アシアセラフィカ ―内なる獣―

ナガハシ

「こほんっ。私としたことが、つい取り乱しちゃったわ」


 しれとそう言って、アデハは乱れた襟を直した。シェンはのぼせた顔をしていた。


「というわけで、私はこの世界を守りたいと思っているの。白粛の伝承が本当で、実際に起こってしまったら、私は二度と、この景色を美しいと思えなくなってしまうから」
「……ああ」


 シェンは適当に相槌をうった。


「今日、ここで白粛の絵を見せてもらって、私の確信はより強くなった。あの絵は想像だけで描けるようなものじゃない。それに、ソウハク様の史書の記述とも一致している」
「……そうなのか?」
「うん。ソウハク様っていうのは、私の遠い先祖様で、今から四百年前に私と同じように大陸を旅して歩いた人なの。ソウハク様が残した史書……というか旅日記なんだけど、それがずっとセキエイ家の教本として受け継がれてきたのね。セキエイの家の者は、必ず一度はソウハク様の旅日記を写す決まりになっているの」


 話しているうちに、アデハの瞳が輝きを増していく。
 よほど歴史・伝承の類が好きな女なのだろう。


「その一つに『白粛ノ記』というのがあって、そこにこんな記述があるの」


―ー通じ人らの意思・記憶、全て白紙となり。古の技、伝聞、記録、悉く失われたり。粋の者共みな自棄自失となり、彼の者達の記憶なくして、我らの心ももとなしと、大いに嘆く。


「通じ人。つまり、あなたやグライトのような人達の記憶が一切なくなってしまって、私達のような粋の者達だけが、まるで白紙のようになってしまった世の中に取り残されて、心細くでたまらなくなって、みんなでわーわー嘆いたっていうことなのよ。これってどこか、昼間に見せてもらった絵と一致していない?」
「……ううん」


 シェンは首を傾げる。彼には少し難しい話だった。


「いいえ、気がするんじゃなくて、一致しているのよ。絵の中の人々の、あの救われたような表情は、つまり何もかも忘れてしまったことを意味している。嬉しいことはもちろん、嫌なことさえも全部。今まさに体を引き裂かれている事実までも忘れてしまっている、そういう光景……」


 そこでアデハは言葉を濁した。
 みんなに笑われたことをまた思い出しているのだろうかと、シェンは思ったのだが。


「それとは別に、もう一つ、私の思いを強めていることがあるんだけど……」


 そう言ってアデハは、シェンの眼を見つめてきた。


「シェンにだったら……話してもいいかな」


 少年は困ったよう眉をひそめ、首を傾げる。一体これ以上何を話そうというのか。


「これはもう本当に、夢の中の話なのよ。だからもう、純粋に私の中の妄想」
「……夢?」
「うん。私ね、子供のころ、原因のわからない高熱を出したことがあるの。その時に見た夢が今でも忘れられない……ううん、この旅を始めてから、ますます存在感を増している。とても恐ろしくて……切ない夢」


 アデハは何かとても大事なことを打ち明けようとしていた。
 それは本来、シェン自身には関係のない話なのだろう。しかしシェンは、なぜかそれを他所事とは思えなかった。ひとまず聞いておく意味はあるのではないかという、不思議な予感がしていた。


「それは、私の周りにいる人達みんなが、私のことを忘れてしまう夢なのよ……」


 そしてアデハは、その夢の内容について、滔々と語り始めた。


 * * *


 アデハの生まれた地、海那方は、大陸の東に浮かぶ弓状の列島である。
 島の全土には、およそ八百万の通人が暮しており、その全てが二百十余の粋族諸氏によって統治されている。
 中心となる権力機構は存在せず、粋族同士の合議の下で争いなく治められていて、独自の自然信仰に基づく文化・風習の中で、比較的平穏な社会を築いている。


 その中でも、五大粋家の一つに数えられるのが、アデハが生まれた氏族、セキエイだった。
 セキエイ家は、列島の中ほどにある緑豊かな土地に居を構え、十数万の人々が暮す都の長として、日々、豪奢な生活を送っている。
 とはいえ、その十数万の中にあって、セキエイに属する粋人は、分家をふくめて百人にも満たない。それもそのはず、一生のうちに一度でも霊廟を使用して病を治せば、たちまちその粋人は通人に変化してしまうのだから。


 一生のうちに、一度も大病や大怪我を経験しない者など、そうそういるものではない。故に、粋族というものは、なにより病を恐れ、怪我を厭う。
 セキエイ家に生まれたアデハもその例に漏れず、幼少時より箱に入れて可愛がられるような育て方をされてきた。その徹底ぶりは、十歳を過ぎるまで外に出してもらえなかったほどだ。


 幼い頃より類稀な利発さを示していたアデハは、七歳になる前にはソウハクの史記を全て写し終え、そして外に出られぬのなら内に潜るべしと、屋敷の古蔵に引きこもっては、古文書を漁る日々を続けていた。
 そして気付けば、いっぱしの考古学者になっていたのだ。


 成長した彼女が、ずっと古蔵に篭っていることを良しとするはずがなかった。世話係の通人達が、何でも言うことを聞くのを良いことに、都の東部にある遺跡の発掘を命じたりするようになった。
 そうして出来る範囲で独自の調査を始めるようになったのだ。


 もちろん家の者達からは反対された。しかしそれが、唯一と言っていい彼女の道楽であったため、彼女の両親でさえ、きつく注意することは出来なかった。そして彼女が十四歳になった時、厳重な警護をつけるという条件で、アデハ本人が、自ら遺跡に赴くことを許されたのだった。


 そこで彼女が見たものは、その周囲を巡るのに、馬でも丸一日かかるほどの規模の、巨大な都市遺跡だった。
 今は真っ白に風化した基礎がわずかに残るだけだが、その構造を調べてみると、およそ想像もできぬほどの巨大な建築物群であったことが判明した。古蔵で貪るようにして読んだ史書の中にも、数千年の昔に、そういった巨大文明があったという記述があった。


 しかしアデハの目には、それが『たった数千年前』のものとは、どうしても思えなかった。あまり多くを見て回ることは出来なかったが、当時のアデハにとってその体験は、何事も自分の目で見て回らなければ本当のことはわからないという教訓を、深く植えつけたのだった。


 そして数日後、アデハは原因不明の高熱をだすことになる。
 家の者達が大変心配したことは想像に難くない。彼女は数日の間、殆ど意識がなかった。旅の途中で病をもらったのではないかと考えられたが、医者にさんざん調べさせたにも関わらず、はっきりとした原因は突き止められなかった。あとは石床に頼るしかなかった。


 彼女を粋人で無くしてしまってでも、命だけは取り留めなければならない。
 そんな辛い判断を彼女の両親が下そうとしていた矢先、アデハはその夢を見たのだった。


 その夢の中には、アデハの両親も、祖父母も、兄も、二人の妹もいなかった。
 そこで彼女は見知らぬ通人の従者に囲まれて、寝台の上に横たわっていた。
 しかしその従者達は、みな一様に呆けた顔をして、アデハが話しかけてもうんともすんとも言わなかった。
 ただひたすら、周囲の光景を不思議そうに見渡している、ただそれだけだったのだ。


 アデハは続ける。


「ある人は、手に持った食器を見て、これは一体なんの道具だろう? とでも言いたげな感じで、ただぼうっとそれを眺めているの。そしてまたある人は、私の湯飲みにお茶を注いでくれているんだけど、それでもやっぱり、自分のしていることの意味がわからないでいるようだった。お茶はどんどん注がれ続けて、湯飲みからどんどんあふれていたわ。私はその様子を、寝台の上に横たわってただ眺めていた。きっと私は、お婆ちゃんになってしまっていたんだと思う。だから家族も、屋敷のみんなも、その夢の中にはいなかったのよ……。とても悲しい夢だった。あんなひどい夢は、後にも先にも無い」


 シェンは大よそ理解した。
 アデハはそれを、白粛の予知夢だと言いたいのだろう。


「なんでだ」


 二つの翠眼がきらりと光る。


「え?」
「なんでオレに話す」


 相変わらず抑揚のない声だったが、それはシェンがアデハに対し、始めて積極的に発した言葉でもあった。
 一瞬、虚を突かれたように息を飲んだアデハは、顎に手をあてて考え込んだ。彼女は自分から言い出したにも関わらず、その意図がよくわからないといった様子だった。


「オレが笑わなかったからか」


 と言って少年は、居心地悪く視線を下ろす。
 アデハは考えるのをやめて、手すりに身を預けた。そして遠くに光る月を見上げた。


「なんとなくよ」
「はあ?」
「うふふ、いつか誰かには言わなきゃいけないって思っていたことなの。知ってる? 悪い夢って誰かに話すと実現しなくなるのよ」
「……いや」
「そう。でもね、逆に良い夢は言っちゃだめなの。実現しなくなるから。あなただって夢は見るでしょう? もし悪い夢を見たことがあるなら、今のうちに言っちゃいなさいよ」


 そう言われて少年は、ひとまず自分の胸に問うてみるが。


「あんまり夢は見ない?」


 見ている気もするし、見ていない気もする。
 考えてみればあの日以来、まともに熟睡した記憶がない。
 だから夢のことなど問われても答えようがなかった。
 だがそれでも少年には、いまはっきり悪夢だと言えるものが一つだけあった。


 いま在るこの現実――。
 それもまた、口にすれば覚めるものなのだろうか。


「……どうしたの? シェン」


 何かを言いかけて、少年は口をつぐんだ。そして再び鐘楼の外を見渡す。
 月にはうっすらと雲がかかり始めていた。本堂より響いてきていた読経の音も止んでいた。
 にわかに吹きだした風が、野山の木々をざわめかせる。無数の小さな命のささやきが、夜の闇を支配していく。
 まるでそろそろ休みなさいと、鐘楼の上の二人に告げているかのように。


「……なんでもない」


 と言って少年は再びそっぽを向いてしまう。


「そう……。それじゃあそろそろ降りましょうか。明日は日が出る前に起きないと。貴方は本当にあそこで眠るの? 別に私、シェンと同じ部屋でもかまわないし……」
「あそこがいい」


 きっぱりと言う。


「そう、じゃあしかたないわね」


 少し残念そうに答えつつ、アデハは鐘楼の梯子に手をかけた。


「いい夢、見られるといいわね」


 少年は困ったように指で頬を引っかく。
 アデハはにこりと微笑むと、そのまま梯子を下っていく。
 しばらくして、少年もそれに続いた。









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