永久なるサヴァナ

ナガハシ

月夜

 体力勝負であれば、オオカミの方が断然有利である。
 ハイエナ達は二人とも太っていたから、逃げること自体は簡単だった。女を背負っていなければ、とっくに逃げ切っていただろう。


 だが実際は、ロンは人間を一人背負った状態で走っているのだった。
 女は軽い方だが、それが絶妙なハンデとなっていた。追いつかれることも引き離すこともなく、逃げ続けること十数分。二匹のハイエナに追い詰められるように、ロンは遮蔽物のない更地へと飛び出した。


「なんだこりゃ……!」


 そこは建造途中のゴンゴンタワーの足下だった。
 かつて迷路のような市街地が広がっていたが、今は全て取り壊されて瓦礫と化している。


「くそっ! 獅子長の野郎! いつの間にこんなにしやがった!」


 この辺には、ロンのお気に入りの店も何軒かあったのだ。特に、美味いケバブを食わせるあの店は、次に金が貯まったら行きたいと思っていた。
 ロンはその場で地団駄を踏みたい衝動に駆られたが、今はそれどころではなかった。


「グガアアアー!」
「くっそ!」


 後ろから飛び掛ってきたハイエナの牙を紙一重のところでかわす。その強靭な顎が、ロンの頭の代わりにコンクリートブロックを噛み砕く。


「しつけえ! なんなんだ一体!」


 ただの暴漢にしては異様なまでの執念だと思った。
 女はロンの背中にしがみついたまま、悲鳴も上げずに、ただその細い肩を震わせている。


「このままじゃマズいぜ……」


 獣化状態でもう随分と動き回っている。この状態は体力の消耗が激しいのだ。対してハイエナ達は、交代で獣化しながら常に全力の攻撃をぶつけてくる。


「おい! お前!」


 瓦礫の平原にぽっかり聳えるゴルゴンタワーを目指しつつ、ロンは背中の上の女に檄を飛ばした。


「鳥なんだろう!? 自分で羽ばたくとか出来ねえのか!」
「そ、そんなこと言われたって……!」


 その声は恐怖にかすれていた。
 この怯え様、おそらくは外の世界から迷い込んできた人間だろうとロンは思った。どういう経緯で、その奇妙な鳥の獣面を手に入れたかは知らないが、使いこなせないのであれば、持っている意味はない。


「やらなきゃ死ぬぞ! つうか、もう限界だ! 無理ならここで振り落とす!」
「……そんな!」


 瓦礫の上を疾走するロンの背の上、女はその表情を凍りつかせた。だがロンは本気だった。もとより人助けなどする性分ではない。わが身を守ることが最優先だ。彼女が自らの力で羽ばたけないのなら、その命はそれまでということだ。


「何があったのかは知らねえが、ちったあ気張れや! このクソ女! 重てえんだよ!」
「な……!?」


 そこまで言われて、ようやく女の瞳に恐怖以外の感情が浮かぶ。


「そんなこと言わなくてもいいじゃない!」


 酷いことを言われて傷ついた。何か言い返さなければ気がすまない。ロンの言葉は、そんな反骨心を女の胸中に巻き起こしたようだった。
 少しはまともな目になってきたとロンは思う。


「うっせえ! こっちはここまで運んでやったんだ! 後は自分でなんとかしろ!」
「でもわからないのよ! どうしたらそんな獣みたいな姿になれるの!?」
「気合をいれろ! こんだけ追い詰められれば出来るだろう! 自分の手を見てみろ!」
「えっ!?」


 ロンに言われて女は自分の腕先を確認する。


「嘘!? なんで!?」


 なんとその腕には、黄緑色の羽が生え始めていたのだ。


「テンションあがると勝手にそうなる! 叫べ! なんでもいいから気持ちを高ぶらせろ!」


 そこで再び、ハイエナ男の一人が鋭い爪を光らせて飛びかかってきた。


「うおっと!?」


 地を蹴って横に飛ぶ。
 ハイエナの爪が女のスカートにかかり、その生地が半分以上も持っていかれる。


「いやあ!」
「その調子だ! もっと気合入れて叫べ!」
「い、いやああああー!?」
「間の抜けた声だしてんじゃねえ! 次でお前は確実に引き裂かれるぞ! それでお前はあいつらにとっ掴まって、一晩中嬲られて身も心もボロボロにされるんだ! 嫌なら叫べ! 全力で叫べ!」


 ロンがそう怒鳴ると、背中の上の女は、一瞬その表情を失った。


「そ、そんなの……」


 そして、一瞬何事かを口に出そうとする。
 ロンが不審そうに後ろを振り向くと、そこには冷えた鉄のような目をした女が、ひどく追い詰められた表情で固まっていた。


「ああ?」
「そうね……そうなるわよね」


 一言だけ、どこか冷徹な声でそう言うと、女は静かに目をつぶった。
 そして理性も品性もかなぐり捨てて、ついに完全な獣の咆哮を上げたのだった。


ーーイヤアアアアー!


 その直後だった。
 女の被っている獣面の縁から、ワサワサと大量の羽が生え出てきた。
 さらに、関節と筋肉の形がグネグネと変化していく。
 全身に生え始めた羽はやがて衣服を貫いて、あっという間に彼女の全身を覆ってしまう。


 明らかに通常の物理法則を無視した挙動を見せる女の体。
 その体はひと回りもふた回りも小さくなってゆき、やがて人の頭ほどの大きさをした、黄緑色のまん丸な鳥に変化した。


「これでいい!?」
「ああ上出来だ! あとは全力で羽ばたけ!」


 鳥と化した女は、言われるままに、その頼りなさげな翼をパタパタと羽ばたかせる。
 が、しかし。


「どうした飛べ! 飛んで逃げろ!」
「くうっ……!」


 パタパタパタ、パタパタパタ――。
 いくら羽ばたいても空を飛べる気配がしないのだった。


「飛べないわ!」
「んなアホな! どんな鳥だ!」


 むしろ広げた翼が空気抵抗になって、ロンの逃げ足を鈍らせているくらいだ。


「お、お店の人はカカポって言ってたけど……!」
「なんだそりゃ!? 聞いたこともねえぞ!」


 二人が言い合ってるうちに、またもやハイエナの片方が追いついてきた。


「いい加減止まれやクソ犬!」
「しつけえんだよデブッ!」


 一転してロンは急ブレーキをかける。
 勢い余って追い越していったハイエナに、強烈な頭突きをぶちかます。


「グエッ!?」


 潰れたカエルのような声を出して、ハイエナ男は見事にひっくり返った。
 その上を跳び越してロンは再び疾走。そして素早く周囲の状況を確認する。建物は見渡す限り綺麗に取り壊されて、隠れる場所はまったくない。利用できそうなオブジェクトは、目の前にそそり立つ、建設中の高層タワーくらいだった。


「もういい! 羽ばたくのをやめろ!」
「なんとかなるの!?」
「軽くはなったからな! あの出来かけのタワーに昇るぞ! しっかり掴まってろ!」


 背中に乗っているカカポという鳥は、愛嬌に満ちた外見とは裏腹に邪悪なほどの足力があった。
 強靭な足の爪で、ガッチリとロンの背中を掴んでくる。


「いででっ!?」


 思わず悲鳴を上げるロン。しかしそのまま全力で瓦礫の上を駆け、タワーの手前で全力ジャンプ。組み上げられた足場に飛び乗って、さらに跳躍する。
 屋上まで200mを超える高層建築の、無数にあるガラス窓の枠に足をひっかけ、ひたすら壁面を駆け上がった。


「落ちちゃうわー!」
「だからしっかり掴まってろ!」


 完全に垂直となったオオカミの体。
 その背中に立つカカポは、真っ直ぐに夜空を見上げる格好だ。
 ロンの背中を掴む足に、さらなる力がこめられる。まったく不安定な姿勢だが、カカポはその翼を必死に羽ばたかせてバランスをとる。


 ロンは一心不乱に壁面を走る。
 どうして自分がこんな厄介ごとに巻き込まれているのか?
 先ほどまではそう思っていたが、今となっては迷いは無かった。
 ともかく自分は厄介事に巻き込まれ、あの欲深なハイエナどもの標的にされてしまっているのだから。


 ハイエナ達もまた、ロンの後を追ってタワーの壁面をよじ登ってきていた。


「はははっー! しくじったなオオカミ野郎!」
「屋上に逃げ場はないぜ!」


 ハイエナ達は二手にわかれて、屋上でロン達を挟み撃ちにする算段だ。
 しかしロンは気にも留めずに、新築の建物特有の浮ついた匂いを放つタワーを昇っていく。


「どうするの? こんなので逃げれるの!?」
「そいつはあんた次第だな、覚悟を決めとけ!」


 窓枠からクレーンの台座に飛び移り、そこを足場にして一気に屋上へと躍り出る。
 20m四方もない狭い屋上には、梱包された設備と建築資材が、まばらに置かれていた。


「へへへ、ここまでだぜ」


 ハイエナ達が追いついてきた。ロンは狭い屋上の中央で挟み撃ちにされる。
 地上200mの高みには、視界を遮るものは何も無かった。夜空にはただ、白い不死鳥が静々と光り輝いていた。


「観念してその女と、獣面と、そして命をよこしな兄ちゃん」


 じりじりと距離をつめてくる二人の男。
 一つめの女はまあいい。二つの獣面はいざとなったら仕方がない。しかし三つめの命だけは絶対にくれてやるものかとロンは思う。
 オオカミの姿のまましばし呼吸を整え、そして最後の力を蓄える。


「おいアンタ。飛ぶぜ、あそこからな」


 と言ってロンは、屋上の辺縁に向けて顎をしゃくる。


「ええ!?」


 まさかこの高さから?
 カカポの円らな双眼がこれでもかと見開かれる。


「全力で飛ぶから、あんたはその翼で遠くに飛べ。滑空くらいはできるだろう」
「で、でも……そんなことをしたら!?」


 このオオカミさんはどうなってしまうのか?
 当然、女の脳裏に浮かんだであろう疑問。
 しかしロンはそれには答えなかった。


「出来なきゃそれまでだ。いくぜ! 腹を決めな!」


 そしてそれだけ吐き捨てると、屋上の淵に向けて走り出した。


「何をする気だ!」
「まさかてめえ!」


 ロンの意図に気づいたハイエナ達が、慌てて追いかけてくる。
 だが次の瞬間には、銀色のオオカミは月の夜空に舞っていた。
 背上のカカポは、その小さなくちばしを最大限に開いて、死を前にしたような表情だった。


「クポーー!?」
「翼を開け!」


 背中に食い込んだカカポの爪を外すため、ロンは一瞬だけ人間の姿に戻る。
 それに続いてふわり、カカポの体が浮き上がる。
 ただ広げるしかない翼は、それでも確かに風を掴んだ。


「と、飛べた……!?」


 そしてゆったりと風にのり、街明かりが光る地上へと滑空していく。
 ロンは身をよじって空を向き、翼を開いたカカポの姿をその眼にとらえた。
 月の夜空に、飛べない鳥が舞っていた。その姿と月の不死鳥とが、ロンの目には不思議なほどに重なって見えた。


 タワーの屋上では、二人のハイエナが口をポカンと開けて眺めている。
 ロンは、全ての事象が思い描いた通りに進んでいることを確かめると、再び下を向いて、迫り来る地上の闇へと眼を向けた。


「ねえ! 私、いま飛んでるわよね!」
「俺は落ちてるけどな!」


 カカポはバタバタと不恰好に滑空していく。
 そして再びオオカミに姿を転じたロンは、急な放物線を描きながら、瓦礫の平原めがけて墜落していった。









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