片隅で安堵した。


「でも、皆が起こらないと信じたからって、その可能性が無くなるわけじゃない。誰もが起らないと信じていることでも、誰かが疑いを持って調べていないと、いつか取り返しのつかないことになるかもしれない。だから私は、あえて孤独な変人になるのよ。いままでもそうだったし」


 シェンは殆ど無意識のうちに、憂うような視線をアデハの背に向けていた。あたかも彼女への同情を示すかのように。そしてその視線に、やはりアデハは気付いてしまうのだ。


「ふふ~ん? もしかして……気を使ってくれたの?」


 アデハはシェンの隣まで下がると、その頬に手を回し、舐めるように撫で上げた。


「ひゅぐ!?」


 シェンはびっくりして飛び跳ねた。アデハはさらにその喉元を撫で回す。


「よしよしっ、やっぱり君は優しいんだね」
「そ、そんなんじゃねえ」


 少年は顔を赤くしてその手を振り払った。


「グライトと神駆にも報告しなくちゃ」
「……しなくていい!」


 ぎこちないながらも、どこか楽しげな話し声を響かせて、二人は山道を下っていく。









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