永久なるサヴァナ

ナガハシ

理由なき怒り

 猫館本館の一室。向かい合わせに置かれたソファーと、シンプルな木製テーブル。その他には壁にかけられた風景画と薄型テレビしかない手狭な部屋。
 その部屋の中に、マスターとカプラが向かい合って座っていた。


 二人ともピンと背筋をのばし、その表情にくつろぎの気配は微塵もない。
 先ほどからずっと口を開くこともなく、カプラの全身から放たれる冷え冷えとした霊気を受けて、イノシシ面のマスターは首筋に冷や汗を浮かべていた。


 カプラはまるで別人になっていた。店にいた時はいつも朗らかな笑みを浮かべて、自分のくだらない話に付き合ってくれた。
 歌が上手く、客あしらいにも馴れていて、常連客からも慕われ始めていた。
 カプラを雇い入れてからの数日は、これまで経験したことが無いほど、充実した日々だった。


 それが今では、まるで氷の彫刻のようになってしまった。
 これがむしろ、彼女の本性だったのかと思うと、マスターはなおのこと心苦しかった。


「ふう……」


 緊張を和らげようと、テーブルに用意されているタバコに手を伸ばす。火をつけながら再びカプラの表情を伺うも、そこに変化は一切なかった。


 昼間、ロンが店を飛び出して行ったあと、マスターはカプラとともに猫館へと向かった。カプラは幾分焦っているようだったが、ひとまず今までと変わりないカプラだった。
 猫館に着くと、すぐに二人は応接室に通された。そしてヤマネコ婦人に、しばらくここから出ないようにと告げられた。


 その理由は間もなく判明する。応接室に備えられている薄型テレビに、ロンとルーリックが戦っている場面が映し出されたのだ。どこか遠くの建物から望遠で撮影しているようで、ブレがひどかった。
 コロシアム周辺の平野を凄まじい速度で走り回るオオカミとエランドの姿を、そのカメラは追いきれていなかった。だが、エランドの姿を確認できただけでカプラには十分だったらしい。その直後から、一切口を利かなくなってしまったのだ。


 ヤマネコ婦人から、あのエランドは高級クラブ『ドリーム』の総支配人であることを告げられ、そしてカプラがその愛人だったことを知ったマスターは、そのままソファーの上に崩れ落ちた。
 そして、今外に出たら確実に命はないということを理解した。


 その後、窮地に陥ったロンのもとにミーヤが駆けつけてくるシーンを見て、それから数時間にわたる泥臭い戦いを、狂喜するヤマネコ婦人とともに観戦した。
 その間、ずっとカプラは冷たいままだったが、ロンが最後の窒息攻撃をエランドに仕掛けた瞬間だけ、僅かにその口元を動かしたのだった。


 戦いが終わり、担架で運ばれていくロンの姿を見て、マスターはひとまず安堵した。そして猫館の従者が用意してくれた食事を食べ、獅子長がカプラを迎えに来るという連絡を聞き、もう店に戻れるというヤマネコの提案を断って、今に至る。


 ひとまずマスターは、金の山羊であることは知っていたと彼女に伝えたが、それでもカプラは眉一つ動かさなかった。
 その態度は、それが彼女にとって既知の情報だったことを意味していた。
 カプラが店に来た日の夜、シャワーを貸した時に彼女は扉を半開きにしていた。あれは今にして思えば、自分たちにあえて山羊の髭を見せるためのものだったのだろう。


 そう思い至ったマスターは、惨めな気持ちになった。そしてそんな自分の気持ちを、目の前にいる美女が自分以上に理解していることにも気づいて、なおのこと惨めな気持ちになった。
 タバコを灰皿に押し付けると、早々とその火を消した。そして時計の時刻を確認する。
 夜の七時を過ぎている。もうあまり時間がない。今を逃せば、もう二度と言葉を伝える機会はないだろう。一つ大きく息を吐くと、マスターは静かに切り出した。


「僕は後悔なんかしちゃいないよ、カプラ」


 女はただ無機質な表情でそれを聞いている。聞いていることだけは、はっきりとわかる。


「君のために何かしてあげられたとも思っていない。ただ、この数日はとても楽しかった」


 恐る恐るカプラの目を見る。心持ち伏せ気味なその目は、どこも見てはいなかった。


「ロンはどうだか知らないけどね」


 冗談のように言って、マスターは気を落ち着かせるために小さく笑った。


「僕には昔、嫁さんがいたんだ。ガゼルの獣面を被った女獣闘士で、その時の僕より強かった。なんか気が合ってね、よく一緒に飲んだりしてたんだよ。そのまま酔いつぶれて、どっちかの部屋でぐっすりなんてことも良くあった。それでさ、そのうち子供ができちゃってさ。もしかしたら僕の子じゃなかったのかもしれないけど、とにかくあいつは言うんだ。これはあなたの子なんだって。それで僕は、結構な大金を出して指輪を買って、ちゃんと結婚式を挙げたんだよ。友達も呼んで、パーティーもして……それでね……」


 マスターは膝をむずむずさせながら言う。


「次の日、嫁さんはゲートをくぐって外に出て行っちゃった」


 そしてじっとカプラの顔を見つめる。そこに僅かな変化でも生じないかと願ってみる。


「高い指輪だけ持っていかれた。ガゼルの獣面と合わせれば、結構なお金になったと思う」


 カプラの表情に変化はない。だがややしばらくして。


「ありそうな話」


 とだけ、機械音声のような調子で口にした。


「そうだね。ありそうな話だよ」


 マスターはしばし、カプラの返答をかみ締めるように、視線を落として膝をむずむずさせていた。


「でも、後悔はしていない」


 そして再び視線を上げる。


「とても楽しいパーティーだった。こんな殺伐とした都市の中でも、上手くやればあんな楽しい時間を作り出せるんだ。それに、彼女が外の世界に出て行ったのは正解だったと思う。僕の子供は……たぶんだけど、僕の子供は、今も外の世界のどこかで元気に生きている。それを思うだけで僕は、何となく幸せな気分になれる、だから……。後悔なんかしてないんだ」


 そこまで言って、マスターは自分が涙ぐんでいることに気付いた。
 その液体を押し戻すように、鼻で息を吸い込む。そして何故こんな話をしたのだろうかと、言ってから疑問に思った。


 自分のことを覚えていて欲しかったのか、娘のような存在だったとでも伝えたかったのか、それとも自分の人生を肯定してもらいたかったのか。
 ひとしきり逡巡した後、結局は「会えてよかった」というメッセージの、ひどく婉曲的な表現だった、という結論に行き着いた。


「この話はロンにもしてないんだ。この先話す機会があっても、言わないでおいてね」


 そう最後に付け加えて、マスターは口元に一指し指を当てた。


――トントントン


 応接室のドアがノックされたのは、その時だった。


    * * *


 すっかり日も暮れた夜。幾つもの外灯に照らされた猫館の前庭に、数台の黒リムジンが停車していた。
 リムジンの周囲。前庭の中央にある噴水の側。そして猫館の正面玄関の前に、ジャガーやヒョウの獣面を被った黒服達が立っている。


 やがて玄関から歩み出てくる獅子、キング・ジョー。
 その傍らを付き添うようにして歩くカプラは、もうカカポの獣面をつけていない。


 その、金色の頬髭に彩られた美貌を惜しげもなく晒して、流水のように淀みない様子で前庭を進んでいく。
 玄関を出たところで見送るのは、ヤマネコ婦人とイノシシ男。そして数名のネコ少女。
 言葉なく、ただ見送るだけのその者達を、女はすでに振り返ることもしない。


「カプラ!」


 とそこに、若い男の声が響き渡った。獅子が振り返った先に見たのは、包帯でぐるぐる巻きにされた男――。


「ちょっとまてやぁ! いででっ!」


 片足を引きずり、右脇をミーヤに支えてもらいながら近づいてくる。だが、すぐに黒服達に取り押さえられる。


「はなせっ!」
「一言物申すだけにゃー!」


 リムジンから20歩ほど離れた位置でしばらく揉み合っていると、ようやくカプラがそちらを向いた。そのカプラに獅子が問いかける。


「知り合いかね?」


 だがカプラは何も答えず、ロン達の姿を真っ直ぐに見つめた。だがそれで十分、二人の関係を察したらしいジョーは、黒服達に向かって合図を送った。


 開放されるロンとミーヤ。
 肌蹴た包帯と痛む足を引きずりながらカプラの目の前まで来る。


「……悪いね獅子長さん」
「いいや、かまわない」


 声を聞いただけでロンは鳥肌が立った。


「ただし、手短にたのむよ」
「ああ、そんなに手間はかからねえ……」


 ミーヤの支えを振りほどくと、ロンはカプラと一対一で向き合う。
 今まで見たことも無い冷たい眼。二つの視線が音も無く交じり合う。


「それが本当のあんたか」


 女の眼にはどんな感情も浮かんではいなかった。これに比べれば、夜空に光る不死鳥の方が、よほど情緒豊かに感じられる。そのどこまでも己をひた隠しにした目が、ロンの気持ちをこの上なく苛立たせた。
 この後に及んでカプラは、まだ何かを守ろうとしている。


「言うことがあるだろうがよ……。まだあんたの中に人の心が残ってるんならな」


 静かな怒りを秘めて問いかける。後ろではミーヤが挑むような視線でカプラを見ている。


「そうね」


 そこでカプラはようやく口を開いた。
 ロンの後ろにいるミーヤに一度眼を向け、それから2秒ほど、長めにその目蓋を閉じた。


「短い間だったけど。楽しかったわ」


 そして瞳を開く。どこまでも蒼く澄んだその奥に、一瞬だけ以前のカプラが戻った。


「あなたには感謝している」
「それだけか?」


 だがそれ以上は何も答えず、カプラはロンに背を向けた。


「まてよ!」


 ロンはそれを止めるべく、一歩踏み出す。だが、それを獅子の逞しい腕が遮った。


「話すことはもう無いらしいな」


 軽く肩をつかまれただけだったが、それだけでロンは己の全てを押し潰されるようなプレッシャーを感じた。
 戦闘力指数1000を誇る獅子の獣面。それを被る人物もまたとんでもない傑物。
 獅子長の全身からは、実体化したオーラが吹き出ているようだった。


「これまで彼女を守ってくれたこと。私からも感謝の言葉を述べておく」


 獅子もまた、そういい残してロンに背を向けた。
 ロンは強く拳を握り締める。腰から下がびびって動かない。しかしその上体は、獅子長に向けて傾いていく。慌ててミーヤが駆けつけ、その体を引き留める。


「早まってはいけないにゃ!」
「……わかってる!」


 そしてロンは、最後に一言言ってやりたかった言葉を投げつけた。


「生きたいなら生きたいって言えばいいじゃねえか!」


 リムジンの乗り口に足をかけていたカプラの動きが、その時一瞬だけ止まった。


「最後まで自分を隠して死ぬつもりかよ! 俺はむかつくんだよ! そういうの!」


 ゆっくりとカプラが振り返る。相変わらずの無表情。
 しかしにわかに、怒りの色が上塗りされていった。夜叉のような形相に、傷つけられた少女のような悲嘆を重ねあわせ、叫ぶ。


「見くびらないで頂戴!」


 全力でロンの存在を突き放すような強い口調。


「死ぬ覚悟なんて、とうの昔に出来ていたわ!」


 それだけ言って、カプラは車内へとその身を滑り込ませた。
 様子を見守っていた獅子が、ロンに向かって一瞬だけ笑みを浮かべた。それが何を意味していたのか、ロンにはわからなかった。
 ただジョーが滅多に笑わない人物であることは知っていたから、その時の微笑は、ロンの心に強い印象を残した。


 やがて車の扉が閉じられる。カプラを乗せた黒リムジンが、護衛の車を伴ってキングタワーへと引き返していく。婦人とマスターが歩み寄ってきた。


「行っちゃったね……ロン」


 これまで経験したどんな怒りとも異なる感情が、ロンの腹の底から吹き上げてきた。
 闇の中にはまだ、フリージアようなカカポの香りが残っていた。


「強がりやがって……」


 そしてロンは、今はなき女の幻に向かって、言い表しようのないその感情をぶつける。


「ちくしょうが!」


 彼自身、なんでこんなに腹が立つのかわからないでいた。









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