アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

残心

 何分そのままでいただろう。
 ずっと目を閉じたままだったから、目を開いた瞬間、世界は異様なまでに明るかった。
 視界の端で、無数の星の光がきらきらと輝いているようだった。
 そして僕は再び幻覚を見た。


「ああ……」


 僕の目の前には、長い黒髪の女の子がいた。
 そして僕の顔を、上から覗き込んできていた。
 着ている服はいつもの白いワンピースだ。


「こんにちは、お嬢さん」


 僕はその幻にむかって挨拶をする。
 少女は興味津々といった様子で目を輝かせ、口をうっすらと空けてどこか笑っているようだった。
 白い前歯の奥に、小さな薄紅色の舌先が見えていた。


 髪は真っ直ぐで潤いがあり、重力に従って僕の顔の方へと垂れ下がってきている。
 少女は僕が目を覚ましたことを確認すると、僕の隣にしゃがみこんだ。


「こんにちは」
「えっ?」


 すると驚いたことに、少女が返事を返してきたのだ。
 こんなことは初めてだった。
 少女はその柔らかな頬の肉をニッと引き上げて、子供らしく、ひまわりのように笑う。
 幻覚とは思えなかった。


「ねえあなた」


 少女は唐突にそう声をかけてきた。


「あなたはもうすぐ枯れちゃうのね」


 僕はただ口をポカンと開けて、少女の姿を見上げていた。


 * * *


 なんと不思議な少女だろう。
 僕はそう思ったが、すぐに考えを改めた。彼女は僕の脳細胞が生み出した幻覚なのだ。
 つまりこの少女の問いかけは、僕自身の自問自答だ。


「僕はもう枯れてしまっているよ」
「ううん、そんなことないよ。まだ青いところが少し残っている」


 僕と幻との会話が始まる。
 青いというのは、まだ生きているということを意味しているのだろうか。
 それとも、何かしらの未熟さが僕の中に残っているという比喩なのか。


「そうか、僕はまだ青いのか」


 僕はそう答えて、少女の姿をまじまじと見た。見れば見るほど本物のように見える。
 芝生を踏みしめている素足と、ワンピースの裾に、草の汁がついている。
 ほっそりとしたふくらはぎも、二の腕も、手を伸ばせば触れられるのではないかと思えるほどに、生々しく、肩には日焼けの後があり、膝小僧にはすりむけたような跡がある。
 どうみても少女は、育ち盛りの子供そのものだった。


「君はどこから来たんだい?」
「どこから?」


 少女は不思議そうな顔をして小首を傾げた。
 質問の意味が良くわからないといった様子だ。


「私はずっとここにいる」
「ええ?」
「ずっと、いつでもここにいるよ」
「この温室に? お花の世話でもしているのかな?」
「ううん、してないよ」
「じゃあ、どうしてずっとここにいるんだい?」
「ここで生まれて、ここで生きているから」


 僕はそれ以上、何をどう返せば良いのかさっぱりわからず、ただ呆然と少女を見つめた。
 少女はそんな僕を見てクスクスとおかしそうに笑う。
 そしておもむろに立ち上がり、スキップを踏んで樹の周囲を回り始めた。


 ここで生まれて、ここで生きている。
 僕の生み出した幻覚がそんなことを言う。これは僕にとって、一体どんな意味を持つのだろう。


 少女は回り続ける。歌うように、踊るように、陽気なリズムを地に刻みながら、ぐるぐると。
 僕は樹の根元から立ち上がり、病院の人の間で「光り樹」とよばれている、その樹の肌を手で撫でた。
 この少女はもしかしたら、幻覚などではないのかもしれない。
 ここで生まれて、ここで生きている。
 それはつまり、いまこの温室に生きている植物そのもののことではないか――?


「おじいちゃん」


 少女がステップを止め、僕の隣に並んで立つ。
 そして僕と同じようにして、樹の肌に手を当てる。


「私はここで生きているんだよ」
「ああ、わかるよ」
「私はあなたがここに来たときから、あなたことを見ていた」
「そうなのかい?」
「うん。突然声をかけたらビックリすると思ったから」
「どうして今になって、僕の前に現れてくれたのかな」
「心残りにならないように」
「心残り?」
「うん、あなたに心残りがないように」
「僕に?」


 どうやら少女は、僕のことを心配して現れてくれたようだ。


「どんなふうに心残りになるんだろう、僕は」
「うん、あなたには、やりたいことがまだ残っている」
「ふむ」
「あなたはあの女の人が好き」
「え?」


 あまりにも唐突なその言葉に、僕は一瞬言葉を失う。
 好き? 僕が? 誰を?
 こんな歳になって。


「あの、背の高い、立派な胸の女の人が好き」
「まさか……真理さんのことかい?」
「そう、あの女の人のことが」


 僕の中で、何かが疼いた。
 理由はわからないが、とにかく胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 この少女に言われるまで気がつかなかった。いや、気付こうとしなかったのだ。
 ずっと封じ込めてきた思いが、僕の心の奥深くから、突如として湧き出てくるようだった。


 この少女は、一体、僕に何を伝えようとしているのか。
 何をさせようとしているのか。


「……ん?」


 すると温室の中、吹くはずもない風が吹いて芝生がなびいた。
 樹の枝がゆれ、葉がサヤサヤと囀った。
 僕は少女に問いかけた。
 恐る恐る、問いかけた。


「君の名前は?」


 すると少女は僕の方を向き、自然で、柔らかで、どこまでも無邪気な笑顔を浮かべて言った。


「エレクトリカ」


 温室の中を、暖かく湿った風が吹きぬけた。


「みんな、私をそう呼ぶわ」
「ああ……」


 その瞬間、彼女のワンピースが太陽のように輝いた。
 真っ白な光りに視界が覆われ、僕は何も見ることが出来なくなった。









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