猫たちの惑星
エピローグ ―二人―
「まあ紀夫さん、ボタンを掛け違えてますわ」
と言って私はボウヤのパジャマを直してあげます。
「ああ……みっともないところを見せてしまったね」
と言って僕はパジャマの襟を正し、ベッドに腰を下ろす。
就寝前に電子新聞に目を通していたら、思いがけず良記事に巡り会えて、ちょっと考え事をしながらパジャマを着ていたらボタンがずれてしまったのだ。
「なにか考え事をしていらしたのね?」
そう言って私はボウヤの隣に腰を下ろします。私がベッドメイクをしている間中、彼は脇目もふらずに電子新聞を読みふけっていたのです。きっと彼の弦線に触れる何かがあったのね。
「この星の……人間の行く先について、あれこれとね」
「さらに言えば、この家のあれこれについても」
「そうだね、この家にはもう財閥としての力は全く残っていない。温泉の方は世暇スーパー銭湯として営業にこぎつけたけど、これじゃあただの銭湯屋だ」
「あら、いいじゃない。湯船に浸かっている人たち、みんな猫みたいにのどかな顔をしてて、私見ていて飽きないわ」
「すまない……君に銭湯の番頭までやらせてしまって」
「仕方ないですわ、奥様も兄上達も、みんな完全に骨無しになってしまっていますから」
「すまない……」
このところ、僕はすっかりしおらしくなってしまった。
特に、ドロシーを前にすると気後れすることばかりなのだ。
すっかり記憶をなくしてしまった私に残されたのは、二匹してネズミを追いかけて遊んでいるネコの姿が保存された携帯端末のみ。
記録情報には何かのスパイ映画みたいなやり取りが延々と綴られているのですが、ハッキリ言って他人事です。
僕が彼女にしたことは、ことごとく彼女の情報端末に記されていて、その全てについて彼女は目を通している。僕が彼女のことを、良い慰みものにしていたことも当然わかっているはずなのに。
「そんなに謝らなくても良いですのに。まるで私が悪いことをしているよう」
「すまない……ああ、いや、すまなくない」
「うふふ、変な人」
ボウヤは私に嫌われてないことが不思議でしかたない様子。
私の携帯端末の情報によれば、彼は私のことを良いおもちゃにしていたそう。
しかし私もまた彼を意のままに操って、破滅へと突き落とそうとしていたのです。はっきり言ってどっちもどっち。気後れする必要なんてないと思うのですけど。
おそらく彼女にとって、過去のことは完全に他人事なのだろう。そして本来の性格からか、人の欲望に対して寛容であるし、自分の欲望に忠実でもある。彼女は僕の専属メイドとして生きることが、今の自分にとってベストな選択であること考えている。
人の姿に戻った時、私はボウヤとともに、露天風呂の片隅に裸で横たわっていたのです。
ネコになっている間中、彼と一緒に行動していたであろうことは明らか。ここがどこで、自分が何者なのか、一切の記憶が欠落した私の中にあったのは、とにかく目の前にいる男に気に入られる以外に道はないということでした。
以前、彼女に対して感じていたマグマのような怒りは、彼女が記憶の一切合切を失っていると気づいた時点で綺麗さっぱり消えてなくなった。自分でも不思議に思うほどに。おそらく僕は、ドロシーのことを根本の部分では愛していたのだろう。愛していた者に裏切られれば、その憎しみは数百倍だ。しかしその対象がなくなれば、憎しみの感情は消えてなくなる他ない。僕の怒りの仇をとったのが、あの血の繋がらない父であったことには忸怩たるものを感じるが、この星の大気と化してしまった今は、それもただ哀れとしか言いようがない。
つまるところボウヤもまた、さまざまな感情が嵐が去った後の晴天のようなもので、心が空になってしまっているのです。
「ドロシー、一つ聞いていいかい」
「なんでしょうか、紀夫様」
「いつまで僕の専属メイドでいてくれるの?」
私はその質問にすぐには答えません。そんな簡単に打ち明けられることではありません。
「紀夫様は、私がいつかここからいなくなるとお考えなのですか?」
「わからない…………わからないから聞いているんだ」
僕の心理によぎるものは明らかな不安だった。
彼女を失ってしまうことを、僕は憂いている。
ずっとそばにいてほしいと願っているのだ。
「それは紀夫様しだいです」
「僕次第?」
「紀夫様がずっとこのまま没落貴族のままでおられるのでしたら、正直言って、ここに居続ける理由はありません」
「うう……そうか」
苦虫を噛んだような表情を浮かべるボウヤ。
その表情に、私の心は、どちらかといえば好印象という回答を示します。
でも私はそれを顔に出しません。
好いた男の手綱は、しっかり握って離さない。
それが女という生き物ですもの。
「だから、私をずっと側においておきたいのなら、死ぬ気で頑張って頂きたいのです」
「ああ、そうだね……努力する」
僕はベッドのシーツをきつく握りしめる。
そして胸に強く誓う。きっと遠くない未来、この偽りの温泉を本物に変える。そして僕と彼女と、そしてホンカワ市の人々のための立派な城を築くのだ。
それが僕の、彼女に対する償いであり、その償いが十分になされた時、僕は胸を張ってドロシーに言えるだろう。
「それではお休みなさい、紀夫様」
とだけ言い残して、私はそっけなく立ち上がります。まだまだ駆け引きは続くのです。
「ま、まってくれドロシー、もう少しだけ付き合ってくれないか? どうにもうまく寝付けそうにないんだ……」
「あら、紀夫様はまだ子守唄が必要なお年頃なのですか?」
「うっ……」
きっと僕は、ひどく情けない表情をしていることだろう。
でも今は、たとえ子供っぽいと見下されようとも、彼女の手を掴んで離したくないんだ。
意を決して僕は立ち上がる。
「えっ……」
そして彼女の華奢な肩を両手でつかむ。
「僕は必ずこの家を再興してみせる。だからその時まで……僕達を見限らずに、側にいてほしい」
屈託ない言葉でそう告げてくるボウヤは本当にボウヤと呼ぶにふさわしい甘えん坊です。
でもちょっと……胸の奥がぐらついてしまうのは不覚の極みですね。
だから私は考えます。いまここで最大限のイニシアチブを発揮するための方法を。
「仕方がありませんね……」
「え……ドロシー!?」
突如、僕の胸に押し付けられる柔らかな体。
しっとりとつめたい彼女の手のひらが、僕の頭を柔らかく包む。
「本当に甘えん坊さんね……ボウヤ」
ついつい綻んでしまう表情を隠すため、私は彼の頭をぎゅっと胸に抱き寄せます。
そして――。
いつか来る約束の日に思いをはせる。
この思いを告げるべき日を夢に描く。
メイドと主人としてではなく、人として結ばれよう。
そう告げる――告げられる――その瞬間を。
と言って私はボウヤのパジャマを直してあげます。
「ああ……みっともないところを見せてしまったね」
と言って僕はパジャマの襟を正し、ベッドに腰を下ろす。
就寝前に電子新聞に目を通していたら、思いがけず良記事に巡り会えて、ちょっと考え事をしながらパジャマを着ていたらボタンがずれてしまったのだ。
「なにか考え事をしていらしたのね?」
そう言って私はボウヤの隣に腰を下ろします。私がベッドメイクをしている間中、彼は脇目もふらずに電子新聞を読みふけっていたのです。きっと彼の弦線に触れる何かがあったのね。
「この星の……人間の行く先について、あれこれとね」
「さらに言えば、この家のあれこれについても」
「そうだね、この家にはもう財閥としての力は全く残っていない。温泉の方は世暇スーパー銭湯として営業にこぎつけたけど、これじゃあただの銭湯屋だ」
「あら、いいじゃない。湯船に浸かっている人たち、みんな猫みたいにのどかな顔をしてて、私見ていて飽きないわ」
「すまない……君に銭湯の番頭までやらせてしまって」
「仕方ないですわ、奥様も兄上達も、みんな完全に骨無しになってしまっていますから」
「すまない……」
このところ、僕はすっかりしおらしくなってしまった。
特に、ドロシーを前にすると気後れすることばかりなのだ。
すっかり記憶をなくしてしまった私に残されたのは、二匹してネズミを追いかけて遊んでいるネコの姿が保存された携帯端末のみ。
記録情報には何かのスパイ映画みたいなやり取りが延々と綴られているのですが、ハッキリ言って他人事です。
僕が彼女にしたことは、ことごとく彼女の情報端末に記されていて、その全てについて彼女は目を通している。僕が彼女のことを、良い慰みものにしていたことも当然わかっているはずなのに。
「そんなに謝らなくても良いですのに。まるで私が悪いことをしているよう」
「すまない……ああ、いや、すまなくない」
「うふふ、変な人」
ボウヤは私に嫌われてないことが不思議でしかたない様子。
私の携帯端末の情報によれば、彼は私のことを良いおもちゃにしていたそう。
しかし私もまた彼を意のままに操って、破滅へと突き落とそうとしていたのです。はっきり言ってどっちもどっち。気後れする必要なんてないと思うのですけど。
おそらく彼女にとって、過去のことは完全に他人事なのだろう。そして本来の性格からか、人の欲望に対して寛容であるし、自分の欲望に忠実でもある。彼女は僕の専属メイドとして生きることが、今の自分にとってベストな選択であること考えている。
人の姿に戻った時、私はボウヤとともに、露天風呂の片隅に裸で横たわっていたのです。
ネコになっている間中、彼と一緒に行動していたであろうことは明らか。ここがどこで、自分が何者なのか、一切の記憶が欠落した私の中にあったのは、とにかく目の前にいる男に気に入られる以外に道はないということでした。
以前、彼女に対して感じていたマグマのような怒りは、彼女が記憶の一切合切を失っていると気づいた時点で綺麗さっぱり消えてなくなった。自分でも不思議に思うほどに。おそらく僕は、ドロシーのことを根本の部分では愛していたのだろう。愛していた者に裏切られれば、その憎しみは数百倍だ。しかしその対象がなくなれば、憎しみの感情は消えてなくなる他ない。僕の怒りの仇をとったのが、あの血の繋がらない父であったことには忸怩たるものを感じるが、この星の大気と化してしまった今は、それもただ哀れとしか言いようがない。
つまるところボウヤもまた、さまざまな感情が嵐が去った後の晴天のようなもので、心が空になってしまっているのです。
「ドロシー、一つ聞いていいかい」
「なんでしょうか、紀夫様」
「いつまで僕の専属メイドでいてくれるの?」
私はその質問にすぐには答えません。そんな簡単に打ち明けられることではありません。
「紀夫様は、私がいつかここからいなくなるとお考えなのですか?」
「わからない…………わからないから聞いているんだ」
僕の心理によぎるものは明らかな不安だった。
彼女を失ってしまうことを、僕は憂いている。
ずっとそばにいてほしいと願っているのだ。
「それは紀夫様しだいです」
「僕次第?」
「紀夫様がずっとこのまま没落貴族のままでおられるのでしたら、正直言って、ここに居続ける理由はありません」
「うう……そうか」
苦虫を噛んだような表情を浮かべるボウヤ。
その表情に、私の心は、どちらかといえば好印象という回答を示します。
でも私はそれを顔に出しません。
好いた男の手綱は、しっかり握って離さない。
それが女という生き物ですもの。
「だから、私をずっと側においておきたいのなら、死ぬ気で頑張って頂きたいのです」
「ああ、そうだね……努力する」
僕はベッドのシーツをきつく握りしめる。
そして胸に強く誓う。きっと遠くない未来、この偽りの温泉を本物に変える。そして僕と彼女と、そしてホンカワ市の人々のための立派な城を築くのだ。
それが僕の、彼女に対する償いであり、その償いが十分になされた時、僕は胸を張ってドロシーに言えるだろう。
「それではお休みなさい、紀夫様」
とだけ言い残して、私はそっけなく立ち上がります。まだまだ駆け引きは続くのです。
「ま、まってくれドロシー、もう少しだけ付き合ってくれないか? どうにもうまく寝付けそうにないんだ……」
「あら、紀夫様はまだ子守唄が必要なお年頃なのですか?」
「うっ……」
きっと僕は、ひどく情けない表情をしていることだろう。
でも今は、たとえ子供っぽいと見下されようとも、彼女の手を掴んで離したくないんだ。
意を決して僕は立ち上がる。
「えっ……」
そして彼女の華奢な肩を両手でつかむ。
「僕は必ずこの家を再興してみせる。だからその時まで……僕達を見限らずに、側にいてほしい」
屈託ない言葉でそう告げてくるボウヤは本当にボウヤと呼ぶにふさわしい甘えん坊です。
でもちょっと……胸の奥がぐらついてしまうのは不覚の極みですね。
だから私は考えます。いまここで最大限のイニシアチブを発揮するための方法を。
「仕方がありませんね……」
「え……ドロシー!?」
突如、僕の胸に押し付けられる柔らかな体。
しっとりとつめたい彼女の手のひらが、僕の頭を柔らかく包む。
「本当に甘えん坊さんね……ボウヤ」
ついつい綻んでしまう表情を隠すため、私は彼の頭をぎゅっと胸に抱き寄せます。
そして――。
いつか来る約束の日に思いをはせる。
この思いを告げるべき日を夢に描く。
メイドと主人としてではなく、人として結ばれよう。
そう告げる――告げられる――その瞬間を。
コメント