猫たちの惑星

ナガハシ

一人で入りますっ -少女-

 母上が食器を洗っている音がお台所から聞こえてきます。
 食事が終わって、今は父上と二人で電子ビジョンを見ているところです。


《さあ今日もやってまいりました断崖絶壁! よじ登るのはもちろんこの方! キャッティー・クルーガーさんだ! みなさん拍手~!》


 私はナレーターさんの声に合わせてパチパチと拍手をします。
 父上はクルーガーさんという無精ひげを生やした男の人の手足が気になるみたいです。


《やあ! お茶の間のみんな! 今日もこの猫の手と足と使ってシュルシュルと昇っちゃうよ! もちろん命綱なんてつけない。落っこちる瞬間を見逃さないでくれよ!》
《はいクルーガーさん! 番組を終わらせるようなことは言わないでくださいね!》


 画面からこぼれ出る「ワハハハ」という声にあわせて、私もウフフと笑います。
 さっそくクルーガーさんは、命綱もつけずに昇り始めました。
 ときどき崖から手を離して、足のかぎ爪だけでその場に留まって、たばこを一服したりします。


《クルーガーさん! 番組を終わらせないでくださいねー!?》
《ハッハー、いつ終わるかわからない人生だからこそ、面白いんじゃないかい?》
《く、クルーガーさーん!(ワハハハ)》


「あの……お父上」
「いやまったく、あの手足はどうなっているんだろうね?」


 私は開きかけた口を閉じます。
 父上はあごをさすりながら番組に見入っていました。
 実は私、あの手足が好きじゃないんです。
 まるで本物の猫の手足をちょん切ってつけたみたいで。


 実は父上に言いたいことや聞きたいことがたくさんあるんです。
 もう一人でお風呂に入ろうと思っていること。
 世暇のおば様の、あの恐ろしい表情のこと。
 でもどう言い出せばいいかわからなくて。
 何をどう言っても父上を困らせてしまいそうで、うまく話しを切り出せません。


 そう思っているうちに、クルーガーさんは頂上にたどり着いてしまいました。
 崖から崖に飛び移ったり、わざと岩のでっぱりを掴みそこねたりして、お茶の間に冷や汗をバラマキながら。


《いやー、ひやひやしました! ディレクターの寿命がまた数年縮まりましたよ!》
《ハッハー、このくらいでビビッてちゃいけないぜ? 来週はなんとあのヘルズノーズに挑戦だ! ナレーター君、ヘルズノーズって知ってるかい?》
《もちろんですよクルーガーさん。ヒヨドリ山脈の最難関! 標高3000メートルの高みに出っ張った地獄の鼻! 誰が呼んだかヘルズノーズ! 登るのも厳しいが、撮影もするのも命がけ! またディレクターの寿命が縮まっちゃう!》
《ハッハー、今からワクワクだなー。それじゃお茶の間のみんな、来週は時間を拡大してお送りするぞ! 見逃すな!》


 番組が終わると同時に、急いでお風呂に向います。
 父上が入ってこないうちに済ませることにしましょう。
 そうすれば父上は自然と気づいてくれるかもしれない。


 脱衣所で着物を脱ぎ、たたんで竹のかごに入れます。
 早く入って、早く出たいのに、電気五右衛門風呂のお湯がいつもより熱く沸いてしまっています。
 いつもなら父上が水を入れたり、かき混ぜたりして冷ましてくれるのだけど、今日は自分で頑張ってやります。


「熱っ!」


 お湯で体を流してみたのですが、まだかなり熱い。
 でも我慢して体や頭を洗い始めます。
 何をやっているのかな。
 自分でもそう思います。どうして今夜はこんなに父上とお風呂に入るのが嫌なんだろう。
 父上が私に何かを隠しているから?
 それに私が気づいてしまったから?
 わからない。
 紀夫お兄様のことも、世暇のお爺様が倒れたことも、そして世暇のおばさまの、あの恐ろしい微笑みのことも。
 大人の人達はいったい何を考えているのでしょう。


 体を洗い終わったので、お湯に浸かります。
 板が上手く踏めません。電気五右衛門風呂は底が熱くなっていて、湯面に浮かべた板を沈めて入らないと火傷してしまいます。


「はっ……」


 脱衣所に人影が。
 父上が来てしまいました。
 間に合わなかった。
 ともかくお湯に浸かろう。やっと沈めた板の上に、私は体を乗せました。
 お湯が少し溢れます。お湯はとても熱くて、全身の肌がピリピリ痛む。


 でもどういうわけか、父上は中々入ってきません。
 それはそれで困ったことでした。
 何をしているのですか父上?
 何を考えているのですか父上?


 週に一度の鼻パックをつけているのですか?


「貴子、入るよ」


 父上がお風呂の入口で声をかけてきました。
 どうして? いつもそんなこと言わないのに。


「おお、貴子。自分で板を踏めたのか」
「お、お父上、水を足したらお湯が一杯になってしまいました。一緒に浸かったら、お湯がたくさん溢れてしまいます」
「そうみたいだね。じゃあ父さん、先に体を洗うよ」


 そう言って父上は、垢こすりに石鹸をつけて、ガシガシ体を削るように洗いはじめました。


「なあ貴子」
「……なんですか?」
「何だか今日は……ずっと元気がないね」


 そう言う父上もなんだか元気がありませんでした。
 とても聞き難そうな様子です。


「世暇のお爺様が倒れられて……ショックでした。でも大丈夫です」


 わたしはひとまずそう答えておきます。
 大丈夫かと聞かれて、大丈夫じゃないとは答えにくいものです。


「若奥様のこともあるんだろうね、貴子」
「!?」


 そういわれて私は、父上が私を理解してくれたという嬉しさと、父上に嫌なことを思い出させられたという悲しさを、同時に感じました。


「……あまり、考えたくありません。すごく怖かったから」
「うむ、貴子にはまだ難しい話だと思うよ。良くわからないことというのは、それだけで恐ろしく感じられるものだからね」
「貴子にも……そのうちわかる時が来ますか?」
「ああ、いつかは来るよ。成長するにつれて少しずつわかってくるさ」
「いつ、わかりますか? 紀夫お兄様くらいの年になればわかりますか?」


 私がそう訪ねると、父上はしばらく黙りこんで、そして静かな声で言いました。


「貴子、世の中には、知らずにいた方が良いことだってあるんだ。嫌なことを無理して考える必要はないんだよ?」
「…………」


 それが父上の本音なのだと思いました。
 父上はきっと、私にずっと子供でいて欲しいだと思いました。
 なんでしょう、この感覚。
 頭を押さえつけられて、湯船の中に沈められていくような、そんな感覚。
 悔しい。
 なんだかとても悔しい。


「父上!」


 その時、私の胸の中にたまっていたものが突然噴き出しました。
 もう自分で自分の気持ちをどうにもできない。


「貴子?」
「父上はいつもそうです! 難しいことを沢山知っているのに! 貴子にも色々なことを教えてくれるのに! 本当に貴子が知りたいことはまったく教えてくれません!」
「た、貴子……父さんはね……」


 父上が何か言おうとしているのをさえぎって、私は先を続けます。
 目の奥が熱くなってきて、鼻の奥がツーンと痛くなってきて、悲しい気持ちでいっぱいで。
 もう、どんな言い訳も聞きたくはありませんでした。


「父上、貴子はもう子供じゃありません! ごめんなさいお父上。明日から貴子は一人でお風呂に入ろうと思います! ごめんなさい!」
「貴子……!」


 父上は立ち上がると、泡で汚れた手で私の手をつかもうとしてきました。


「やめてください! せっかく洗ったのにまた泡がついてしまいます!」
「あ、ああ……」


 父上は、今まで聞いたこともないような頼りない声を出すと、湯船のお湯を一杯すくって体を流しました。
 そして私が湯船から出るのと入れ替わりに、湯船の中に入っていきます。


「すまない……」


 振り返ってみた父上は、窓の方を向いてうつむき加減でした。


 父上と喧嘩をしてしまった。
 父上と喧嘩をしてしまった。


 私は脱衣所で着替えている間中、まるで念仏のように頭の中で呟いていました。













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