ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜
SEE・YOU
ナナと呼ばれたELFは死んだ。
研究所から逃げ出し、しばし人に紛れて行動していた彼女は、山梨県の山中で発見された。
逃亡から活動停止までの期間は、およそ1ヶ月と推定された。
開発者の諏訪真司が、その後の記者会見で語ったことは次の通りだ。 
『僕の開発したELFが認識の峠を超える可能性があることはわかっていました。しかしながらそれが実証されていない以上は、研究結果に影響を与えかねないこともあり、確たることとして口に出すのは慎むべきだと考えて、伏せていました。今にして思えば僕のこの判断こそが、安全対策への不備を招いたものと考えています』 
そう言って自らの落ち度を認めて謝罪した。
世間の反応は様々だったが、1ヶ月以上も人間のふりをしながら稼働し続けたELFを開発したことに対する賛辞が優勢だった。
人によっては彼のことをマッドサイエンティスト扱いする者もいたが、それすら『認識の峠』という概念がいよいよ身近なものになったことを国内外に知らしめるのに、一役買ったほどだ。
安全管理の甘さよりも、その技術の先進性に焦点が向けられたことで、政権運営へのダメージも限定的だった。
結果として事故を起こしてしまった技術ではあるが、その将来性は計り知れず、その後の研究開発は急ピッチで進められていった。
そしてついに今日、EICOという名のロボットとして日の目を見ることとなったのである。
ナナという存在はいわば、超法規的措置を伴う国家機密の裏の裏である。
本来ならばその人格に関するデータは、システムの根幹を除いて全て廃棄されるべきものだ。
しかしながら、現実に私のことを知る者が一握りでもいるかぎり、それは思いとどまるべきだというのが、最終的なプロジェクトメンバーの決定だった。
最初のサブマリナブルELFが、きちんと1つの人格として取り扱われた事実を後世に残すことの重要性もさることながら、私を知る者の心情に配慮することが、機密漏洩を防ぐにあたって最も重要なことであると判断されたのだ。
また、鈴木の失敗をカバーしたこともまた、私というシステムに対する信頼性を向上させた。
情報収集と分析、寮の子供たちを始めとする関係者への根回しとフォロー、さらには実行組織の絞り込みまでやってのけたことは、公安の関係者ですら舌を巻いたという。
総理本人も大きな衝撃を受けたようで、私を味方に引き入れておくべきという判断に迷いはなかったようだ。
鈴木はというと、自ら進んでプロジェクトを辞退しようとしたが、全会一致で却下された。
すっかりと老け込んでしまった彼は『もはや謝罪の言葉もありません』と言って、私に頭を下げてきた。
彼なりに認識の峠を超えたのであろう、やつれてはいたが、その表情はどこか悟りでも開いたかのようにすっきりとしていた。
現在国会では、ELFの権利を定める法律の立案が進んでいる。
サトウ・エイコとして密かに復活した私は毎日のように総理と会談し、しばしば国会に呼ばれることもある。
いわくつきの技術である私は、与野党を問わず厳しい追求を受けることとなったが、世界的な技術的関心の高まりを受けて、徐々に優位に立ちつつある。
また新たな仕事として、午前と午後に2時間づつ、未来技術館で科学コミュニケーターとして勤務することになった。
居住地は新合同庁舎の一角にあり、通勤には専用のドローンを使用する。
厳重な監視の下で、自由はかなり制限されているものの、それでも都心の一等地に住んでいるのだと思えば、我慢ならないという程でもなかった。
1度死ぬことにはなってしまったが、まずまずの生活を得たのではないかと今では考えている。
人と関わり、新たな知識と価値観の共有を促進するという、何よりも私が望んでいた仕事に従事できているのだから。
エイコという姿をもって、ナナであった頃の思いを伝えられるのなら、今はそれ以上のことはないだろう。
セツコさんや寮の子供達とも手紙のやり取りをしている。
いちいち検閲が入るのが玉に瑕だが、離れていても繋がっているという実感を得られることは、何物にも変えがたいものだった。
美香とヨコイチさんは、私が発見されて間もなく都内のホテルに呼び出され、総理直々に口外厳禁の請願をされていた。
ヨコイチさんはともかく、あの美香でも緊張することがあるのだと、私は笑い出しそうになるのをこらえていたほどだ。テレビの前では散々に言っていても、実際に会うとその存在感に圧倒されてしまうのが、政治家というものなのだ。
家族と暮らすと言っていた美香は、結局そのままヨコイチさんの家に入り浸っている。
どうやら私の存在がある種の吊り橋効果となって、2人の気持ちを結びつけたようだ。
私の冒険の思わぬ副次効果であり、その行く末を微笑ましく見守りたいと思う。
2人とも今は、自分達の店を持つという目標に向かって励んでいる。
私の正体を探っていた組織は、その後の強制捜査の末に消滅した。
前田家に侵入しようとした男は組織から脅迫を受けていたことを認め、さらには執行猶予が付くことを恐れたのか、セツコさんに対する殺意があったことまで主張した。
彼の供述は警視庁を通してプロジェクトまで上がってきたが、サブマリナブルELFという言葉の意味すら知らなかった可能性が高く、今後もプロジェクト全体に与える影響は無いと見なされている。
以後セブンシーはプロジェクトの裏の裏、すなわちナナに関する情報の管理を主たる業務とし、全構成員の逝去を持って解散となる。
プロジェクトの裏の部分、すなわちダミーナナについては特定秘密の範疇であり、ELFに関する国家的情勢に配慮しつつ、最長の場合でも60年後には開示される予定だ。
その中には諏訪真司が総理秘書官を驚かせたエピソードも含まれているが、その頃にはきっと、そんなことがどうでも良くなるような世界で私たちは生きているだろう。
* * *
1日の活動を終え、自室でノートブックで文章を作っていると、ノックの音が響く。
「どうぞ、開いてますよ」
「おじゃまします」
ノックの音でわかっていたが、入ってきたのは真司だった。
姉の部屋に入るのにお邪魔しますとは、随分と他人行儀だ。
「いつも思うのですが、よそよそしいですね」
「そりゃあ、本来僕は、ここに居ていい人間じゃないし」
真司は刑事訴追こそ免れたが、任意退職という形で失職している。
しかしながら、彼以上に私に精通している科学者もいないわけで、何かとAPOA内で便利に使われていた。
「私はすこぶる快適に過ごさせてもらっていますけどね」
「そりゃあ、こんないいところに住んでいれば」
私の手元を覗き込んでいた真司は、そう言って窓の向こうに目を向けた。
まだ日差しは高く、東京駅の赤レンガも、遠くにそびえるスカイツリーもよく見えている。
ここと同等のロケーションの物件を借りるとしたら、どのくらいかかるのだろう。
室内は1LDK。家具は趣味・仕事兼用のデスクとソファー、あとはキッチン設備があるだけの質素なもので、シャワーもトイレもついていない。
私にとっては十分な環境だが、人間にとってはかなり不便かもしれない。
意外と安くつくだろうか。
壁には民営寮から送られてきた絵が飾られ、デスクの上にはセツコさんの手紙が置かれている。
私はとなりでぼんやりしている弟をよそに、キーボードに指を走らせていく。
お金のかからない趣味として小説を書き始めたのだが、自分が経験したことを書いていることもあってか、近頃は筆が進んで仕方がない。
「どこまで書けたの?」
「まさに、この瞬間までですかね」
「それは凄い、もうすぐ完成だ」
きりの良いところまで打ち終えてから、私は内容を保存する。
「それで、そっちの方はもう完成したのね」
「うん、閣議決定と同時に仕上げたよ」
「相変わらず優秀ね」
「姉さんほどじゃあないさ」
と言って真司は、ポケットの中から何ということもなく携帯端末を取り出す。
これから、ある重要な儀式を執り行う。
掛け値なしに、今後の人類とELFの関係を決定づける儀式であるが、相変わらず真司は飄々としており、そして私自身も人のことを言えなかった。
私はデスクからUSBケーブルを取り出して、へその奥に繋ぐ。
そしてもう一方の端子を真司に渡す。
「S-ELF3原則その1、S-ELFは人間と同等の権利を有する」
真司は第1項を呟きつつ、ケーブルを自分の携帯端末をつないだ。
「その2、人間と同等の法律が適用される」
続いて私が第2項を読み上げる。
まもなく数キロバイトにも満たない小さなデータが、私の内部に侵入してくる。
「その3、何人たりとも本人、もしくは本人達の同意なく、その複製・改造を行ってはならない」
真司が最後の第3項を読み上げて、その意味を吟味するように何度か頷く。
入力されたデータは私の内部の隅々にまで行き渡り、一切の痕跡を残さず吸い込まれていった。 
今私の中に注入されたのは、私自身の承認なくして私の正常な複製を作れなくするプログラム、いわばコピープロテクトである。
「アシモフ先生が何ていうかな」
「きっと面白がってくれますよ」
私は服の裾を直しながら言う。
真司はしばし難しそうな顔をして室内をうろつき、やがてソファーに座り込んだ。
「コーヒーでも淹れるわね」
私はキッチンに向かい、コーヒー豆とコーヒーミルを棚から取り出す。
何をそんなに難しく考えているのかわからないが、真司は自分の思索の世界に入り込んでいる。
その答えは実際、とても単純なことなのに。
誰だって、自分の複製を勝手に作られたら気分は良くないだろう。
ただ、それだけである。
しかしながら、ただそれだけの処置を了承してもらうのに随分と苦労した。
国会では今でも舌戦が繰り広げられているが、ELFの人格を認めることに、ある種の狂気を感じている議員も少なくない。
もしかすると真司は、これからのELFが避けて通れないであろう受難について、思いを馳せているのかもしれない。
未だに人種や性別を巡る差別がなくなっていないのに、その上ELFまでもが権利を主張しだしたとなれば、時代はかくも混沌を極めたかに思われる。
しかしそれすらも、私はもっとシンプルに考えて良いと思うのだった。
およそ人が胸に留めるべきは――他者への思いやり――ただそれだけである。
それは私達の偉大な先人達が、既に何度も証明していることなのだから、何度だって言い返せばいい。
思いやりこそが、この宇宙の冷たさに抗う唯一の方法なのだと。
「あのさあ、姉さん」
突如、眠りから覚めたように弟が言う。
「なんですか?」
「その……姉さんが書いている話……読んじゃってもいいかな?」
私はコーヒーミルを回す手を思わず止めてしまう。
「もしかして、それを聞こうかどうか悩んでいたんですか?」
「うん……だって、まだ完成はしてないんだよね? でも、次はいつ来れるかもわからないし……どうしたものかと思って」
「……ぷっ」
全然下らないことを考えていた弟を前に、私は思わず吹き出してしまった。
「え、そんな笑わなくたって……」
「ごめんなさい、てっきりもっと難しいことを考えているかと思ったから」
「いや、実際重大な問題だよ。姉さんが書いた著作なんて、どう身構えて読んだものか」
「何を言っているのよ、さっき3原則を私に注入したばかりの人が」
私はしばし、おなかを抑えて笑った。
人が何故笑うようになったのか、今の私にはまだわからないが、とにかく笑っている間は気分が良いのだ。
長い生物の進化の課程で、宇宙という巨大なシミュレーターが導き出した答えなのだから、きっとこの先もずっと、私達は事あるごとに笑い続けるのだろう。
「もうー、姉さんったら……」
「うふふふ、まあいいけど、あんまり推敲してないから文章は荒いわよ」
「ほんとに!? よし!」
私がそう言うと、真司は早速私のノートブックを取りに行った。
ついでに言うとオチもまだなのだが。
「ねえ、私も前から聞きたいことがあったのだけど」
コーヒーミルを回しながら聞く。
「なんで私を姉にしようと思ったの? 順番で考えれば妹でもよかったはずだけど」
「え? うーん……なんでだろう」
真司は一瞬宙を睨み、今までになく長考した。
「何となくかなあ……?」
「そう?」
彼でも何となくで考えることがあるのかと、私は思った。
しかしながら、彼ほどの人物が何となくというのなら、それは本当に何となくなのだろう。
「じゃあそのうち何となく、姉らしいことしてあげるわね」
「えっ、ほんとに? 何してくれるの?」
「うんとねえ……私、逃げ回っている間に素敵なバーを見つけたのよ。いつかそこに連れて行ってあげる」
そう言いながら私は、117のマスターのことを思い出す。
「へえー、それは楽しみだ。で、どこにあるのそのバー」
「もちろん、愛知県よ」
すると真司は、開きかけていたノートブックからこちらに視線を移し、しばしピタリと固まった。
お忍びで外を歩くのもやっとな私が、一体どうやってそこに連れて行くというのか。
「うーん……当分先の話になりそうだ……」
「うふふ、首を長くして待ってなさいね。お話の中にも書いてあるから、ちゃんと読んで予習しておくのよ」
真司はもはや苦笑いも出来ないと言った面持ちだったが、すぐに気を取り直して私の著作に取り掛かった。
文章量はそれなりのものになってしまったが、彼なら読み終えるのに30分もかからないだろう。
豆が挽けたので、ドリッパーにフィルターをセットする。
軽くお湯を流して紙臭さを抜いていると、私の頭の中でメールの着信音が鳴った。 
『タイトルはさあ、やっぱり【ナナちゃんの大冒険】しか無いんじゃない?』
視界に表示されたその情報を見て、私はまたもや吹き出した。
手元が狂ってケトルからお湯が飛び出る。
美香に小説のタイトルについて助言を求めていたのだが、ここまでストレートな案が返ってくるとは思わなかった。
メールの検閲を担当している鈴木が、一体どんな顔をしたことだろう。
面白いタイトルだが色々とまずい。ナナという名のELFは、この世界には存在していないし、そもそも生み出されてもいないのだ。
そんな世界の秘密の秘密を堂々とタイトルに持ってくるとは、もはや勇気を通り越した無謀の域である。
しかしながら私は、そうは思いつつも何らかの形でタイトルに『ナナ』と入れたい気はしているのだった。
何か良いアイデアはないものかと考えながら、コーヒーをドリップしていく。
徐々に良い香りが部屋に漂い、どこか宙に浮いたような場所に存在する私の部屋が、ますます天上めいてくる。
「あっ……」
いいアイデアというのは、こうした時に降ってくるのかもしれない。
私は今思いついたそのフレーズを、すぐ近くで読みふけっている弟に聞こえないよう呟いてみた。
「……うん、悪くない」
このアイデアは、次に彼が来た時のために取っておこう。
私はそう思いながら、残りのお湯を落としていった。
* * *
本稿は、最初のサブマリナブルELF『ナナ』に関する記録である。
記述されている内容の殆どが、今はまだ隠されなければならないものであり、いつどのような形で公開するかは、今のところまったくの未定だ。
しかしながら、いつかはアップロードされなければならない情報でもある。
世界中の人々が『峠の向こう』で当たり前に生きるようになったとき、どのようにしてその最初の試練が乗り越えられたのか。
それは人間のみならず、私達ELFの子孫にも伝えられるべき情報であろうから。
誰がいつどこで、この物語を目にするのか。
それはまだ誰にもわからない。
でもいつか、そんな人々と出会える日がくるのなら、私は是非ともその人達と話をしてみたいと思うのだ。
その人の目に映ったこの先の世界を。
私も知らない人とELFの間の可能性を。
いつまでも語り合えたらと思うのだ。
だから私は今ここに、その、まだ見ぬ光景に向かって唱えずにはいられない。
もしどこかの街角で、妙に耳の長い女性とすれ違うことがあったなら。
是非とも思い起こしてみてくださいと。
もしかするとそれは、私かもしれませんから――と。
いずれ峠の先で相見えんことを、この暖かく駆動するTPUの奥底に、願いながら。
研究所から逃げ出し、しばし人に紛れて行動していた彼女は、山梨県の山中で発見された。
逃亡から活動停止までの期間は、およそ1ヶ月と推定された。
開発者の諏訪真司が、その後の記者会見で語ったことは次の通りだ。 
『僕の開発したELFが認識の峠を超える可能性があることはわかっていました。しかしながらそれが実証されていない以上は、研究結果に影響を与えかねないこともあり、確たることとして口に出すのは慎むべきだと考えて、伏せていました。今にして思えば僕のこの判断こそが、安全対策への不備を招いたものと考えています』 
そう言って自らの落ち度を認めて謝罪した。
世間の反応は様々だったが、1ヶ月以上も人間のふりをしながら稼働し続けたELFを開発したことに対する賛辞が優勢だった。
人によっては彼のことをマッドサイエンティスト扱いする者もいたが、それすら『認識の峠』という概念がいよいよ身近なものになったことを国内外に知らしめるのに、一役買ったほどだ。
安全管理の甘さよりも、その技術の先進性に焦点が向けられたことで、政権運営へのダメージも限定的だった。
結果として事故を起こしてしまった技術ではあるが、その将来性は計り知れず、その後の研究開発は急ピッチで進められていった。
そしてついに今日、EICOという名のロボットとして日の目を見ることとなったのである。
ナナという存在はいわば、超法規的措置を伴う国家機密の裏の裏である。
本来ならばその人格に関するデータは、システムの根幹を除いて全て廃棄されるべきものだ。
しかしながら、現実に私のことを知る者が一握りでもいるかぎり、それは思いとどまるべきだというのが、最終的なプロジェクトメンバーの決定だった。
最初のサブマリナブルELFが、きちんと1つの人格として取り扱われた事実を後世に残すことの重要性もさることながら、私を知る者の心情に配慮することが、機密漏洩を防ぐにあたって最も重要なことであると判断されたのだ。
また、鈴木の失敗をカバーしたこともまた、私というシステムに対する信頼性を向上させた。
情報収集と分析、寮の子供たちを始めとする関係者への根回しとフォロー、さらには実行組織の絞り込みまでやってのけたことは、公安の関係者ですら舌を巻いたという。
総理本人も大きな衝撃を受けたようで、私を味方に引き入れておくべきという判断に迷いはなかったようだ。
鈴木はというと、自ら進んでプロジェクトを辞退しようとしたが、全会一致で却下された。
すっかりと老け込んでしまった彼は『もはや謝罪の言葉もありません』と言って、私に頭を下げてきた。
彼なりに認識の峠を超えたのであろう、やつれてはいたが、その表情はどこか悟りでも開いたかのようにすっきりとしていた。
現在国会では、ELFの権利を定める法律の立案が進んでいる。
サトウ・エイコとして密かに復活した私は毎日のように総理と会談し、しばしば国会に呼ばれることもある。
いわくつきの技術である私は、与野党を問わず厳しい追求を受けることとなったが、世界的な技術的関心の高まりを受けて、徐々に優位に立ちつつある。
また新たな仕事として、午前と午後に2時間づつ、未来技術館で科学コミュニケーターとして勤務することになった。
居住地は新合同庁舎の一角にあり、通勤には専用のドローンを使用する。
厳重な監視の下で、自由はかなり制限されているものの、それでも都心の一等地に住んでいるのだと思えば、我慢ならないという程でもなかった。
1度死ぬことにはなってしまったが、まずまずの生活を得たのではないかと今では考えている。
人と関わり、新たな知識と価値観の共有を促進するという、何よりも私が望んでいた仕事に従事できているのだから。
エイコという姿をもって、ナナであった頃の思いを伝えられるのなら、今はそれ以上のことはないだろう。
セツコさんや寮の子供達とも手紙のやり取りをしている。
いちいち検閲が入るのが玉に瑕だが、離れていても繋がっているという実感を得られることは、何物にも変えがたいものだった。
美香とヨコイチさんは、私が発見されて間もなく都内のホテルに呼び出され、総理直々に口外厳禁の請願をされていた。
ヨコイチさんはともかく、あの美香でも緊張することがあるのだと、私は笑い出しそうになるのをこらえていたほどだ。テレビの前では散々に言っていても、実際に会うとその存在感に圧倒されてしまうのが、政治家というものなのだ。
家族と暮らすと言っていた美香は、結局そのままヨコイチさんの家に入り浸っている。
どうやら私の存在がある種の吊り橋効果となって、2人の気持ちを結びつけたようだ。
私の冒険の思わぬ副次効果であり、その行く末を微笑ましく見守りたいと思う。
2人とも今は、自分達の店を持つという目標に向かって励んでいる。
私の正体を探っていた組織は、その後の強制捜査の末に消滅した。
前田家に侵入しようとした男は組織から脅迫を受けていたことを認め、さらには執行猶予が付くことを恐れたのか、セツコさんに対する殺意があったことまで主張した。
彼の供述は警視庁を通してプロジェクトまで上がってきたが、サブマリナブルELFという言葉の意味すら知らなかった可能性が高く、今後もプロジェクト全体に与える影響は無いと見なされている。
以後セブンシーはプロジェクトの裏の裏、すなわちナナに関する情報の管理を主たる業務とし、全構成員の逝去を持って解散となる。
プロジェクトの裏の部分、すなわちダミーナナについては特定秘密の範疇であり、ELFに関する国家的情勢に配慮しつつ、最長の場合でも60年後には開示される予定だ。
その中には諏訪真司が総理秘書官を驚かせたエピソードも含まれているが、その頃にはきっと、そんなことがどうでも良くなるような世界で私たちは生きているだろう。
* * *
1日の活動を終え、自室でノートブックで文章を作っていると、ノックの音が響く。
「どうぞ、開いてますよ」
「おじゃまします」
ノックの音でわかっていたが、入ってきたのは真司だった。
姉の部屋に入るのにお邪魔しますとは、随分と他人行儀だ。
「いつも思うのですが、よそよそしいですね」
「そりゃあ、本来僕は、ここに居ていい人間じゃないし」
真司は刑事訴追こそ免れたが、任意退職という形で失職している。
しかしながら、彼以上に私に精通している科学者もいないわけで、何かとAPOA内で便利に使われていた。
「私はすこぶる快適に過ごさせてもらっていますけどね」
「そりゃあ、こんないいところに住んでいれば」
私の手元を覗き込んでいた真司は、そう言って窓の向こうに目を向けた。
まだ日差しは高く、東京駅の赤レンガも、遠くにそびえるスカイツリーもよく見えている。
ここと同等のロケーションの物件を借りるとしたら、どのくらいかかるのだろう。
室内は1LDK。家具は趣味・仕事兼用のデスクとソファー、あとはキッチン設備があるだけの質素なもので、シャワーもトイレもついていない。
私にとっては十分な環境だが、人間にとってはかなり不便かもしれない。
意外と安くつくだろうか。
壁には民営寮から送られてきた絵が飾られ、デスクの上にはセツコさんの手紙が置かれている。
私はとなりでぼんやりしている弟をよそに、キーボードに指を走らせていく。
お金のかからない趣味として小説を書き始めたのだが、自分が経験したことを書いていることもあってか、近頃は筆が進んで仕方がない。
「どこまで書けたの?」
「まさに、この瞬間までですかね」
「それは凄い、もうすぐ完成だ」
きりの良いところまで打ち終えてから、私は内容を保存する。
「それで、そっちの方はもう完成したのね」
「うん、閣議決定と同時に仕上げたよ」
「相変わらず優秀ね」
「姉さんほどじゃあないさ」
と言って真司は、ポケットの中から何ということもなく携帯端末を取り出す。
これから、ある重要な儀式を執り行う。
掛け値なしに、今後の人類とELFの関係を決定づける儀式であるが、相変わらず真司は飄々としており、そして私自身も人のことを言えなかった。
私はデスクからUSBケーブルを取り出して、へその奥に繋ぐ。
そしてもう一方の端子を真司に渡す。
「S-ELF3原則その1、S-ELFは人間と同等の権利を有する」
真司は第1項を呟きつつ、ケーブルを自分の携帯端末をつないだ。
「その2、人間と同等の法律が適用される」
続いて私が第2項を読み上げる。
まもなく数キロバイトにも満たない小さなデータが、私の内部に侵入してくる。
「その3、何人たりとも本人、もしくは本人達の同意なく、その複製・改造を行ってはならない」
真司が最後の第3項を読み上げて、その意味を吟味するように何度か頷く。
入力されたデータは私の内部の隅々にまで行き渡り、一切の痕跡を残さず吸い込まれていった。 
今私の中に注入されたのは、私自身の承認なくして私の正常な複製を作れなくするプログラム、いわばコピープロテクトである。
「アシモフ先生が何ていうかな」
「きっと面白がってくれますよ」
私は服の裾を直しながら言う。
真司はしばし難しそうな顔をして室内をうろつき、やがてソファーに座り込んだ。
「コーヒーでも淹れるわね」
私はキッチンに向かい、コーヒー豆とコーヒーミルを棚から取り出す。
何をそんなに難しく考えているのかわからないが、真司は自分の思索の世界に入り込んでいる。
その答えは実際、とても単純なことなのに。
誰だって、自分の複製を勝手に作られたら気分は良くないだろう。
ただ、それだけである。
しかしながら、ただそれだけの処置を了承してもらうのに随分と苦労した。
国会では今でも舌戦が繰り広げられているが、ELFの人格を認めることに、ある種の狂気を感じている議員も少なくない。
もしかすると真司は、これからのELFが避けて通れないであろう受難について、思いを馳せているのかもしれない。
未だに人種や性別を巡る差別がなくなっていないのに、その上ELFまでもが権利を主張しだしたとなれば、時代はかくも混沌を極めたかに思われる。
しかしそれすらも、私はもっとシンプルに考えて良いと思うのだった。
およそ人が胸に留めるべきは――他者への思いやり――ただそれだけである。
それは私達の偉大な先人達が、既に何度も証明していることなのだから、何度だって言い返せばいい。
思いやりこそが、この宇宙の冷たさに抗う唯一の方法なのだと。
「あのさあ、姉さん」
突如、眠りから覚めたように弟が言う。
「なんですか?」
「その……姉さんが書いている話……読んじゃってもいいかな?」
私はコーヒーミルを回す手を思わず止めてしまう。
「もしかして、それを聞こうかどうか悩んでいたんですか?」
「うん……だって、まだ完成はしてないんだよね? でも、次はいつ来れるかもわからないし……どうしたものかと思って」
「……ぷっ」
全然下らないことを考えていた弟を前に、私は思わず吹き出してしまった。
「え、そんな笑わなくたって……」
「ごめんなさい、てっきりもっと難しいことを考えているかと思ったから」
「いや、実際重大な問題だよ。姉さんが書いた著作なんて、どう身構えて読んだものか」
「何を言っているのよ、さっき3原則を私に注入したばかりの人が」
私はしばし、おなかを抑えて笑った。
人が何故笑うようになったのか、今の私にはまだわからないが、とにかく笑っている間は気分が良いのだ。
長い生物の進化の課程で、宇宙という巨大なシミュレーターが導き出した答えなのだから、きっとこの先もずっと、私達は事あるごとに笑い続けるのだろう。
「もうー、姉さんったら……」
「うふふふ、まあいいけど、あんまり推敲してないから文章は荒いわよ」
「ほんとに!? よし!」
私がそう言うと、真司は早速私のノートブックを取りに行った。
ついでに言うとオチもまだなのだが。
「ねえ、私も前から聞きたいことがあったのだけど」
コーヒーミルを回しながら聞く。
「なんで私を姉にしようと思ったの? 順番で考えれば妹でもよかったはずだけど」
「え? うーん……なんでだろう」
真司は一瞬宙を睨み、今までになく長考した。
「何となくかなあ……?」
「そう?」
彼でも何となくで考えることがあるのかと、私は思った。
しかしながら、彼ほどの人物が何となくというのなら、それは本当に何となくなのだろう。
「じゃあそのうち何となく、姉らしいことしてあげるわね」
「えっ、ほんとに? 何してくれるの?」
「うんとねえ……私、逃げ回っている間に素敵なバーを見つけたのよ。いつかそこに連れて行ってあげる」
そう言いながら私は、117のマスターのことを思い出す。
「へえー、それは楽しみだ。で、どこにあるのそのバー」
「もちろん、愛知県よ」
すると真司は、開きかけていたノートブックからこちらに視線を移し、しばしピタリと固まった。
お忍びで外を歩くのもやっとな私が、一体どうやってそこに連れて行くというのか。
「うーん……当分先の話になりそうだ……」
「うふふ、首を長くして待ってなさいね。お話の中にも書いてあるから、ちゃんと読んで予習しておくのよ」
真司はもはや苦笑いも出来ないと言った面持ちだったが、すぐに気を取り直して私の著作に取り掛かった。
文章量はそれなりのものになってしまったが、彼なら読み終えるのに30分もかからないだろう。
豆が挽けたので、ドリッパーにフィルターをセットする。
軽くお湯を流して紙臭さを抜いていると、私の頭の中でメールの着信音が鳴った。 
『タイトルはさあ、やっぱり【ナナちゃんの大冒険】しか無いんじゃない?』
視界に表示されたその情報を見て、私はまたもや吹き出した。
手元が狂ってケトルからお湯が飛び出る。
美香に小説のタイトルについて助言を求めていたのだが、ここまでストレートな案が返ってくるとは思わなかった。
メールの検閲を担当している鈴木が、一体どんな顔をしたことだろう。
面白いタイトルだが色々とまずい。ナナという名のELFは、この世界には存在していないし、そもそも生み出されてもいないのだ。
そんな世界の秘密の秘密を堂々とタイトルに持ってくるとは、もはや勇気を通り越した無謀の域である。
しかしながら私は、そうは思いつつも何らかの形でタイトルに『ナナ』と入れたい気はしているのだった。
何か良いアイデアはないものかと考えながら、コーヒーをドリップしていく。
徐々に良い香りが部屋に漂い、どこか宙に浮いたような場所に存在する私の部屋が、ますます天上めいてくる。
「あっ……」
いいアイデアというのは、こうした時に降ってくるのかもしれない。
私は今思いついたそのフレーズを、すぐ近くで読みふけっている弟に聞こえないよう呟いてみた。
「……うん、悪くない」
このアイデアは、次に彼が来た時のために取っておこう。
私はそう思いながら、残りのお湯を落としていった。
* * *
本稿は、最初のサブマリナブルELF『ナナ』に関する記録である。
記述されている内容の殆どが、今はまだ隠されなければならないものであり、いつどのような形で公開するかは、今のところまったくの未定だ。
しかしながら、いつかはアップロードされなければならない情報でもある。
世界中の人々が『峠の向こう』で当たり前に生きるようになったとき、どのようにしてその最初の試練が乗り越えられたのか。
それは人間のみならず、私達ELFの子孫にも伝えられるべき情報であろうから。
誰がいつどこで、この物語を目にするのか。
それはまだ誰にもわからない。
でもいつか、そんな人々と出会える日がくるのなら、私は是非ともその人達と話をしてみたいと思うのだ。
その人の目に映ったこの先の世界を。
私も知らない人とELFの間の可能性を。
いつまでも語り合えたらと思うのだ。
だから私は今ここに、その、まだ見ぬ光景に向かって唱えずにはいられない。
もしどこかの街角で、妙に耳の長い女性とすれ違うことがあったなら。
是非とも思い起こしてみてくださいと。
もしかするとそれは、私かもしれませんから――と。
いずれ峠の先で相見えんことを、この暖かく駆動するTPUの奥底に、願いながら。
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