ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜

ナガハシ

優しさは忘れない 11

「……っ!」


 舌を噛んで悲鳴を殺す。
 そして素早く足を踏み出して、転倒だけは免れる。


 速やかに後ろを振り向くと、男が刃渡り15センチほどの包丁を持って、再度私に突っ込んでくる所だった。
 その背には、何か重たいものが入ったバッグが担がれている。


 今日中に終わらせろ――そんな指示の存在を、私は男の背中に見て取った。


 偶然を装いつつマイバックを盾にする。
 強い衝撃が前から加えられ、今度は完全に後ろに倒される。


「しまっ……!」


 だが、男はうめき声を上げた。
 マイバックごと私の腹部を突き貫こうとしたことで、刃が雑誌に刺さり込んでしまったのだ。


 バックをひねりつつ全力で後ろに飛び跳ねると、雑誌に刺さったままの包丁が男の手から抜けた。
 私は一目散にその場から逃げ出した。


「まて!」


 男が追ってくるが、ELFの全力疾走に追いつける人間はそういない。
 途中で藪の中にバックを投げ捨ててさらに加速する。


 住宅地に入り、路地をジグザグに駆け抜け、完全に男を巻いたところでポケットからドローンを取り出して空に上げる
 そしてカメラ映像を、視界にオーバーラップ表示させた。


「……く、くそっ!」


 夕闇の向こうから焦りの声が聞こえてくる。
 男の動きを上空から監視しつつ、常に死角がとれるように街路を移動する。


 衝撃を受けた箇所に手を当てると、スーツの一部が裂けていた。
 どうやら、背骨の横の辺りをやられたようだ。


 指を入れて確かめると、完全に内部機構まで貫通していた。
 液漏れなどが発生していないことから、バッテリーや発電装置は無事のようだ。


 しかしながら呼吸にあわせて空気が出入りしている。
 あと僅かでもズレていたら演算装置の損壊に至っていただろう。


 3機のドローンをローテーションさせつつ回避行動を続けるが男はなかなか諦めない。
 その様子からは強い焦燥が見て取れる。
 このままでは私に記録された情報が証拠となり確実に逮捕されることがわかっているからだ。


 不退転の決意で望んできたことは間違いない。
 盾を用意するという判断をしていなかったらと思うと背筋が凍った。


 10分ほどが経過した後、男は私が家に戻ったと判断したのか前田家へと足を向けた。
 私は即座にセツコに連絡を入れた。


『どうしたの、ナナさん』


 携帯で連絡を入れるのは緊急時に限られている。
 電話に出た瞬間から、彼女の口調には緊張感が込められていた。


「帰り道で不審者に襲われました」
『ああ……』
「男がそちらに向かっています。すぐに施錠を確認して、警察に連絡をしてください」
『あなたは大丈夫なの?』
「はい、平気です」
『……わかったわ』


 手短な通話を終えて監視に集中する。
 まもなく男は前田家の玄関に辿り着くが、何かためらいがあるようで、しばらく近辺をウロウロしていた。
 家の明かりは点いているが、窓にはカーテンがひかれている。


 男はしばしその奥に目を凝らして、内部の動きを把握しようとしていた。
 時折腕を組んで考え込み、苛立ちを露わにして髪をかきむしる。


 家の中が明るいということは、家人が在宅である上に、すでに警察にも通報が行っていることを意味している。
 ここでさらに踏み込むことは相当なリスクだが、それでもすぐに立ち去らないということは、何の成果もなくこの場を後にするという選択肢が、そもそも男にはないのだろう。


 ここで前田家への侵入を強行するようなら、いよいよHDIにアクセスする必要性が出てくる。
 実力をもって男を無力化し、その後の処理をプロジェクトメンバーに要請しなければならない。


 そこで私は、現状において可能な限りの男の素性分析を試みることにした。


 彼が単独で私の正体に疑いを持った可能性は低く、情報収集力のある組織の指示で行動していることは間違いない。
 今のところ器物損壊を超える罪は犯しておらず、よほどの前科でもない限りは執行猶予が付く。
 深追いを躊躇っていることから察するに、今のところ大きな刑罰を受けたことのない、そして裏の世界にどっぷりと身を置くほどの覚悟もない、一般人に近しい人物であるはずだ。


 顔の形状を多角的に撮影して、いつでもHDI分析にかけられるようにしておく。
 さらに身につけている衣服を撮影し、プリペイド携帯経由でWEBに接続し、画像検索でメーカーを特定する。


 男が身につけている服の殆どは、大手作業服店でよく売られているものだった。
 男は以前、朝の体操が終わる時間を見計らうようにして姿を消した。
 そこから私は、彼がどこか別の民営寮の住民なのではないかと考えた。


 近辺にある民営寮の中から、近くに作業服専門店がある寮をピックアップすると、1件に絞り込むことが出来た。
 その民営寮の住民名簿――顔写真付き――は公安の権限を使えば調べられるはずだ。


 続いて、男の背後にある組織について分析する。
 近年では法整備の強化によって、広域組織の縮小と分裂が続いている。


 弱体化した国内勢力に代わって、海外勢力が活動範囲を広げているが、男の性格が実際はかなり臆病であることから、より危険度の高い海外勢力に関わっているとは考えづらい。
 極貧困層との関わりが深く、市内の飲食店を中心に手を広げている国内系組織となればある程度は絞りこめてくる。
 男の口を割ることができれば、そこから強制捜査につなげることも出来るだろうが、逆にこのまま逃してしまえば、それは難しいものとなる。


 ここで私は、セツコの身を案じる一方で、男が今一歩踏み込んでくれることを願わずにはいられないという相反を抱えることになった。


 どうすれば――。


 私はしばし思案した後、セツコの携帯にワンコールした。







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