猫たちの惑星
ウィンナー -父親-
夕食どきになった。
仕事も一段落ついたので、私はリビングへと向かった。
そっとキッチンを覗くと、貴子は清美さんと夕食の準備に取りかかっていた。
どうやら昼間買ってきたソーセージを茹でているらしい。
買い物から帰ってきた時、貴子は酷く沈んだ表情をしていた。
私が不審に思って声をかけると、あわてて笑顔を取り繕い「なんでもありません」とだけ言って、足早に部屋へと戻っていってしまったのだが……なんだったのだろう。
「お母上、カニさんの足が開いてまいりました」
「まあ本当、カニさんの甲羅の模様まで浮かび上がってきたわね」
私は貴子の様子に変わりがないことを確認してから、何も言わずに食卓についた。
お台所は女の戦場だ。
私の介入する余地は残されていない。
卓上には清美さんがいつも用意しておいてくれるホンコン酒が置いてある。
杯を返して酒を注ぎ、一口だけ飲んで息をつく。
「ねえ貴子、レタスを千切ってちょうだい」
「はい、お母上」
電子ビジョンのスイッチを入れ、ニュースを眺めながら貴子のことについて考える。
世暇家の大旦那が倒れられた報は、ご婦人方の噂話という超高速通信網によって、日が暮れるころにはホンカワ中の知るところとなった。
軽い脳卒中のようで、命に別状はないらしい。
噂話によれば、なんでも大旦那のことを一番に知らせたのが貴子だったのだという。
貴子のあの暗い表情はその時のショックによるものなのだろうか?
うむ……しかし、帰ってきた時の貴子の表情にはもっとこう、複雑な事情がこめられていた。
世暇家は財を成す家系の概ねがそうであるように、色々と問題を抱えている。
大旦那様の財産をめぐる確執があるのはまず間違いないことなのだ。
もしかすると貴子は、そのいざこざに巻き込まれてしまったのかもしれない。
特にあの若奥様は、時にその本性をむき出しにすることがあるからな。
貴子があまり見たくないものを見せられてしまった可能性は大いにある。
「フジキさん、夕食の支度ができましたよ」
「ああ清美さん、ありがとう」
夕食の仕度が終わったようだ。
清美さんは機械の腕にオカズのもられたお皿を二つ持ち、そして力のあまり入らない生身の両手でもう一枚の皿を持ってやってきた。
貴子はお味噌汁の鍋を持って来て、卓の上に置くと何も言わずに席についた。
「貴子もありがとう。このソーセージは貴子が一人でやったのかい? よくできているね」
「お父上、ソーセージではなくウィンナーです」
「はは、そうか、それはついうっかりだったな、ははは」
「あらやだフジキさんったら、うふふ」
娘に元気がないせいか、食卓の空気が重い。
いや、娘のせいなどにしてはいけないな。
娘が気を重くしているのは、私達の気遣いが足りないせいでもあるのだから。
何か話して、貴子の気をほぐしてやらなければ。
「貴子や、頂きますの前に少しだけ話しをしようか」
「はいお父上、なんでしょう?」
私は世暇家の話をしようと思っていた。
私は大人達の間でしばしば繰り広げられる狂想劇について、貴子に何かを語る必要があったのだ。
しかし私は恐ろしかった。
今の貴子がこの世界の穢れた部分を知るに足る段階にあるかどうか、確信が持てなかったのだ。
「貴子は空売りという言葉を知っているかい?」
「……いいえ、知りません」
私は結局お茶を濁してしまった。
「ふむ、そうだろうね。普通に暮らしていて身に付く言葉ではないからね。そうだな、例えばこのウィンナーの値段が一個100ウェンだったとするね」
「はい、100ウェンだということにするのですね」
「うんうん、そして、このウィンナーの値段が90ウェンに下がることがわかっているとしたら、貴子はどうする?」
「はい、値段が下がらないうちに、誰かにあげるか、自分で食べるかしちゃいます」
「ははは、まあそうだね。それが普通だね。でも父さんはちょっと違うことをしてみる。貴子のウィンナーをちょっとだけ借りる。いいね、借りるだけだ。あとでちゃんと返す」
「はい、お父上にウィンナーをお貸しします」
私は新しい箸で貴子の皿の上のウィンナーを頂く。
「そして借りたウィンナーを父さんは100ウェンで清美さんに売る」
「フジキさん、私そんなに沢山たべませんよ」
「ははは、とりあえず買ったことにしてくれないかな。そしたらちょっと待つ。ウィンナーの値段が90ウェンに下がるまでね。下がったら90ウェンになったウィンナーをまたどこからか買ってくる。そして父さんは貴子にウィンナーを返す。さあビックリだ、父さんは10ウェン儲けてしまった。これが空売りの仕組だよ。自分のものじゃないものを売る、だから空売りと言うんだね」
「お父上、私なんだか損をした気分です」
「フジキさん、私なんか確実に損をしたわ」
「そうだね、父さんはちょっとずる賢かった、ははは。しかしまあ物に値段が付いていると、どうしてもこういうことが起きてしまうんだよ。不思議なものだ。けどね、このウィンナーにはきっと値段なんてつけられはしないさ。だって貴子が茹でたウィンナーなんだからね」
「まあ、上手くまとめちゃってフジキさん!」
清美さんには良く受けたみたいだ。
口元を抑えてクスクスと笑っている。
貴子もその顔に柔らかな笑みを浮かべてくれている。
どうやらわかってもらえたようだ、よかった。
「じゃあ食べようか、冷めないうちに。頂きます」
今日は久しぶりに餅ではなくて白いご飯だ。
貴子の茹でたウィンナーと一緒に食べる白いご飯は、とても美味しかった。
仕事も一段落ついたので、私はリビングへと向かった。
そっとキッチンを覗くと、貴子は清美さんと夕食の準備に取りかかっていた。
どうやら昼間買ってきたソーセージを茹でているらしい。
買い物から帰ってきた時、貴子は酷く沈んだ表情をしていた。
私が不審に思って声をかけると、あわてて笑顔を取り繕い「なんでもありません」とだけ言って、足早に部屋へと戻っていってしまったのだが……なんだったのだろう。
「お母上、カニさんの足が開いてまいりました」
「まあ本当、カニさんの甲羅の模様まで浮かび上がってきたわね」
私は貴子の様子に変わりがないことを確認してから、何も言わずに食卓についた。
お台所は女の戦場だ。
私の介入する余地は残されていない。
卓上には清美さんがいつも用意しておいてくれるホンコン酒が置いてある。
杯を返して酒を注ぎ、一口だけ飲んで息をつく。
「ねえ貴子、レタスを千切ってちょうだい」
「はい、お母上」
電子ビジョンのスイッチを入れ、ニュースを眺めながら貴子のことについて考える。
世暇家の大旦那が倒れられた報は、ご婦人方の噂話という超高速通信網によって、日が暮れるころにはホンカワ中の知るところとなった。
軽い脳卒中のようで、命に別状はないらしい。
噂話によれば、なんでも大旦那のことを一番に知らせたのが貴子だったのだという。
貴子のあの暗い表情はその時のショックによるものなのだろうか?
うむ……しかし、帰ってきた時の貴子の表情にはもっとこう、複雑な事情がこめられていた。
世暇家は財を成す家系の概ねがそうであるように、色々と問題を抱えている。
大旦那様の財産をめぐる確執があるのはまず間違いないことなのだ。
もしかすると貴子は、そのいざこざに巻き込まれてしまったのかもしれない。
特にあの若奥様は、時にその本性をむき出しにすることがあるからな。
貴子があまり見たくないものを見せられてしまった可能性は大いにある。
「フジキさん、夕食の支度ができましたよ」
「ああ清美さん、ありがとう」
夕食の仕度が終わったようだ。
清美さんは機械の腕にオカズのもられたお皿を二つ持ち、そして力のあまり入らない生身の両手でもう一枚の皿を持ってやってきた。
貴子はお味噌汁の鍋を持って来て、卓の上に置くと何も言わずに席についた。
「貴子もありがとう。このソーセージは貴子が一人でやったのかい? よくできているね」
「お父上、ソーセージではなくウィンナーです」
「はは、そうか、それはついうっかりだったな、ははは」
「あらやだフジキさんったら、うふふ」
娘に元気がないせいか、食卓の空気が重い。
いや、娘のせいなどにしてはいけないな。
娘が気を重くしているのは、私達の気遣いが足りないせいでもあるのだから。
何か話して、貴子の気をほぐしてやらなければ。
「貴子や、頂きますの前に少しだけ話しをしようか」
「はいお父上、なんでしょう?」
私は世暇家の話をしようと思っていた。
私は大人達の間でしばしば繰り広げられる狂想劇について、貴子に何かを語る必要があったのだ。
しかし私は恐ろしかった。
今の貴子がこの世界の穢れた部分を知るに足る段階にあるかどうか、確信が持てなかったのだ。
「貴子は空売りという言葉を知っているかい?」
「……いいえ、知りません」
私は結局お茶を濁してしまった。
「ふむ、そうだろうね。普通に暮らしていて身に付く言葉ではないからね。そうだな、例えばこのウィンナーの値段が一個100ウェンだったとするね」
「はい、100ウェンだということにするのですね」
「うんうん、そして、このウィンナーの値段が90ウェンに下がることがわかっているとしたら、貴子はどうする?」
「はい、値段が下がらないうちに、誰かにあげるか、自分で食べるかしちゃいます」
「ははは、まあそうだね。それが普通だね。でも父さんはちょっと違うことをしてみる。貴子のウィンナーをちょっとだけ借りる。いいね、借りるだけだ。あとでちゃんと返す」
「はい、お父上にウィンナーをお貸しします」
私は新しい箸で貴子の皿の上のウィンナーを頂く。
「そして借りたウィンナーを父さんは100ウェンで清美さんに売る」
「フジキさん、私そんなに沢山たべませんよ」
「ははは、とりあえず買ったことにしてくれないかな。そしたらちょっと待つ。ウィンナーの値段が90ウェンに下がるまでね。下がったら90ウェンになったウィンナーをまたどこからか買ってくる。そして父さんは貴子にウィンナーを返す。さあビックリだ、父さんは10ウェン儲けてしまった。これが空売りの仕組だよ。自分のものじゃないものを売る、だから空売りと言うんだね」
「お父上、私なんだか損をした気分です」
「フジキさん、私なんか確実に損をしたわ」
「そうだね、父さんはちょっとずる賢かった、ははは。しかしまあ物に値段が付いていると、どうしてもこういうことが起きてしまうんだよ。不思議なものだ。けどね、このウィンナーにはきっと値段なんてつけられはしないさ。だって貴子が茹でたウィンナーなんだからね」
「まあ、上手くまとめちゃってフジキさん!」
清美さんには良く受けたみたいだ。
口元を抑えてクスクスと笑っている。
貴子もその顔に柔らかな笑みを浮かべてくれている。
どうやらわかってもらえたようだ、よかった。
「じゃあ食べようか、冷めないうちに。頂きます」
今日は久しぶりに餅ではなくて白いご飯だ。
貴子の茹でたウィンナーと一緒に食べる白いご飯は、とても美味しかった。
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