ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜
優しさは忘れない 8
私を付け回している不審者が、強硬な手に出てくるのは今この時かもしれない。
そう思いながら私は、普段通り朝の5時半に家を出た。
何時になく冷え込んだ朝だった。
いつ襲われるともしれない緊張感も相まって、冷えた空気の硬さが、ビリビリと皮膚に切り込んでくるかのようだった。
幸い民営寮に付くまでの間に、男の姿を見ることはなかった。
昨日の調査結果を所属組織に報告してその指示を待っている段階なのかもしれないが、ご主人に声をかけてきた事実もあることから、私達がそれに対応する前に仕掛けてくる公算が高い。
今日中に全ての準備を終了させて、いつでもHDIに接続できる状態にしておく必要があるだろう。 
私1人が密かな緊張感を抱いたまま、朝の体操の時間が始まった。
良介くんの姿はいつも通りなかったが、1級障害を持つ彼はHI受給要件が免除されている。
一日あたり500円の収入は親権者に渡されているが、良介くんの両親が朝の体操にあらわれることは滅多にない。
「ありがとーねーちゃん、またあとでねー!」
スタンプ認証をすると、健太くんはいつも通り元気にそう言って走っていった。
彼はしっかりと、自分の500円を親からもらっている。
その後、見回りをしつつ寮内LANに接続して情報を集めた。
新聞と週刊誌のWEB版を漁ると、民営寮に関する記事数がある時点を境に増加していることがわかった。
入寮者の犯罪と、BI収入のためだけに子供を産む親、記事は概ねその2つに分類されどれも世間の反感を誘うような論調で書かれていた。
その中でも、ある週刊誌の記事に私は注目した。
低所得者が、犯罪やテロ行為に走る可能性が高いという有識者の意見を受けた国が、リスク回避を測るために利用したのが民営寮である――そんな説が、政府関連筋の情報として掲載されていたのだ。
恐らくは鈴木が民営寮に対するマスコミの関心をかきたてるために、意図的に流したのだろう。
民営寮が言われているほど危険な場所でないことは働いていればわかるし、多くの識者・政治家も知っていることだろう。
しかしながら、一部の偏った意見だけを集めて国政上の決定を下すというのは、残念ながら良くあることだった。
国の中枢は権力と人の欲望が集まる場所であり、今でも少なからぬ人が私欲のために活動してしまっている。
私は鈴木の立場について殆ど考慮していなかったことを悔いた。
彼の性格を考えれば、己の名誉を回復するために躍起になるであろうことは、十分予測できたはずなのに。
今となってはもう遅いかもしれないが、私は彼のためにも頑張ろうと思った。
ある意味では私の犠牲者である彼の、せめて首の皮だけでも繋がなければ。
陽が高くなり、気温が上がってくると、スケッチブックを抱えた良介くんが外に出て来る。
今日は野菜畑のスケッチをするようだ。
私が身代わりのELFと入れ替わった時に、いつもの私と違うことに気づいて、彼が騒ぎ出すこと。
その一番の懸念材料を摘まなければならない。
もし良介くんが動揺しているという情報が外部に漏れれば、私の正体に疑いを持っている第三者は、確実に実力行使に出てくるだろう。
前田家を狙うか寮を狙うかはわからないが、多方面への被害を出した上で、私に関する真実が、悪意ある者の手によって暴かれてしまう。
故に、良介くんに理解してもらえるかどうかで、今後取るべき行動が大きく変わってくるのだった。
良介くんの理解を得られるようなら、しばらく私のことを黙っていてもらって、その間に私を嗅ぎ回っている組織の特定ができる。
もし理解してもらえないようなら、直ちにHDIに接続し、調べられる限りのことを調べてから、プロジェクトに救援を求めるしかなくなるが、その場合、組織の特定が十分にできない恐れがあり、寮の人々と前田夫妻の身の安全を確保できなくなってしまう。
公安が噛んでいるとはいえ、プロジェクトだけで出来ることには限りがある。
私自身の手で十分な情報を入手しておくことが、何よりも望ましい。
ここが運命の分かれ目だ。
私はそう自分に言い聞かせると、普段通りを装って良介くんに話しかけた。
「こんにちは、良介くん」
「う、あ……」
私が挨拶をすると、良介くんは戸惑いの声を上げた。
いつもの満面の笑みではない理由を考えつつ、私は慎重に言葉を続ける。
「今日は、お野菜の絵を、書いているのですね」
「う、うんっ……」
良介くんの表情が少し明るくなる。
それは安心したというより、何かに気づいたような変化だった。
「うん、やさい、やさい」
「これはアスパラ、ですね」
「アスパラ、アスパラ、うん……うん」
話しかける毎に良介くんの緊張がほぐれていくようだったので、私はさらに続ける。
「こちらは長ねぎ、まだ、小さいですね」
「うふ、ちっちゃい、ちっちゃいー」
普段なら話をしながらも色鉛筆を止めない良介くんだが、今は私の目を見ることに集中している。
いつもとは違う何かがあると感じているのだろうか。
「他の絵も、見せてもらっても、良いですか?」
「うん……」
すると良介くんは、スケッチブックをパラパラとめくって、他のページに描かれている絵を見せてくれた。
そしてその中に、私は描かれた覚えのない私自身の絵を見つけた。
「これは、私ですか」
「うー! ううう!」
しかし良介くんは必死になって否定してきた。
そのページに描かれているのは、正門の近くをホウキを使って掃除している私の絵なのだが。
「私では、ないのですか?」
「うん、うんー!」
となるとそれは、入れ替わる前の私を書いた絵としか考えられない。
「あっ……」
私は自分の内部に、光に似た何かが広がっていくのを感じた。
よく見るとそのELFはどことなく無機質な表情をしており、非生物的な印象が強かった。
彼はずっと以前から、身代わりのELFと私をきちんと区別していたのだ。
「すごい……知ってたんだ」
驚きのあまり、私はELFのふりをすることを忘れた。
その驚きは私の中で安堵に変わり、その結果、表情も緊張がとけたものになっただろう。
そんな私を見た良介くんが、突如、全身を震わせながら立ち上がった。
「ってた! ってた! わー!」
「すごい……すごいね! 知ってたんだね!」
「しってたー!」
私も一緒になって立ち上がった。
良介くんは大事なスケッチブックを放り出してまで、私の両手を握ってきた。
「エルフー、にんげ! にんげー!」
「そうだよ、人間だったんだよ! すごいね!」
「すごーい! キャフフフフ!」
それから私たちは、しばし手を繋いだまま、野菜畑の前で飛び跳ねた。
もはやELFのふりをする必要はまったくなかった。
良介くんは、最初から私のことを理解していたのだ。
その夢のような事実に、私はいまだかつてないほどの感動を覚える。
「良介くんありがとう……本当にありがとう!」
「うふふー!」
私はその場に膝をつき、良介くんの丸い身体を抱きしめた。
「実はね、私は少しの間、ただのエルフに戻ってしまうの」
「ううっ?」
身体を話してそう言うと、良介くんは目を白黒させた。
言われた事の内容はうまく掴めていないようだが、何か良からぬことを言われたと感じ取ったのだろう。
「明日からは、エルフの私が来るからね。驚かないでね」
「おどろくー?」
「ちょっとね、用事ができちゃったの」
「ようじ……」
辞書的な意味としては恐らく伝わっていないだろう。
私は彼の心理状態に焦点を置いてその動きに目を光らせる。
「わかる? ようじ、よ・う・じ」
「わかる! ようじ! わかるー!」
「ほんとうに?」
「ようじー!」
私は再び、自然と笑みがこぼれてしまった。
良介くんの頭を思わず撫でてしまう。
用事という概念を伝えられた、ただそれだけのことで、全てが完璧に解決した。
「ねえねえ良介くん」
後は普通に、彼と交流すれば良い。
「しばらく会えなくなるから、今のうちに私の絵を描いてくれる?」
地面の上に置いてあったスケッチブックを、手で土を払ってから良介くんに渡す。
「うん! かく! かく!」
「このあたりで良い?」
「うん! うんー!」
私が野菜畑の前に移動して腰を下ろすと、良介くんは鉛筆を目の前に立てて距離を測った。
そして一心不乱に書き始めた。
私は救われた思いだった。
多くの人が私を助けてくれたけど、今ほど救われたと思ったことはない。
時折風が吹いて、目から保護液が零れそうになる。
それでも私は笑顔を浮かべ続けた。
そう思いながら私は、普段通り朝の5時半に家を出た。
何時になく冷え込んだ朝だった。
いつ襲われるともしれない緊張感も相まって、冷えた空気の硬さが、ビリビリと皮膚に切り込んでくるかのようだった。
幸い民営寮に付くまでの間に、男の姿を見ることはなかった。
昨日の調査結果を所属組織に報告してその指示を待っている段階なのかもしれないが、ご主人に声をかけてきた事実もあることから、私達がそれに対応する前に仕掛けてくる公算が高い。
今日中に全ての準備を終了させて、いつでもHDIに接続できる状態にしておく必要があるだろう。 
私1人が密かな緊張感を抱いたまま、朝の体操の時間が始まった。
良介くんの姿はいつも通りなかったが、1級障害を持つ彼はHI受給要件が免除されている。
一日あたり500円の収入は親権者に渡されているが、良介くんの両親が朝の体操にあらわれることは滅多にない。
「ありがとーねーちゃん、またあとでねー!」
スタンプ認証をすると、健太くんはいつも通り元気にそう言って走っていった。
彼はしっかりと、自分の500円を親からもらっている。
その後、見回りをしつつ寮内LANに接続して情報を集めた。
新聞と週刊誌のWEB版を漁ると、民営寮に関する記事数がある時点を境に増加していることがわかった。
入寮者の犯罪と、BI収入のためだけに子供を産む親、記事は概ねその2つに分類されどれも世間の反感を誘うような論調で書かれていた。
その中でも、ある週刊誌の記事に私は注目した。
低所得者が、犯罪やテロ行為に走る可能性が高いという有識者の意見を受けた国が、リスク回避を測るために利用したのが民営寮である――そんな説が、政府関連筋の情報として掲載されていたのだ。
恐らくは鈴木が民営寮に対するマスコミの関心をかきたてるために、意図的に流したのだろう。
民営寮が言われているほど危険な場所でないことは働いていればわかるし、多くの識者・政治家も知っていることだろう。
しかしながら、一部の偏った意見だけを集めて国政上の決定を下すというのは、残念ながら良くあることだった。
国の中枢は権力と人の欲望が集まる場所であり、今でも少なからぬ人が私欲のために活動してしまっている。
私は鈴木の立場について殆ど考慮していなかったことを悔いた。
彼の性格を考えれば、己の名誉を回復するために躍起になるであろうことは、十分予測できたはずなのに。
今となってはもう遅いかもしれないが、私は彼のためにも頑張ろうと思った。
ある意味では私の犠牲者である彼の、せめて首の皮だけでも繋がなければ。
陽が高くなり、気温が上がってくると、スケッチブックを抱えた良介くんが外に出て来る。
今日は野菜畑のスケッチをするようだ。
私が身代わりのELFと入れ替わった時に、いつもの私と違うことに気づいて、彼が騒ぎ出すこと。
その一番の懸念材料を摘まなければならない。
もし良介くんが動揺しているという情報が外部に漏れれば、私の正体に疑いを持っている第三者は、確実に実力行使に出てくるだろう。
前田家を狙うか寮を狙うかはわからないが、多方面への被害を出した上で、私に関する真実が、悪意ある者の手によって暴かれてしまう。
故に、良介くんに理解してもらえるかどうかで、今後取るべき行動が大きく変わってくるのだった。
良介くんの理解を得られるようなら、しばらく私のことを黙っていてもらって、その間に私を嗅ぎ回っている組織の特定ができる。
もし理解してもらえないようなら、直ちにHDIに接続し、調べられる限りのことを調べてから、プロジェクトに救援を求めるしかなくなるが、その場合、組織の特定が十分にできない恐れがあり、寮の人々と前田夫妻の身の安全を確保できなくなってしまう。
公安が噛んでいるとはいえ、プロジェクトだけで出来ることには限りがある。
私自身の手で十分な情報を入手しておくことが、何よりも望ましい。
ここが運命の分かれ目だ。
私はそう自分に言い聞かせると、普段通りを装って良介くんに話しかけた。
「こんにちは、良介くん」
「う、あ……」
私が挨拶をすると、良介くんは戸惑いの声を上げた。
いつもの満面の笑みではない理由を考えつつ、私は慎重に言葉を続ける。
「今日は、お野菜の絵を、書いているのですね」
「う、うんっ……」
良介くんの表情が少し明るくなる。
それは安心したというより、何かに気づいたような変化だった。
「うん、やさい、やさい」
「これはアスパラ、ですね」
「アスパラ、アスパラ、うん……うん」
話しかける毎に良介くんの緊張がほぐれていくようだったので、私はさらに続ける。
「こちらは長ねぎ、まだ、小さいですね」
「うふ、ちっちゃい、ちっちゃいー」
普段なら話をしながらも色鉛筆を止めない良介くんだが、今は私の目を見ることに集中している。
いつもとは違う何かがあると感じているのだろうか。
「他の絵も、見せてもらっても、良いですか?」
「うん……」
すると良介くんは、スケッチブックをパラパラとめくって、他のページに描かれている絵を見せてくれた。
そしてその中に、私は描かれた覚えのない私自身の絵を見つけた。
「これは、私ですか」
「うー! ううう!」
しかし良介くんは必死になって否定してきた。
そのページに描かれているのは、正門の近くをホウキを使って掃除している私の絵なのだが。
「私では、ないのですか?」
「うん、うんー!」
となるとそれは、入れ替わる前の私を書いた絵としか考えられない。
「あっ……」
私は自分の内部に、光に似た何かが広がっていくのを感じた。
よく見るとそのELFはどことなく無機質な表情をしており、非生物的な印象が強かった。
彼はずっと以前から、身代わりのELFと私をきちんと区別していたのだ。
「すごい……知ってたんだ」
驚きのあまり、私はELFのふりをすることを忘れた。
その驚きは私の中で安堵に変わり、その結果、表情も緊張がとけたものになっただろう。
そんな私を見た良介くんが、突如、全身を震わせながら立ち上がった。
「ってた! ってた! わー!」
「すごい……すごいね! 知ってたんだね!」
「しってたー!」
私も一緒になって立ち上がった。
良介くんは大事なスケッチブックを放り出してまで、私の両手を握ってきた。
「エルフー、にんげ! にんげー!」
「そうだよ、人間だったんだよ! すごいね!」
「すごーい! キャフフフフ!」
それから私たちは、しばし手を繋いだまま、野菜畑の前で飛び跳ねた。
もはやELFのふりをする必要はまったくなかった。
良介くんは、最初から私のことを理解していたのだ。
その夢のような事実に、私はいまだかつてないほどの感動を覚える。
「良介くんありがとう……本当にありがとう!」
「うふふー!」
私はその場に膝をつき、良介くんの丸い身体を抱きしめた。
「実はね、私は少しの間、ただのエルフに戻ってしまうの」
「ううっ?」
身体を話してそう言うと、良介くんは目を白黒させた。
言われた事の内容はうまく掴めていないようだが、何か良からぬことを言われたと感じ取ったのだろう。
「明日からは、エルフの私が来るからね。驚かないでね」
「おどろくー?」
「ちょっとね、用事ができちゃったの」
「ようじ……」
辞書的な意味としては恐らく伝わっていないだろう。
私は彼の心理状態に焦点を置いてその動きに目を光らせる。
「わかる? ようじ、よ・う・じ」
「わかる! ようじ! わかるー!」
「ほんとうに?」
「ようじー!」
私は再び、自然と笑みがこぼれてしまった。
良介くんの頭を思わず撫でてしまう。
用事という概念を伝えられた、ただそれだけのことで、全てが完璧に解決した。
「ねえねえ良介くん」
後は普通に、彼と交流すれば良い。
「しばらく会えなくなるから、今のうちに私の絵を描いてくれる?」
地面の上に置いてあったスケッチブックを、手で土を払ってから良介くんに渡す。
「うん! かく! かく!」
「このあたりで良い?」
「うん! うんー!」
私が野菜畑の前に移動して腰を下ろすと、良介くんは鉛筆を目の前に立てて距離を測った。
そして一心不乱に書き始めた。
私は救われた思いだった。
多くの人が私を助けてくれたけど、今ほど救われたと思ったことはない。
時折風が吹いて、目から保護液が零れそうになる。
それでも私は笑顔を浮かべ続けた。
コメント