アシアセラフィカ ―久遠の傍観者―

ナガハシ

初冬

 クリスマスも間近となった日の夜。
 一晩中降り続いた雪のために、僕の断熱プレハブはすっかりと雪に埋まってしまった。
 次の日は一日中、除雪作業に費やされた。


 冬は、下手をすると外に出られなくなってしまう。
 近くを走っている農道はには除雪車があまり入らないので、長い時だと3,4日外出できなくなる。
 まさに穴熊のような生活だった。
 もっとも、このプレハブ小屋の断熱性能のおかげで、室温が10℃を下回ることはなく、厚着をすれば暖房無しでも快適に過ごすことが出来た。
 辺り一面を埋め尽くすような雪も、断熱材としての役割を果たしているようだった。


 積雪地帯で農地発電を営む場合、冬場は通常、都市部で別の仕事をして過ごすことになる。農地の側にいると、このように穴熊的生活を送ることになるからだ。
 しかし、僕はそうしなかった。
 この笑顔を作ることが出来ない体質のために、街に出て働くことが不可能になっていたからだ。


 鏡の前で顔の筋肉を揉み解し、気力を振り絞ってなんとか笑顔を作ることは出来る。しかしそれは、とても一日中続けていられるものではないのだ。
 服役期間を終えた後、学生時代に経験していたコンビニのアルバイトなどを試してみたことはある。しかし、この笑顔が作れないという欠点のために、長く続けることは出来なかったのだ。


 * * *


 雪に埋もれた小屋の中で一人、食事を作る。
 イモと豆とトウモロコシを炊飯器に入れて炊く。
 色々と試したが、これが一番電力消費の少ない調理法だった。
 30分ほどで、芋粥のようなものが炊き上がる。
 それに塩やバター、醤油などをかけて食べるのだ。


 ずっとこればかり続けていると飽きるので、味プリントシステム「マスターテイスターM320」を使って味付けをする。
 ニューバレー株式会社製の味覚再現装置。
 これはそのフラグシップモデルで、かつて僕が務めていた会社の上司がプレゼントしてくれたものだ。
 けして安いものではなく、軽自動車が一台買えてしまうくらいの値段がする。
 しかし味覚の再現性は極めて高く、単調な生活を続けるにあたって非常に重宝している。


 芋粥を炊いている間に、味覚データを集めたサイトにアクセスし、目ぼしい味覚データを検索する。
 昨日はジャーマンポテトの味付けを試したから、今日は別の味にしたい。
 「肉じゃが」とキーワード検索し、ヒットした304件の味覚データの中から上位のもの数件をピックアップ。ユーザー評価コメントを確認していく。
 今や、多くの味覚再現装置ユーザーが、こうして自分の作った料理の味を、味覚データとしてアップロードしている。
 中には有名料理店が、自主的に自分の店の味を公開をしていることさえあるのだ。


 そのデータの多くは、味覚解析装置によって作製されるが、中にはその解析装置を使わずに、データを直接いじることによって作られた味覚データもある。
 僕はこれら、無数にアップロードされた味覚データの中から、その打ち込み方式によるものをピックアップした。


 通常、打ち込みで作られた味は、不自然でざらつきのある味になりがちだ。
 だが、僕が見つけたそのデータは、ユーザーの評価が妙に高く、つい気になってしまった。


『けして自然な味わいではないが、どこか昔の駄菓子を思わせる懐かしさがある』
『打ち込みとは思えない美味しさ。ポテトフライによく合う』
『普通の調理では絶対に生み出せない奇抜な味。まさに味プリントならでは』


 それら、評価コメントを読みながら思い起こす。
 味覚再現装置の開発のために払われた、犠牲のことを。


 * * *


 僕は1993年の12月に生まれた。
 聞く話では、まったく泣かない赤子だったらしい。
 医師は何度も尻を叩いて産声を上げさせようとしたが駄目で、結局、気道吸引と人工呼吸を施されることになったそうだ。


 その時、両親はすでに40を過ぎていた。
 二人目を産むことは出来なかったので、僕は一人っ子として育てられた。
 父は金型加工の工場に勤めていて、母は小売店の経理をしていた。
 二人とも口数の少ない人で、二人の口から職場に関する話を聞くことは少なかった。
 一度だけ父が働いていた工場を見に行ったことがあって、工作機械に囲まれる中で働く父の姿が、家で寛いでいる時よりも小さく見えたことだけが印象に残っている。


 二人とも、本を読んだり映画を見たりして、静かに時を過ごすことを好むタイプだった。
 共通の趣味が家庭菜園で、二人はその趣味のために、わざわざ職場から遠く離れた郊外に庭付きの一戸建てを購入した程だった。
 2.5坪ほどの狭い庭つきで、二人はその庭に作った畑で、トマトやナスを育てていた。
 家の隣には、使われなくなった倉庫が建っていて、庭の裏には林が広がっていた。
 夜、風の吹く日などは、はがれかけた倉庫のコンパネがバタバタと音をたてて、良く寝付けなかった。
 裏の林の管理者が誰なのかは、ついぞ知ることが出来なかった。


 暖かい季節になると、毎日のように庭でとれた野菜が食卓にならんだ。
 給食の時に、よくクラスメートから嫌いな野菜類を押し付けられた。
 争い事は嫌いだった。
 僕の少年時代の思い出は、その程度ものだった。 


 大学進学と同時に一人暮らしを始めた。
 専攻は生命工学。いつだったか両親に連れて行ってもらった植物園の光景が長い間印象に残っていて、それが僕が生命工学を学ぼうと思ったきっかけになった。
 どんなに科学が進歩しても、生命そのものを作り出すことは出来ない。その事実が若き日の僕の心を捉えて離さなかったのだ。


 家計の負担を軽くするためにコンビニでアルバイトをし、サークル活動には参加せず、4年間黙々と勉強して卒業論文を書き、修士課程に進んだ。
 その間、僕は一度も女性を付き合うことはなかった。
 小、中、高の12年間を振り返っても、女子と口を聞いたことは数えるほどしかない。
 苦手だったというわけではない。ただ、話す機会がそもそも少なく、仲良くなりたいという意欲も特に湧かなかったからだ。


 今にして思えば、僕は寂しい人間だったかもしれない。
 いつだったかバイト先の店長に、彼女の一人も作らないで何が大学生活だと指摘されたことがある。
 その言葉は正直に言ってショックだったが、だからといって僕に何か特別なことをさせようという力は持っていなかった。


 一度だけ、バイト先で一緒だった年上の女性に告白してみようかと思ったことがある。
 その人は、温和な性格で、良く笑い、そして良く働く人だった。
 母に少し似ていたかかもしれない。
 二人きりになる機会が何度もあり、その度に僕は、胸の奥に何か暖かな感情が湧いてくるのを感じていた。


 その気になればいつだってプロポーズは可能だったかもしれない。
 彼女に付き合っている人がいないことも知っていたし、僕に好意をもってくれていることも知っていた。
 だが僕は結局何も言えなかった。
 理由はやはりそう、僕の中に、その人と付き合いたいという意欲がそもそも乏しいからだった。


 結局僕は、大学に行って講義を受け、バイトをして家に帰り、夜遅くまで課題を片付けるという、いつもの生活に戻った。
 暇があれば大学のジムで汗を流し、図書館から本を借りてきて、家で一日中読みふけっていた。


 それで僕は幸せだった。


 僕はそのようにして六年間を過ごし、分子機械にする修士論文を書き上げて大学院を卒業した。
 そして、中堅の化学機器メーカーに就職し、味覚デバイス研究室に配属された。


 この時僕は、自分が人殺しになるなんて夢にも思っていなかった。









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