永久なるサヴァナ

ナガハシ

圧倒的に劣勢

――ウオオオォォーン!


 銀色の閃光とともに、一瞬にしてオオカミに変化する。僅かにたじろいだルーリックの隙をついて束縛から抜け出す。そして即座に背後に回り、首筋めがけて飛びかかった


「ふんっ!」


 だが、ルーリックはすかさず頭を獣化させ、首筋を後ろに反らすと、その長い角で後方にいるロンを迎撃してきた。


「グルルゥ!?」


 攻防一体のその角に阻まれ、ロンは仕方なく後ろに下がる。
 自然の摂理に磨き上げられた獣の姿には、一分の隙もありはしない。


 距離を置き、悠々とエランドの形態に変化していくルーリックを見据える。ロンはまるで勝機を見出せないでいた。
 もし仮に、本物のエランドとオオカミが戦ったらどうなるだろう。圧倒的な体格差の前に、オオカミは成す術を持たないだろう。
 通常、オオカミが大型動物を仕留めるには、その体格差を頭数で埋め合わさなければならない。徒党を組んで代わる代わる相手を追いたて、時に数日かけて獲物を疲弊させる。それ以外にオオカミに勝機はないのだ。


「私に勝つつもりでいるのかな? オオカミ君」
「それ以外にねえからな!」


 先ほどとはうって変わり、ルーリックは慎重にロンとの間合いを詰めてきた。頭を低く下げて、角を前方に突き出して、徐々にロンを追い詰めていく。
 その角は二回転半ほど捩れ、先端が鋭くとがっている。一突きで致命傷に至る危険な武器だ。


 ロンもまた可能な限り身を低く伏せ、銀色に光る牙をむき出してして相手を牽制した。ルーリックの角をかいくぐって、急所である首、もしくは目に攻撃を加えたい。しかし相手はかなりの手錬れであり、僅かな隙さえも見当たらない。ロンの目の前には、常に相手の角が突きつけられているのだ。


――気迫で勝とうとするな。


 いつしか聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。だがロンは、バカヤロウと吼えてその言葉をかき消した。今はそんなことを言っていられる場合じゃない。これは勝たなければ終わる戦いだ。


「シィッ!」


 ルーリックが鋭く角を突きこんできた。


「グルォ!」


 ロンは素早い動きで二本の角の間に身を割り込ませた。
 このまま踏み込んで前足の爪で目を狙うか、角にしがみ付いて後ろ足で頭部を狙うか、それとも後ろに下がって仕切りなおすか。しかしどれもが危うい予感しかしない。
 してはいけない行動を直感で弾き出し、そのどれにも該当しない動作を、ロンは自分の小脳の奥から引きずり出した。


「グガアッ!」


 角の谷間を踏み台にして自ら空中に飛び上がる。本能的に角を突き上げてくるであろうルーリックの動きを予想して微調整。間髪いれずに振り上げられた角を、毛の先ほどの距離で回避して、そのまま身体をよじってシカ頭の側面に着地した。


 エランドの喉の下にぶらさがる胸垂れが見えた。
 そこめがけてロンは、全力で飛び込んだ。


「んなっ!?」


 だが急激にその胸垂れが遠ざかった。ロンの攻撃の意図を読んだルーリックが、その巨体からは想像も出来ないような跳躍力で飛び上がったのだ。
 ロンは呆れた。エランドの巨体が、あたかも大型旅客機のように、どこまでも遠い空を飛びぬけていく気がした。


「フンッ!」


 直後、目の前に蹄が降ってきた。でかい割には随分と器用に動く前足だとロンは思った。ともに空中にあるため、位置を変えてそれをかわすことは出来ない。ロンはその小さな身体を丸めて、迫り来る一撃に耐える体勢をとった。


「ガハァッ!?」


 手繰るように振り下ろされた前足に蹴り飛ばされ、ロンはルーリックの後方へと吹き飛ばされていった。
 勝てない――。率直にそう思った。


「ふふふ、それなりに出来るようだが……」


 エランドの姿のまま、見えない余裕の笑みを浮かべながら迫ってくる。


「流石に相手が悪かったな!」
「くそがぁ!」


 勝ち目が無いと見るや、ロンはその場から全力で逃亡した。逃げてどうなるというわけではないが、他に出来ることはなかった。
 広大な平原を、その身を最大限に躍動させて駆け抜ける。ルーリックは間違いなく追ってくる。ならばひたすら逃げ回って、相手が消耗するのを待ってみよう。
 そうロンが、頭の中で計算を始めたその時だった。


「うおおっ!?」


 グワシャア! という凄まじい音ともに、後ろからエランドの蹄が降ってきた。瓦礫混じりの土が盛大に爆ぜあがる。ロンは寸でのところでそれを回避した。


「足まで速いのかよ!」


 オオカミの全速力は時速70kmもある。だが、振り向いて確認したエランドの走行は、一歩一歩が凄まじいストライド。まるで巨大なウサギのようだ。


「どうしたオオカミ君! 何ゆえ草食獣に追われているのかね?」


 グウの音もでなかった。オオカミという生物は、多くの場合その地域における食物連鎖の長に位置する。故に獲物を追うためにその身体機能を特化させてきたのだが、そんな自分が今、草食獣に追い立てられている。
 体重が1トン近くはありそうなレイヨウ属最大種のエランドが、その巨大な跳躍走行により、ロンの全力疾走に悠々と追いついてくる。


 ふざけるな――。
 ロンは胸の内で叫ぶ。後ろを気にしていては逃げ足が鈍るので、背中の毛の先で敵の気配を感じながら、ただひたすら全力で走り続けた。


 追いつかれ、背後から降ってくる巨体をギリギリで回避し、そして再び引き離す。それを幾度も繰り返し、セントラルコロシアムの周囲に広がる更地地帯を逃げ回ること数十周。
 先に音を上げたのはロンだった。


「ぐううう!」


 最後の一撃を回避したところで、ロンはそれ以上走れなくなってしまった。
 全力で逃げ続けたせいで体力が尽きてしまったのだ。こんな経験は初めてのことだった。


「なんだもう終わりか。準備運動にもならん」


 涼しい顔をして足を止めたルーリックは、いつの間にか人の形態に戻っていた。
 ロンはオオカミの形態を維持するので精一杯だった。


「何か最後に言い残すことはあるかね?」


 勝者の余裕でもって見下ろしてくるルーリックを見て、ロンは改めて自分の女運の悪さを嘆いた。
 今回の件には二人の女が関わっている。一人はカプラ。そしてもう一人はミーヤ。そのどちらかでも関わらずにいたなら、自分はこんな所でみすみす死ぬこともなかった。


 だが今さら考えてもどうにもならないかった。思いつく言葉は一つだった。


「……くそったれ!」


 その返答を聞いたルーリックは、獣面の下に苦笑いを浮かべるのみだった。
 ロンの目の前で再びエランドの姿となり、その角先を向けてくる。今度生まれてくる時は、もっと利己的な生物に生まれてこよう――。


 諦観とともに思い起こされるカプラの姿。こんなことなら、ステーキをもう一枚注文しておけばよかった。あれこれと後悔しつつ、ロンは両目を静かに閉じた。 
 やがてエランドの蹄の音が響いてきた。


「……なーんてな」


 見開かれたロンの瞳に最後の闘志が燃え上がる。
 死に至るその瞬間まであがく。
 諦めるな、最後まで悪あがきしろ。
 地をつかむ四本の足に力を込めて、迫り来る二本の角をその眼で睨む。雄叫びを上げる! 


 そして角と地面の間に出来た僅かな隙間。そこをめがけて決死の突撃を仕掛けた。


「てああああああ!」


 エランドの角が、ロンの背中の皮膚をえぐっていく。
 限りなく地に伏せ、滑りこむようにして二本の角をかいくぐると、ロンはルーリックの喉元にしがみついた。


「小癪!」


 ルーリックは凄まじい勢いで首を振り回してきた。
 激しく上下に揺さぶられ、自分がどこに居るのかもわからなくなる。どちらが空で地面なのかもわからないまま、気付けばロンの身体は宙に舞っていた。


 すっかりと疲弊した身体には、相手にしがみつくだけの力も残されてはいなかった。自由落下に入ったロンの身体に、容赦ない一撃が飛んでくる。ドリルのように捩れて尖った角の先端が、ロンの腹部を貫き通すべく迫ってきた。


 ロンは身体をよじると、自らの牙でその角を受け止めるべく、頭をルーリックの方に向けた。失敗すればそのまま喉を貫かれる。成功しても一時しのぎにしかならない。
 だが諦めない――。


「にゃあああああああああ!」


 すろと突如、小さな影が飛び込んできた。その生物は後ろからルーリックの頭に飛びかかると、右目めがけて爪の先を振り下ろした。


「ふぎゃーー!」
「ぐあっ!?」


 完全に不意を突かれたエランドは、驚異的な反射神経でそれを回避するも、頬の皮膚をざっくりと切り裂かれた。


「ミーヤっ?」
「ロン! 生きてたにゃー!?」


 すかさず後退して身構えるルーリック。ミーヤは地面に降りるとすぐさまロンの側に駆けつけてくる。どういうわけかひどい涙目だった。


「全部ミーヤがいけないにゃ! ヤマネコさまは本当に恐ろしい人だにゃ! 本気でロンを殺す気だったにゃ!」


 少女の姿に戻って、手負いのオオカミに抱きつくミーヤ。
 その肩は何かに脅えるようにがたがたと震え、表情は失意と悲しみのためにくしゃくしゃになっていた。その様子を見て、ロンはただうろたえる。


「ミーヤがヤマネコさまを見くびっていたのが間違いだったにゃあ! ロンを襲わせた相手がエランドだって聞いて……全速力で飛んできたにゃあ!」


 ロンの首の毛に顔を埋め、ひたすら泣きじゃくるミーヤ。
 首の皮一枚で助かったことを、ひとまずロンは天に感謝した。


「何となく事情はわかったが」


 そう言ってミーヤを振りほどく。


「まだ終わってねえんだ」


 見上げた先には、人の姿に戻ったルーリック。獣面の目の部分からハンカチを押し込み、出血した頬を拭いている。その表情は、どこまでも怒りに歪んでいた。


「よくも……」


 二つの瞳が憎悪に燃える。


「よくも私の顔に傷をつけてくれたな!」


 血の付いたハンカチを投げ捨て、ロン達に向かってその足を進めてくる。顔と獣面がすでに一体化を始め、やがて白スーツを突き破って、巨大な毛と筋肉の塊が飛び出してきた。


「嬲り殺しにしてやる!」


 ルーリックは身の丈3m半を超える巨大な獣人と化した。
 全身がプロテクターのような筋肉に覆われる。鉄骨のように強靭な足が踏み出される度に、大地が割れて砕ける。


「やれやれだな」


 ロンもまた獣人形態へと移行すると、迫り来る獣の巨人に対峙した。
 身長差は二倍以上。体重差は八倍以上。
 絶望的なまでの戦闘力の差を前にして、ロンはきっぱりと言い捨てた。


「テメエみたいな男を見てると反吐がでるよ!」
「ホザケムシケラァ!」


 ルーリックの声は、もはや人のものではなかった。
 それは明らかに獣の咆哮だった。その重い音を聞いただけで、ロンは胃の底を食い破られそうな気がした。
 だが気合とともにそれを跳ね除け、隣に立っているミーヤに告げた。


「やるぞ! ミーヤ! あいつを倒す以外に生き延びる術はねえ!」









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