アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

出発

「いよいよですな」


 デート当日、僕はしばらくぶりに私服に着替えて病室を出た。
 歩行器を使ってぎこちなく通路を歩いていた葵庭さんが、そう言って僕の肩をポンと叩いてきた。


「グッドラックですぞ!」
「はい、頑張ってきます」


 葵庭さんに見送られて僕は病院を後にする。
 病院の玄関前には、レンタルリムジンとその運転手が僕を待っていた。
 挨拶をして、車に乗り込む。


 車は、札幌のリムジン会社に頼んでレンタルした。卵を前後に引き伸ばしたような形の流線型で、上半分が黒い遮光窓で、それ以外は一点の曇りもないパールホワイトに塗られていた。
 前二輪、後四輪のマニュアルEV車で、最高速度は320kmにも達する。


 車内は軽く立って歩けるほどゆったりとしている。黒い本革の二人がけシートがあって、その脇に小さなバーコーナーがある。
 車内の上半分は可変透過光ディスプレイになっていて、任意の場所に窓を作ったり、プラネタリウムのように映像を表示させたりすることも出来る。
 今は遮光モードになっていて、バーコーナーにしつらえられているシャンデリア風の照明によって、車内は淡く照らし出されていた。


 シートに腰掛けると、スライド式のドアが自動で閉じる。
 運転席と客席を仕切っている壁の一部が透明化し、そこから運転手さんが「お忘れ物はございませんか?」と声をかけてくる。
 僕がそれに答えると同時に、リムジンは滑るようにして前へと進み始めた。


 * * *


 僕はまず、病院の近くの洋服店に寄って、頼んでおいたスーツに着替えた。
 新しい杖をつき、ホンブルグを被ると、自分でも驚くほどの老紳士になった。


 再びリムジンに乗って、真理さんの自宅まで迎えにいく。きっと彼女のお母さまとお祖母さまが、年甲斐もなく若い女をデートに誘った老人とはどんな人物なのかと、玄関先まで見に来るであろうに違いない。
 その時、僕は一体どんな顔をすれば良いのか、いまだもって検討もついていないのだが、ここはもう腹を括るしかないのだろう。


 それでも出来る限りの心の準備をしたいと思った僕は、運転手さんには出来るだけゆっくり向かってもらうようお願いしていたのだが、なにせ同じ市内でのことなので、5分と経たず到着してしまった。
 壁の一部が透明化し、運転手さんが心配そうにこちらを見てくる。僕は手を上げて大丈夫だと伝え、一人で車から降りて真理さんが出てくるのを待った。
 運転手さんが一度クラクションを鳴らすと、すぐに女の人が玄関から出てきた。


「あら、こんにちは。はじめまして」
「こんにちは。どうも、お世話になります」


 僕は帽子をとって、彼女に向かって頭を下げた。
 そしてお互いの名前を名乗った。彼女は真理さんのお母様だった。


「もうすぐ準備ができますから」


 と言って、僕が暇にならないよう、進んで話しかけてきてくれた。
 真理さんという女性を、遺伝子マッチングシステムによって生み出した女性。
 あれほどの才能を持った人物の母親は、意外なほどに気さくで、そして素朴な雰囲気をもっていた。
 短めの髪に軽いパーマをかけた、失礼ながら、本当にどこにでもいるようなご婦人だった。


「僕なんかが、真理さんをデートに誘ってしまって、本当に良かったのだろうかと思っています」
「いえいえ、いいんですよ。このところ全然浮いた話がなくて、心配していたくらいなんですから」
「病院では、アイドルみたいな人なのですがね」
「本人に相手を探す気がないんだから、どうしょうもないんです」


 話しながらクスクスと自然な笑みを零してくる。


「そうなんですか」
「ええ、未だに自分から男の人に声をかけたことが無いんですよ、あの子ったら。きっと私に似てしまったのね。一番似て欲しくないところだったんだけど」
「真理さんは素晴らしい女性ですよ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると何よりです」


 しばし、真理さんのお母様とお話をして暇を潰す。そのうち、車イスに座った真理さんのお婆様が、ベランダから顔を出してきた。彼女は満面の笑みをその顔に浮かべ、その腕には一歳半になる真理さんの末子を抱えていた。


 5分ほどして真理さんが玄関から現れる。


「はっ……」


 僕は思わず息を飲んだ。
 彼女は体のラインがはっきりと浮き立つ、グレーのワンピーススーツ姿だった。
 シックな配色であるにも関わらず、そのスーツは彼女の身の底から湧き立つ魅力を抑えきれていない。
 そして襟の奥からのぞく瑠璃色のブラウスと、胸元を飾るダイヤのネックレスが、なんとも魅惑的なアクセントになっていた。
 髪は高い位置にひまわり型にまとめてあり、濡れたような光沢を放っている。
 これこそまさに真理さんらしいコーディネートなのだと、僕は思った。


「大変お待たせいたしました」


 と言って、真理さんは少しあせったようにして、玄関前の階段を下りてきた。
 ほのかなラベンダーの香りが、初夏の陽気の中に紛れ込んできた。


「いいや、僕が早く着すぎてしまったんだ。思いのほか、病院から近くてね」


 と言って、彼女と眼をあわせる。


「とてもお綺麗です」


 僕がそう伝えると、真理さんは心持ちはにかみながら答えてきた。


「ありがとうございます」


 運転手さんに合図をして、スライドドアを開けてもらう。
 真理さんは目の前に停車している卵型の六輪リムジンを、しばし興味深そうに眺めていた。


「では、真理さんをお預かりします」


 お母様に頭を下げる。


「こちらこそ、娘をよろしくお願いします」


 僕は真理さんをリムジンの中にエスコートし、再度お母様に頭を下げた。


 そして車は目的地へむけて動き出す。
 車窓の全て透明化させて後ろを振り返る。
 真理さんのお母様が、どこか馴れた様子で手を振りながら、僕達を見送ってくれていた。









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