アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

雪解 ―2033年―

《マインド・ログ 2033.5.1》


 長かった冬が終わり、北国に遅い春がやってくる。
 5月に入っても畑の一部には雪が残っているが、日当たり良い場所には草の芽がで始めている。


 雪解け水と畑の泥がまじりあう時の、独特の空気を肌に感じながら、僕はプレバブ小屋のそばに小さなビニールハウスを建てていた。
 アーチ状の支柱が8本。いくつかのスチールパイプを横に渡して固定し、買ったばかりの真新しいビニールシートをかぶせていく。 
 作業が一段落したころに、保坂さんがやってきた。


「よお、精が出るな」


 保坂さんはワゴンから降りると、片手に一升瓶をぶらさげながらやってきた。


「はいこれ、いつものだけど」
「ありがとうございます」


 重みのある一升瓶の中身は、今朝絞ったばかりの牛乳だった。
 保坂さんは、僕の小屋の前を通る度に、こうして差し入れを持ってきてくれる。
 今となっては、僕の貴重な栄養源だ。


「どうだい、畑は」
「ええ、ぼちぼち電力が出てきてます」
「おおそうか、不思議なもんだな。まだろくに草も生えてないってのに」


 二人で道端に立ってエレノア畑を見渡す。
 保坂さんは胸ポケットからたばこを取り出すと、ライターで火をつけて口に咥えた。
 畑はかすかに緑がかってきている程度だが、もうすでに電流発生菌の活動は始まっている。
 エレノアの根は生きているし、春の日差しを受けて地温も高まってきてるからだ。


「もうだいぶ慣れたか、ここの暮らしは」
「はい、おかげさまで」
「冬の間はきつかったろうに」
「いえ……それはそれほどでも」


 むしろ、あまり人と顔を合わせなくてよいので、楽に思っていたくらいだった。
 どうやら僕は、長い間一人でいることが苦にならない性質らしい。


「ああ……街では色々あったんだっけな」


 僕の過去を知っている保坂さんは、気づかうような口ぶりでそう言ってきた。


「ここにも、あれこれおかしなこと言う人はいるんだけども。あんまり頭いいのがおらんのだわ。癇に障るようなこともあるかもしんねえな」
「そんな、みなさんとても良くしてくれます」
「そうか? ならいいんだが……」


 そこで会話が途切れた。僕は保坂さんと並んで、しばし畑を眺めていた。
 遠くにゆっくりと雲がながれていて、時折ふく風がまだ冷たかった。
 日の当たっている箇所だけが暖かった。


 人の良し悪しは、おそらく頭のよさでは決まらない。
 知能というものは、結局は道具の一つでしかないのだろう。
 つまり、使い方を間違えればとんでもないことになる。
 人は誰でも、自分の持っている道具をよくよく注意して使っていかなければならないものだ。


 しかし、どんなに注意深く生きていても、どうしようもならないことだってある。
 僕は未だに、僕の右手が怖かった。
 勝手動いて男の喉笛を切り裂いたこの右手が。
 だからプレハブ小屋には、一切の刃物を置いてない。
 近くに人を殺傷しうる可能性があるだけで、怖くて夜も眠れないから。


 僕が起こした事件はニュースにこそなったが、マスコミに大きく取り上げられることはなかった。
 元をたどれば、そのマスコミ自身に行き着いてしまうのだから、当然と言えば当然だ。僕が殺したあの男は、相当に手広い範囲に渡ってコネクションを形成していたようで、その死は至る所で見えない動揺を引き起こした。
 メーカー各社も、あれ以来、五感テレビの開発に力を注がなくなってしまった。
 結局のところ五感テレビは、一時的なブームを起こした後にその存在を忘れられていくことになる。


 新谷さんはその後、無事に味覚デバイスの特許を取得し、新会社であるニューバレー株式会社を立ち上げた。味覚デバイスは、むしろインターネット環境への親和性のほうが高かったようで、会社は今のところ順調な成長を遂げているようだ。
 その過程で新谷さんは、少々強引な方法で二葉さんの救済を果たした。
 なんでも、脳機能の専門家を引き連れて、こっそり家の中に忍び込んだらしい。


「洗脳をかける奴もどうかしているが、それをこともなく解いてしまう学者の方にも、俺は末恐ろしいものを感じるよ」


 相当にやつれた顔をした新谷さんが面会にきて、そんなことを言い残して言った。
 二葉さんとはもう会うこともないだろう。
 全ての傷が癒えたわけではないし、操り人形になっていた過去もけして消えはしない。おそらく僕達の存在は、彼女に当時のことを思い出させてしまうだけなのだろう。
 ともかく、二葉さんはいま生きている。
 僕にはそれだけで十分だった。


「保坂さん」
「ん?」


 僕はゆっくりと右手を持ち上げ、太陽にかざした。


「僕はこの手で人を殺しました」
「……おお」


 すると保坂さんは、少し困った顔をしてきた。
 真っ黒に焼けたその顔が、まるで気難しい芸術家が作った彫像のように固まってしまう。


「本当にここにいていいんでしょうか」
「うーん……」


 僕の質問の答えを、保坂さんはしばらく空をながめながら考えていた。
 何度かタバコを吹かすと、先の灰が長くなって地面に落ちた。
 やがて保坂さんは、軽く頭を撫で回しながら言ってきた。


「そんな気にしてもしょうがないべ。やっちまったもんはどうにもならんし、あんたはこれからも生きてかなきゃなんねえ」


 保坂さんは短くなったタバコを地面に捨てると、足で踏み消した。


「俺なんか、この手でいっぱい動物殺してんだからさあ」


 さも簡単にそう言ってくる。
 見上げた先には、朗らかとしか言いようのない表情が浮かんでいた。


「あんまし関係ねえかな? ははははっ」


 そして豪快に笑い飛ばすと、僕の肩をポンと叩いてくる。


「あんまし気にすんでねえよ? 難しいことはよくわかんねえけども、あんたが良い人だってことはわかってから」


 さらになんどか僕の肩を叩く。


「したっけ、またな」
「……はい」
「困ったことあったらなんでも言ってくれよ?」


 僕が何度かその言葉にうなずくと、保坂さんは再び朗らかな笑みを浮かべ、そして車に向かって歩いて行った。
 僕は少々呆気にとられつつ、ワゴンに乗って去っていく保坂さんを見送った。


 一応、踏み消されたタバコの火を確認する。
 この辺ではよく見かける行為だけど、これもきっと、おおらかさの一つの形なのだろう。
 火はきちんと消えているようだったが、それでもどこか不安の残る消え方だった。
 だから僕は、そのタバコのフィルターをちぎりって持ち帰り、残りの部分は土に埋めた。


「よし……」


 そして僕は、頂いた牛乳入りの一升瓶を持って、自分の小屋へと戻っていった。


 二年目が始まろうとしていた。




 第一章 終









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