永久なるサヴァナ
エランド
あちこちに猫の視線を感じながら、ロンはひたすらサヴァナシティを歩き回った。
行くあてなど無かった。とにかく店から離れられれば良かった。
途中で装甲バスとすれ違う。車道と歩道の区別もない通りを、我が物顔で通り過ぎていくそのバスには、外の世界から来たと思しき観光客がびっしりと乗っていた。
ロンはそのバスを蹴り飛ばしたい気分にかられたが、先頭の席にジャガーの獣面を被った警備員が座っていたので諦めた。
サヴァナの空に輝く不死の炎、エターナル・フォースの恩恵に与りたいと思ってやってくる観光客は後を絶えない。現在は獅子長の権限によって、高い入国料と入国制限がかけられているのだ。
当て所なく歩き回っていると、やがて都市の中央部、セントラルコロシアムの周囲に広がる更地へと出た。ここにはかつて、先代獅子長の宮殿があった場所だ。
先代は持てる力のすべてを、己の欲望を満たすためだけに使った野蛮な人物だった。まともな市政を行う気はまるでなく、外の世界とサヴァナをつなぐゲートにも一切の制限をかけなかった。
そして獅子長自身は、酒と女に溺れる享楽の日々を送ったのだ。
その結果、外の世界から大量の悪人と暴力組織が流入し、サヴァナシティは闇市場によって潤う暗黒都市へと変貌した。
郊外の空き地には芥子の花が揺れ、都市のあちこちに魔窟が出来た。人間がペットのように市場で売られ、闘技場では日常的に殺戮ショーが行われるようになった。
凶悪事件も急増し、どこまでも悪化していく住環境に耐えられなくなった住民達が、次々とゲートをくぐって外の世界に逃げ出していった。
だがそれでも、人口増加はとどまることを知らなかった。
出て行く以上の人間が都市に流入し、直径15kmの狭い円形の土地に200万を超える人間が暮らすようになった。
人口増加とともに水の需要も増えた。サヴァナシティでは、金の山羊の願いのために、水道管の敷設が出来なくなっている。そのため、水は郊外の湖から運んでくるか、獅子長の神通力によって降雨をもたらしてもらう意外に入手する術が無い。
都市の各地には昔から水組合があり、獅子長はその水組合に多額の上納金を支払わせることで私腹を肥やしていた。
これが、先代が唯一行っていた獅子長としての仕事だった。
だが、数十年にわたって横暴の限りを尽くした獅子長も、若き戦士によって倒された。
ジョーは獅子長の宮殿を地中に埋めると、その跡地にセントラルコロシアムを建て始めた。さらに、その周辺を居住禁止区域に指定した。その理由は公にはされていないが、恐らくは彼自身の美意識に基づく措置であろうと考えられている。
「……ふんっ」
ロンはその更地を見渡して鼻をならした。何のためにこのような景観を作ったのか。それを見定めるように、しばしコロシアムとその周囲を眺める。
所々に芝が植え込まれ、いかにも公園めいた雰囲気が醸成されつつある。
ゴミゴミとした都市の中に切り開かれた、それはまさしくサヴァナ平原のミニチュアだった。
この景観になんらかのメッセージがこめられているとすれば、それは『野生を忘れるな』ということだろう。獅子は、都市を楽園と勘違いして怠けている住民達に、獣の獰猛さを取り戻すよう、奨励しているのかもしれない。
少し歩いた先にベンチが並んでいた。ロンはその一つに腰を下ろす。近くの木立の影を、一匹のネコが通り過ぎていった。
どこまで行っても監視カメラはついてくる。ロンは座ったままもう一度コロシアムの方を向いて、そこに広がる芝地を眺めた。
そしてふと思った。ここなら好きなだけ暴れられそうだと。もしかすると、そのために更地にしてあるのかもしれない――――。
「……うっ!?」
そこまでロンが思い至った、その時だった。
背筋に鋭い悪寒が走った。飛び上がるようにベンチから離れ、その殺気が放たれてきた方を向いて身構える。するとその先から、巨大なカモシカのような生物が突っ込んできた。
「ちいっ!」
頭からまっすぐ上に生えたドリルのような長い角。頭を地面に擦り付けるほど低くさげ、その角を前方に向けて突っ込んでくるその生物を、ロンはかろうじて回避する。そしてそのまま草むらの上を転がる。
「もう来やがったのか!」
タイミングから考えて、ヤマネコ婦人が手配してきた刺客に違いなかった。
敵はその巨体に見合わぬ俊敏な動きでターンすると、再び角を突き出し、突進してきた。
ロンは敵の全容を見極める。
その姿はウシの仲間か、もしくはそれ以上の大きさがある。
しかしその動きの俊敏さはカモシカに近かった。臀部と肩部に積載された大量の筋肉。そこに接続された四本の足で力強く大地を蹴り、全身を波のように躍動させて驚異的な加速をする。
長い角の生えた頭部はそれでいて小さく軽量で、故に左右への展開も容易であるらしかった。
まさに生きた誘導弾頭。広い視野角を持つ二つの瞳が、殺戮の遺志とともにロンを照準している。
直ちに獣人形態をとり、その突撃をギリギリまで引き付け――回避。
「ぐうっ!?」
だが、すかさず横に振られた角の先端に、大腿部をさらわれる。
その凄まじい運動力をうけて、ロンの身体は錐もみ状に回転。そのまま地面に叩きつけられる。
「はっ!」
辛うじて受身を取り、その弾みで後方に飛び跳ねる。
再び立ち上がって構えると、一撃を受けた右足に痛みが走った。
「あれは……」
険しい表情で、転身してくる敵を見る。あまり見かけることのないその獣の名を、ロンは記憶の片隅から引っ張り出した。
「エランドかっ!」
「いかにも。私はエランドだ」
男はそう言ってロンに向き直り、人の形態に変化してきた。エランドは戦闘力指数260を誇る、草食系の上位種である。
「アウロラが世話になったようだな」
白いスーツに身を包んだ男。
磨き上げられた革靴、手首に光る金時計。
一見して高い地位にいる人物と見て取れる。長い角が生えた面長の獣面。それを被った男の口から出てきたのは、まるで聞き覚えの無い名前だった。
「誰だよそりゃあ」
「君の前では別の名前なのかな? しかしあの女は間違いなくアウロラだ」
エランド男はそう言うと、さも忌々しそうな表情で睨んできた。
「ああ、そういうことか」
ロンはその一言で状況を理解した。アウロラとはカプラの別名なのだ。
そもそもカプラなどという名前が作り物めいていた。以前在籍していた店の名を明かせないことからも、後ろ暗い事情を抱えていることはわかっていた。
今自分の目の前に立つ男こそが、まさにそれなのだとロンは思った。
「何か勘違いしてるんじゃねえか?」
「どういうことかな?」
男はロンに近づきつつ、ゴキリと首を鳴らす。
「俺はそのアウロラっていう女とは、なんの関係もないんだ。たまたま助けることにはなっちまったが、それ以上のことは何もない」
「ふふふ……。君とアウロラの関係はヤマネコ婦人から聞いているよ。だが、私が気に食わないのはそういうことではないのだよ……」
ボキボキと指を鳴らす。
「重要なのは、アウロラが既に私のことを何とも思っていないということだ。そして彼女は今、君を恋い慕っている」
「それはねーよ」
あくまでも冷淡に言い放つ。しかし男の怒りは収まらない。
「そう思っているのは……」
男が鋭く足を踏み出す。あわせてロンはサイドステップ。
「君だけなのだよ!」
ブウンッ! と、強烈な右ストレートが吹き抜けていった。続いて左フック。ロンは上体をそらしてそれをかわすと、そのまま後ろに飛び跳ねた。
「俺が何をしたってんだ!」
結局は醜い男の嫉妬かとロンはうんざりした。
間髪いれずに男が踏み込んでくる。その鋭いフットワークで、ワンステップでロンとの距離をゼロにする。
ロンはひたすら後ろに下がる。遮るもののない更地の上では、無限に逃げ続けられる。
「大の男が、女の一人や二人でいきり立つんじゃねえ!」
「私は、私のプライドを傷つけた者をけして許さないのだ!」
ロンのバックステップを超える速度での踏み込み。渾身のアッパーがロンの喉元めがけて突き上げられる。かわしきれない――。
そう判断したロンは、この時初めてガードを作った。
「うおおっ!?」
両腕によるクロスガードを突き抜けて、渾身の一撃がロンの脳髄を揺さぶってきた。
そのパワーで全身が1mも宙に浮く。そのままロンは頭から地面に落ちていった。
「ぐえっ!?」
立ち上がろうとしたところで、背中を踏みつけられる。男はそのまましゃがみ込むと、ロンの獣面を掴んでその頭を持ち上げてきた。
「薄汚い男だ」
冷え切った声でそう告げてくる。
「アウロラは何故こんな男に入れ込んだのか。何故、突然私の店を飛び出して行ったのか」
そりゃあ頬っぺたに毛がフサフサ生えたからだよ――。
そう言ってやりたい気持ちを抑え、ロンはシカ顔の紳士を睨んだ。そしてふと、その獣面に心当たりがあると思った。
「てめえ……まさか」
サヴァナシティでも特に高い料金を取ることで知られる高級クラブ。キングタワーの職員が特に贔屓にしているその店の支配人が、確か一風変わったシカ面であると聞いていた。
「クラブ『ドリーム』総支配人、エランドのルーリックとは私のことだ」
ロンは目を見開いた。自分にとっては雲の上にも等しいハイクラスな人物だった。そしてそんな人物の、恐らくは愛人だったのであろう女が、すなわちカプラなのだ。
「へっ……。どうりで素性を明かしたくないわけだぜ」
『ドリーム』などという単語を出されたら、知っている者なら身構えずにはいられない。その店名を告げられていれば、ロンもマスターも、必死になって元の店に戻るようカプラに諭していただろう。キングタワーが御用達にするほどの店。イノシシやオオカミの一匹くらい、簡単に闇に葬り去れる。
「でも全然知らなかったんだよ」
「そんなことは関係ない」
「襲われていたところを助けてやったんだぜ?」
「私は君が息をしていること自体が不愉快なのだ」
これはだめだとロンは思った。
相手は自分のことを、気に入った女の肌に吸い付いた蛭くらいにか思っていない。
ルーリックに頭を持ち上げられながら、ロンはヤマネコ婦人を心底呪った。こうなったら全力で逃げるしかないが、恐らくどこまでも追ってくるのだろう。
「あの女は、今は別の男と一緒にいるんだぜ? 放っておいていいのかよ」
正直すまないとは思いつつ、マスターの存在を仄めかす。
「手を回してないとでも思ったか?」
ヒュウと一つ口笛を鳴らす。絶体絶命だぜおっさん。
そう思いながら、カプラとマスターが先に猫館に辿り着いていてくれることを願う。館の敷地内であれば荒事は出来ない。
「お前だけは、この私が直々に処刑しなければ気が済まなかったのでね」
「そうかい……そいつは参ったな!」
もうこうなったらやるしかない。いま目の前にいる敵を倒す意外に活路はないのだ。
ロンは覚悟を決めた。そして、雄叫びを上げた。
行くあてなど無かった。とにかく店から離れられれば良かった。
途中で装甲バスとすれ違う。車道と歩道の区別もない通りを、我が物顔で通り過ぎていくそのバスには、外の世界から来たと思しき観光客がびっしりと乗っていた。
ロンはそのバスを蹴り飛ばしたい気分にかられたが、先頭の席にジャガーの獣面を被った警備員が座っていたので諦めた。
サヴァナの空に輝く不死の炎、エターナル・フォースの恩恵に与りたいと思ってやってくる観光客は後を絶えない。現在は獅子長の権限によって、高い入国料と入国制限がかけられているのだ。
当て所なく歩き回っていると、やがて都市の中央部、セントラルコロシアムの周囲に広がる更地へと出た。ここにはかつて、先代獅子長の宮殿があった場所だ。
先代は持てる力のすべてを、己の欲望を満たすためだけに使った野蛮な人物だった。まともな市政を行う気はまるでなく、外の世界とサヴァナをつなぐゲートにも一切の制限をかけなかった。
そして獅子長自身は、酒と女に溺れる享楽の日々を送ったのだ。
その結果、外の世界から大量の悪人と暴力組織が流入し、サヴァナシティは闇市場によって潤う暗黒都市へと変貌した。
郊外の空き地には芥子の花が揺れ、都市のあちこちに魔窟が出来た。人間がペットのように市場で売られ、闘技場では日常的に殺戮ショーが行われるようになった。
凶悪事件も急増し、どこまでも悪化していく住環境に耐えられなくなった住民達が、次々とゲートをくぐって外の世界に逃げ出していった。
だがそれでも、人口増加はとどまることを知らなかった。
出て行く以上の人間が都市に流入し、直径15kmの狭い円形の土地に200万を超える人間が暮らすようになった。
人口増加とともに水の需要も増えた。サヴァナシティでは、金の山羊の願いのために、水道管の敷設が出来なくなっている。そのため、水は郊外の湖から運んでくるか、獅子長の神通力によって降雨をもたらしてもらう意外に入手する術が無い。
都市の各地には昔から水組合があり、獅子長はその水組合に多額の上納金を支払わせることで私腹を肥やしていた。
これが、先代が唯一行っていた獅子長としての仕事だった。
だが、数十年にわたって横暴の限りを尽くした獅子長も、若き戦士によって倒された。
ジョーは獅子長の宮殿を地中に埋めると、その跡地にセントラルコロシアムを建て始めた。さらに、その周辺を居住禁止区域に指定した。その理由は公にはされていないが、恐らくは彼自身の美意識に基づく措置であろうと考えられている。
「……ふんっ」
ロンはその更地を見渡して鼻をならした。何のためにこのような景観を作ったのか。それを見定めるように、しばしコロシアムとその周囲を眺める。
所々に芝が植え込まれ、いかにも公園めいた雰囲気が醸成されつつある。
ゴミゴミとした都市の中に切り開かれた、それはまさしくサヴァナ平原のミニチュアだった。
この景観になんらかのメッセージがこめられているとすれば、それは『野生を忘れるな』ということだろう。獅子は、都市を楽園と勘違いして怠けている住民達に、獣の獰猛さを取り戻すよう、奨励しているのかもしれない。
少し歩いた先にベンチが並んでいた。ロンはその一つに腰を下ろす。近くの木立の影を、一匹のネコが通り過ぎていった。
どこまで行っても監視カメラはついてくる。ロンは座ったままもう一度コロシアムの方を向いて、そこに広がる芝地を眺めた。
そしてふと思った。ここなら好きなだけ暴れられそうだと。もしかすると、そのために更地にしてあるのかもしれない――――。
「……うっ!?」
そこまでロンが思い至った、その時だった。
背筋に鋭い悪寒が走った。飛び上がるようにベンチから離れ、その殺気が放たれてきた方を向いて身構える。するとその先から、巨大なカモシカのような生物が突っ込んできた。
「ちいっ!」
頭からまっすぐ上に生えたドリルのような長い角。頭を地面に擦り付けるほど低くさげ、その角を前方に向けて突っ込んでくるその生物を、ロンはかろうじて回避する。そしてそのまま草むらの上を転がる。
「もう来やがったのか!」
タイミングから考えて、ヤマネコ婦人が手配してきた刺客に違いなかった。
敵はその巨体に見合わぬ俊敏な動きでターンすると、再び角を突き出し、突進してきた。
ロンは敵の全容を見極める。
その姿はウシの仲間か、もしくはそれ以上の大きさがある。
しかしその動きの俊敏さはカモシカに近かった。臀部と肩部に積載された大量の筋肉。そこに接続された四本の足で力強く大地を蹴り、全身を波のように躍動させて驚異的な加速をする。
長い角の生えた頭部はそれでいて小さく軽量で、故に左右への展開も容易であるらしかった。
まさに生きた誘導弾頭。広い視野角を持つ二つの瞳が、殺戮の遺志とともにロンを照準している。
直ちに獣人形態をとり、その突撃をギリギリまで引き付け――回避。
「ぐうっ!?」
だが、すかさず横に振られた角の先端に、大腿部をさらわれる。
その凄まじい運動力をうけて、ロンの身体は錐もみ状に回転。そのまま地面に叩きつけられる。
「はっ!」
辛うじて受身を取り、その弾みで後方に飛び跳ねる。
再び立ち上がって構えると、一撃を受けた右足に痛みが走った。
「あれは……」
険しい表情で、転身してくる敵を見る。あまり見かけることのないその獣の名を、ロンは記憶の片隅から引っ張り出した。
「エランドかっ!」
「いかにも。私はエランドだ」
男はそう言ってロンに向き直り、人の形態に変化してきた。エランドは戦闘力指数260を誇る、草食系の上位種である。
「アウロラが世話になったようだな」
白いスーツに身を包んだ男。
磨き上げられた革靴、手首に光る金時計。
一見して高い地位にいる人物と見て取れる。長い角が生えた面長の獣面。それを被った男の口から出てきたのは、まるで聞き覚えの無い名前だった。
「誰だよそりゃあ」
「君の前では別の名前なのかな? しかしあの女は間違いなくアウロラだ」
エランド男はそう言うと、さも忌々しそうな表情で睨んできた。
「ああ、そういうことか」
ロンはその一言で状況を理解した。アウロラとはカプラの別名なのだ。
そもそもカプラなどという名前が作り物めいていた。以前在籍していた店の名を明かせないことからも、後ろ暗い事情を抱えていることはわかっていた。
今自分の目の前に立つ男こそが、まさにそれなのだとロンは思った。
「何か勘違いしてるんじゃねえか?」
「どういうことかな?」
男はロンに近づきつつ、ゴキリと首を鳴らす。
「俺はそのアウロラっていう女とは、なんの関係もないんだ。たまたま助けることにはなっちまったが、それ以上のことは何もない」
「ふふふ……。君とアウロラの関係はヤマネコ婦人から聞いているよ。だが、私が気に食わないのはそういうことではないのだよ……」
ボキボキと指を鳴らす。
「重要なのは、アウロラが既に私のことを何とも思っていないということだ。そして彼女は今、君を恋い慕っている」
「それはねーよ」
あくまでも冷淡に言い放つ。しかし男の怒りは収まらない。
「そう思っているのは……」
男が鋭く足を踏み出す。あわせてロンはサイドステップ。
「君だけなのだよ!」
ブウンッ! と、強烈な右ストレートが吹き抜けていった。続いて左フック。ロンは上体をそらしてそれをかわすと、そのまま後ろに飛び跳ねた。
「俺が何をしたってんだ!」
結局は醜い男の嫉妬かとロンはうんざりした。
間髪いれずに男が踏み込んでくる。その鋭いフットワークで、ワンステップでロンとの距離をゼロにする。
ロンはひたすら後ろに下がる。遮るもののない更地の上では、無限に逃げ続けられる。
「大の男が、女の一人や二人でいきり立つんじゃねえ!」
「私は、私のプライドを傷つけた者をけして許さないのだ!」
ロンのバックステップを超える速度での踏み込み。渾身のアッパーがロンの喉元めがけて突き上げられる。かわしきれない――。
そう判断したロンは、この時初めてガードを作った。
「うおおっ!?」
両腕によるクロスガードを突き抜けて、渾身の一撃がロンの脳髄を揺さぶってきた。
そのパワーで全身が1mも宙に浮く。そのままロンは頭から地面に落ちていった。
「ぐえっ!?」
立ち上がろうとしたところで、背中を踏みつけられる。男はそのまましゃがみ込むと、ロンの獣面を掴んでその頭を持ち上げてきた。
「薄汚い男だ」
冷え切った声でそう告げてくる。
「アウロラは何故こんな男に入れ込んだのか。何故、突然私の店を飛び出して行ったのか」
そりゃあ頬っぺたに毛がフサフサ生えたからだよ――。
そう言ってやりたい気持ちを抑え、ロンはシカ顔の紳士を睨んだ。そしてふと、その獣面に心当たりがあると思った。
「てめえ……まさか」
サヴァナシティでも特に高い料金を取ることで知られる高級クラブ。キングタワーの職員が特に贔屓にしているその店の支配人が、確か一風変わったシカ面であると聞いていた。
「クラブ『ドリーム』総支配人、エランドのルーリックとは私のことだ」
ロンは目を見開いた。自分にとっては雲の上にも等しいハイクラスな人物だった。そしてそんな人物の、恐らくは愛人だったのであろう女が、すなわちカプラなのだ。
「へっ……。どうりで素性を明かしたくないわけだぜ」
『ドリーム』などという単語を出されたら、知っている者なら身構えずにはいられない。その店名を告げられていれば、ロンもマスターも、必死になって元の店に戻るようカプラに諭していただろう。キングタワーが御用達にするほどの店。イノシシやオオカミの一匹くらい、簡単に闇に葬り去れる。
「でも全然知らなかったんだよ」
「そんなことは関係ない」
「襲われていたところを助けてやったんだぜ?」
「私は君が息をしていること自体が不愉快なのだ」
これはだめだとロンは思った。
相手は自分のことを、気に入った女の肌に吸い付いた蛭くらいにか思っていない。
ルーリックに頭を持ち上げられながら、ロンはヤマネコ婦人を心底呪った。こうなったら全力で逃げるしかないが、恐らくどこまでも追ってくるのだろう。
「あの女は、今は別の男と一緒にいるんだぜ? 放っておいていいのかよ」
正直すまないとは思いつつ、マスターの存在を仄めかす。
「手を回してないとでも思ったか?」
ヒュウと一つ口笛を鳴らす。絶体絶命だぜおっさん。
そう思いながら、カプラとマスターが先に猫館に辿り着いていてくれることを願う。館の敷地内であれば荒事は出来ない。
「お前だけは、この私が直々に処刑しなければ気が済まなかったのでね」
「そうかい……そいつは参ったな!」
もうこうなったらやるしかない。いま目の前にいる敵を倒す意外に活路はないのだ。
ロンは覚悟を決めた。そして、雄叫びを上げた。
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