アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

旅立ち

《マインド・ログ 2070.8.6》


 真理さんとのデートから、ひと月以上の時が流れた。
 僕はいたる所で、入院中の老人連中にからかわれて、気恥ずかしい日々を送っている。


 真理さんはあの後、庭で野菜を育ててみたいと僕に相談してきた。6月の今からでも育てられる野菜としては何が良いでしょうかと聞いてきた彼女に、僕はルッコラをお勧めした。
 そして、適当な日陰をつくって直射日光に当てないように育てた方が、柔らかくて美味しいものが育つのだと教えた。
 真理さんはさっそく子供達とやってみると答え、その一週間後に芽が出たことを報告してきてくれた。


 相変わらず僕は病院の温室に足しげく通って、少しでも自分の精神余命を長くしようという悪あがきを続けている。
 最後の瞬間まで、可能な限り生き生きとしていようと僕は思っている。
 周りの人達に立派な最後を見せることが、おそらくは老人に出来る最後の社会貢献なのだから。


 葵庭さんは、そんな僕を見て「まだ何回でもあの人とデートできますな」と行って冷やかしてくるのだけど、僕は苦笑いを浮かべるのみだ。
 真理さんは、相手が誰であっても一度しかデートをしない。
 今、もう一度真理さんにデートを申し込めば、僕は彼女にそれを断らせてしまうことになる。
 僕はそんなことだけは真理さんにさせたくないと思ったし、何より彼女は身重の体なのだ。


《END》


 * * *


 ラベンダーの季節が終わり、いよいよ本格的な夏となった頃、僕の精神余命はとうとう0近傍で推移するようになった。
 入院してから定期的に書いてきたマインド・ログも、あまり長い文を書けなくなった。
 物忘れも格段に酷くなり、30分毎にケアボットの指示を受けなければ、まともな生活サイクルを保つこともできないくらいだ。


 例えば、さっき朝食を食べたばかりだということを忘れたり、温室から帰る途中で、そういえば今日はまだ散歩に言ってなかったとこぼしてみたり。
 僕の脳は既にその半分が失われていて、意識の喪失が先か、生命維持の喪失が先かという状況にまで迫っていた。
 葵庭さんが退院したので、老人連中と麻雀を楽しむことも無くなった。
 もとより僕は、まともな役を揃えることすら困難になっていたから、もうそろそろ潮時かとは思っていたのだけど。


 このごろは、ベッドの上で横になったまま過ごすことが多くなった。暖かい季節なものだから、ろくに布団もかけずに眠りこけたりして、よくケアボットや真理さんに注意される。
 真理さんは以前より頻繁に、僕の病室を訪れるようになっていた。お腹も随分と大きくなって、そろそろ産休に入るのだそうだ。
 そして時折、家の庭で土いじりをしている子供達の映像を見せてくれる。来年はトマトとナスを育てるというので、僕は僕が育てていた品種の名前と、種を扱っている店のことを教えた。


 それだけは何故だかすらすらと言えたので、僕は自分で自分に驚いた。
 脳が半分以上失われても、覚えているものは覚えているのだ。


 * * *


 8月7日。北海道の七夕の日。
 僕はいつも通り、ケアボットに車イスを押してもらって温室に向かった。
 温室の入り口の近くに笹の木が生けてあって、願い事が書かれた短冊がいくつも吊るされていた。
 車椅子から下り、ケアボットに見守られる中で、スリッパを脱いで裸足でエレクトリカの芝生の上に立つ。
 そして目の前に生えている大きな光り木の前に立ち、その肌を手で撫でた。


 温室の透明な屋根から、真夏の陽射しが燦々と照りつけてきていた。
 僕の周囲に広がる小世界は、これでもかというくらい明るい。
 今でもここに来ると、あの毎日のように草を刈って暮らしていた頃に戻れる気がした。
 僕の代わりに、周囲の植物達が思ったり考えたりしてくれているような感じがするのだ。


 熱く湿った空気。温室の草花が放つ緑色の吐息。
 僕は眼を閉じて息を吸い、そして深く吐いていった。
 体の中が、森で満たされていく。


「もっと生きていたい?」


 僕の代わりに誰かがそう言った。女の子の声だった。
 横を見てみると、いつの間にか、僕と同じような姿勢で樹に触れている少女の姿があった。
 温室の日差しに照らされて、白いワンピースが輝くように光っている。


「ああ、そうだね」


 七夕の願い事か。
 僕がそういうと、少女はいたずらな笑みを浮かべてきた。


「思い残すことはないけれど?」


 そして、僕の気持ちを代弁するようにして、そう言ってきた。
 僕は一つだけ頷いて、それに答えた。


 僕が死んだ後もこの世界は続く。人は生まれ続け、喜びも悲しみも続いていく。
 全ての人が幸せにはなれるわけではないし、いずれ想像もつかない地平へと人類が旅立ってしまう可能性もある。
 それでも、今なら胸を張って言えるのだ。 
 どんなに遠い場所まで行ったとしても、そこには美しいと思える景色が必ず広がっているのだと。


「でも、だからこそ」
「うん……だからこそ」


 僕はその先が知りたいと思う。
 遥か遠い未来、人間という存在が行き着ける究極の地平まで、生きてこの目で確かめてみたいと思う。


「だったら」


 少女が僕の手を握ってくる。
 その瞬間、暖かな波動が僕の中に入り込んできた。


「え……?」
「その願いは叶う、私達はどこまでだって行ける」
「君は、一体……」
「ありがとう。私達のことを、ずっと大事にしてくれて」


 少女がそう言った瞬間、僕の頭の中で何かがはじけた。
 それはまるで、輪ゴムを引きちぎるかのような切ない感触だった。


 僕は終わるのだと思った。そしてそれは実際にそうだった。
 僕の意識は、僕の体を離れ、ふわりふわりと宙に浮かび始めたのだ。


――これは。


 魂を失った僕の体は、そのまま緑の絨毯の上にばったりと崩れ落ちる。
 なんてことだ、と僕は思った。
 今、芝生の上に横たわっている仏様は、自分が死んだことにまるで気付いていない。
 呆けたように両目と口を開いたまま、ただ、草の上に横たわっているのだ。


――いやはや……。


 もう少し幸せそうな顔を出来なかったものか。僕はそう、どこか他人事のように思った。


 すぐにケアボットが駆けつけてきた。
 そしてつぶさに僕の状態を確認し、速やかに緊急コールを院内に伝える。
 僕の意識は温室の中に拡散していた。そしてさらにそこから飛躍して、病院全体へと広がっていった。
 ところどころボンヤリと、はっきり見えるところははっきりと。
 驚くべきことに僕は、この院内で起こっていることの殆どを把握できていたのだ。


――これが、死……。


 僕が倒れたという報せを、手持ちの医療端末の警報によって知った真理さんが、慌てた様子で温室に入ってきた。そしてすぐさま僕の体を仰向けにする。
 呼吸を確認し、心臓の音を確かめ、最後に僕の瞳孔の動きをみる。
 誰がどう見ても明らかな程に、その人間は死んでいた。


――違うわ、あなたは私達と同じになっただけ。


 心の中に直接響いてくる声。
 僕は、僕の隣に浮かぶ少女の幻影に問いかけた。


――同じになった?
――そう。あなたの心の半分は、ずっと前から“ここに”あった。


 僕は改めて温室を見下ろす。
 色とりどりの花々が、綺麗に刈りこまれた芝生が、そして光輝く菩提樹が、僕の視界に飛び込んでくる。


 かつて、インドで起こった特異点事故。
 あの時に生じたシヴァの瞳は、インドにいた全ての人間の脳をハッキングしたものだった――。
 今の僕にはそれがわかった。
 地上の全てのエレクトリカが自我に目覚めて、その体から不思議な電波を飛ばしているのだ。


――そうか、そうだったのか……。


 僕の亡骸を前にして、真理さんがひどく落胆した様子でいた。
 でも大丈夫だと、僕は彼女に声をかける。
 みんないつかここに来る。
 全ての願いが叶う、この場所へ。


「えっ?」


 すると真理さんは、驚いたように顔を上げ、あたりをキョロキョロと見渡し始めた。
 だがそこに僕の姿はない。
 ただ、少しだけキラキラと、周囲の空気が輝いているだけだ。
 僕はそんな彼女に「またそのうち」と声をかけて、温室を後にした。


――今ならどこにでも行けるよ? どこに行きたい?
――そんなのもちろん決まっているさ。


 こんな大変なことをやらかしてくれた少年の住む場所。
 遠く海を越えた国にある、クリスタルタワーの頂上だ。
 特異点事故が起きたタイミングから考えて、彼が関係していることは間違いない。


――色々と、問い正したいことがあるよ。 


 僕はそう言って、少女の手をしっかりと握る。
 何か不埒な動機でこのようなことをしたのなら、僕は絶対に許さない。
 そう心のなかで吠えながら。


 そして僕達はひと筋の光となって、西の空へと旅立っていく――――






 終











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