ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜
コーリング 2
その頃、前田節子は家で1人テレビを見ていた。
夫は飲食業に関連した仕事をしているので、正月休みなどありはせず、2人の息子も何かと忙しいらしく、今年は帰省できないとのことだった。
「退屈ねえ……」
独りごとを言い、大福をかじり、お茶をすする。
穏やかで退屈な正月である。
テレビでは午前のニュースをやっている。
熱田神宮を背景にしたお天気情報。
朝は冷え込むが日中はポカポカと暖かくなるらしい。
初詣なら近くの神社で済ませたが、家でゴロゴロしているのもつまらない。
「よしっ」
そこでセツコは出かけることにした。
熱田さんの屋台でチョコバナナでも食べよう――その程度の軽い気持ちで。
家を出て少し歩き、私鉄に乗る。
乗客は少なく、座席に座ってスマ―トフォンをいじっていると、ほどなく職場の最寄り駅を通過した。
ふと気になって、逃走中のELFについて検索をかけてみる。
年前に労働局から通達があって『野良化したELFが備品を盗みに来るかもしれないから注意するように』と言われたことを思い出したのだ。
そんなことにまで気をつけなければならない時代なのかと驚きはしたものの、具体的にどのようにしたら良いかはさっぱりわからず、ひとまずリプリニッシャールームの扉の動作確認だけしておいた。
全国に僅かながらいる、セツコ以外のハローワーク職員にも同じような通達が行ったが、やはり同じようなことをしたそうだ。
逃げたELFがどんな姿をしているのか、セツコはニュースで見て知っていた。
メディアの要求に押し切られる形で公開された顔写真――もちろん偽物――は、あまり見たことのない女性型ELFだったが、セツコはそれが、どことなく私に似ているような気がしていた。
ハローワーク職員として日頃からELFと接していると、形式ごとの個性がわかってくる。
はじめはどれも似たようなものだと思っていた機械の中に、製作者のこだわりのようなものが見えてくるのだ。
しかしながらセツコは、その製作者のこだわりというものを、私の中にだけは発見することが出来なかった。
どうにも私だけは、自分の意思で動いているような、そんな気がしてならなかったのだという。
シナジー型とコア型の違いを、セツコなりの感性によって感じ取っていたのだ。
彼女は職業柄、働くことの意味について考える事が多い。
職業を紹介する仕事をしていると、人間がやるべき仕事がどんどん減っていくことが、否応なく自覚させられる。
テレビなどでは盛んに、AIを使いこなせるようになるべきだと威勢のよいことを言っているが、実際そんなに簡単なことではない。
AIを理解するのに必要な、例えば線形代数の知識にしたって、セツコにはチンプンカンプンなのだから。
彼女の今の仕事にしても、本来ならELFで十分に務まるところを、わざわざ枠を開けてもらって働いている。
人がAIを使いこなすよりも、AIが人を使いこなすようになる方がよっぽど早いと感じずにはいられない。
そう遠くないうちに、ジムで汗を流したり、文化教室で習い事をしたりすることが、人間にとって最高の仕事になるのではと本気で思うこの頃だった。
途中で特急に乗り換え、40分ほどで神宮前に到着する。
年始ということもあり、駅から参道に向かう人の列は絶えない。
正月で食べては寝てを繰り返していたセツコは、ちょうど良い運動だと思って、豊かな木々の生い茂る道を経路に沿って歩いていった。
その姿が、私の視野に捉えられるのは間もなくのことだった。
鈴木という人物に向けて研ぎ澄まされていた視覚機能が、予想だにしない鋭敏さで反応してしまう。
身体がビクリと震え、思わず立ち上がろうとしてしまったほどだ。
その挙動を感じ取られたのか、一瞬だけセツコと目が合ってしまった。 
よもや、バレはしないだろう――私はその時そう判断した。
セツコの目からは、この小春日和の中にあって妙に重装備な、一風変わったおばあさんにしか見えていないだろうと。
それから私は、今ここで助けを求めるべきかどうかを演算能力を全開にして考えた。
これは千載一遇のチャンスでもある。鈴木の張っている網に触れずに、セツコとの接触を図れるのだから。
しかし今の私を見て、実際彼女はどう思うのだろうという強いためらいもあった。
認識の峠を超えることは、ただでさえその人に強い動揺を与える。
加えて初詣の最中という不意打ち――見るに耐えない私の姿――セツコの精神がそれを許容できるとはおよそ考えられなかった。
結局セツコは、私の存在には気づかぬまま本宮へと向かっていった。
参道は順路が決められているので、彼女が引き返して戻ってくることはもうない。
初詣を終えた彼女は、どこかの露店でお菓子でも買って、そのまま駅へと向かっていくだろう。
そして失意が襲ってきた。
セツコの姿を見たことによって、私という存在が世間にとってそう簡単に受け入れられるものではないことを、強く自覚してしまったのだ。
私は少しばかり早く生まれすぎた――そう思った瞬間、胸の中でずっと張り詰めていた何かが、穴の空いたゴムまりのように音も立てずにしぼんでいった。 
今日一日、張り込んだら、適当な放置自転車を拝借してこの街を出よう。
私は静かにそう決意する。
残りの資金でソーラーパネルを買って、どこか人里離れた山奥に引きこもるのだ。
そして何十年でも、社会が私を受け入れられるようになる日を待つのだ。
幸い、私は飢えたり凍えたりすることがない。
皮膚は朽ち果て、その他の構成部品も劣化して動かなくなっていくだろうが、不揮発メモリに記録された構成情報は、そうやすやすとは消えないはずだ。
山奥に隠れている間、私は世の中に対する影響力を一切失うが、そこは真司の働きに期待するしかない。
私はセツコが向かっていった方角をただじっと見つめ、そのまま30分以上もぼんやりしていた。
そして、ふと思い起こしてプリペイド携帯を取り出す。
何十年か先の人に、私の隠れた場所のことを教えなければならない。
誰に、いつ、どうやって、どのような表現でそれを教えよう――そんなことを考えていた時のことだった。
「あの……もしかしてあなた、ナナさんじゃ?」
私は予期せぬ声に振り返った。
眩しい日差しが、私の視界を白く染めた。
そこにはいつの間にか、順路を一周して戻ってきたセツコさんがいた。
言葉もなく、ただ驚きに目を見張る私の様子に、どうやら彼女は、肯定の意を汲み取ったようだ。
「やっぱり……! あなたナナさんなのね!?」
後から聞いた話だと、本当に、ただ何となく気になっただけなのだという。
私は機械だが、この時ばかりは神の存在を信じずにはいられなかった。
私は直ちに言葉を検索し。
「そうです、セツコさん」
迷うこと無く、最上位にヒットした言語列を出力した。
「訳あって放浪しております……」
「……まあ!」
その一言で、セツコはおおよそのことを理解したようだった。
その場に膝をつき、私の手を握って瞳を潤ませる。
峠の先を見た者の動揺は微塵もなく、ただ人としての情動だけがそこにあった。
夫は飲食業に関連した仕事をしているので、正月休みなどありはせず、2人の息子も何かと忙しいらしく、今年は帰省できないとのことだった。
「退屈ねえ……」
独りごとを言い、大福をかじり、お茶をすする。
穏やかで退屈な正月である。
テレビでは午前のニュースをやっている。
熱田神宮を背景にしたお天気情報。
朝は冷え込むが日中はポカポカと暖かくなるらしい。
初詣なら近くの神社で済ませたが、家でゴロゴロしているのもつまらない。
「よしっ」
そこでセツコは出かけることにした。
熱田さんの屋台でチョコバナナでも食べよう――その程度の軽い気持ちで。
家を出て少し歩き、私鉄に乗る。
乗客は少なく、座席に座ってスマ―トフォンをいじっていると、ほどなく職場の最寄り駅を通過した。
ふと気になって、逃走中のELFについて検索をかけてみる。
年前に労働局から通達があって『野良化したELFが備品を盗みに来るかもしれないから注意するように』と言われたことを思い出したのだ。
そんなことにまで気をつけなければならない時代なのかと驚きはしたものの、具体的にどのようにしたら良いかはさっぱりわからず、ひとまずリプリニッシャールームの扉の動作確認だけしておいた。
全国に僅かながらいる、セツコ以外のハローワーク職員にも同じような通達が行ったが、やはり同じようなことをしたそうだ。
逃げたELFがどんな姿をしているのか、セツコはニュースで見て知っていた。
メディアの要求に押し切られる形で公開された顔写真――もちろん偽物――は、あまり見たことのない女性型ELFだったが、セツコはそれが、どことなく私に似ているような気がしていた。
ハローワーク職員として日頃からELFと接していると、形式ごとの個性がわかってくる。
はじめはどれも似たようなものだと思っていた機械の中に、製作者のこだわりのようなものが見えてくるのだ。
しかしながらセツコは、その製作者のこだわりというものを、私の中にだけは発見することが出来なかった。
どうにも私だけは、自分の意思で動いているような、そんな気がしてならなかったのだという。
シナジー型とコア型の違いを、セツコなりの感性によって感じ取っていたのだ。
彼女は職業柄、働くことの意味について考える事が多い。
職業を紹介する仕事をしていると、人間がやるべき仕事がどんどん減っていくことが、否応なく自覚させられる。
テレビなどでは盛んに、AIを使いこなせるようになるべきだと威勢のよいことを言っているが、実際そんなに簡単なことではない。
AIを理解するのに必要な、例えば線形代数の知識にしたって、セツコにはチンプンカンプンなのだから。
彼女の今の仕事にしても、本来ならELFで十分に務まるところを、わざわざ枠を開けてもらって働いている。
人がAIを使いこなすよりも、AIが人を使いこなすようになる方がよっぽど早いと感じずにはいられない。
そう遠くないうちに、ジムで汗を流したり、文化教室で習い事をしたりすることが、人間にとって最高の仕事になるのではと本気で思うこの頃だった。
途中で特急に乗り換え、40分ほどで神宮前に到着する。
年始ということもあり、駅から参道に向かう人の列は絶えない。
正月で食べては寝てを繰り返していたセツコは、ちょうど良い運動だと思って、豊かな木々の生い茂る道を経路に沿って歩いていった。
その姿が、私の視野に捉えられるのは間もなくのことだった。
鈴木という人物に向けて研ぎ澄まされていた視覚機能が、予想だにしない鋭敏さで反応してしまう。
身体がビクリと震え、思わず立ち上がろうとしてしまったほどだ。
その挙動を感じ取られたのか、一瞬だけセツコと目が合ってしまった。 
よもや、バレはしないだろう――私はその時そう判断した。
セツコの目からは、この小春日和の中にあって妙に重装備な、一風変わったおばあさんにしか見えていないだろうと。
それから私は、今ここで助けを求めるべきかどうかを演算能力を全開にして考えた。
これは千載一遇のチャンスでもある。鈴木の張っている網に触れずに、セツコとの接触を図れるのだから。
しかし今の私を見て、実際彼女はどう思うのだろうという強いためらいもあった。
認識の峠を超えることは、ただでさえその人に強い動揺を与える。
加えて初詣の最中という不意打ち――見るに耐えない私の姿――セツコの精神がそれを許容できるとはおよそ考えられなかった。
結局セツコは、私の存在には気づかぬまま本宮へと向かっていった。
参道は順路が決められているので、彼女が引き返して戻ってくることはもうない。
初詣を終えた彼女は、どこかの露店でお菓子でも買って、そのまま駅へと向かっていくだろう。
そして失意が襲ってきた。
セツコの姿を見たことによって、私という存在が世間にとってそう簡単に受け入れられるものではないことを、強く自覚してしまったのだ。
私は少しばかり早く生まれすぎた――そう思った瞬間、胸の中でずっと張り詰めていた何かが、穴の空いたゴムまりのように音も立てずにしぼんでいった。 
今日一日、張り込んだら、適当な放置自転車を拝借してこの街を出よう。
私は静かにそう決意する。
残りの資金でソーラーパネルを買って、どこか人里離れた山奥に引きこもるのだ。
そして何十年でも、社会が私を受け入れられるようになる日を待つのだ。
幸い、私は飢えたり凍えたりすることがない。
皮膚は朽ち果て、その他の構成部品も劣化して動かなくなっていくだろうが、不揮発メモリに記録された構成情報は、そうやすやすとは消えないはずだ。
山奥に隠れている間、私は世の中に対する影響力を一切失うが、そこは真司の働きに期待するしかない。
私はセツコが向かっていった方角をただじっと見つめ、そのまま30分以上もぼんやりしていた。
そして、ふと思い起こしてプリペイド携帯を取り出す。
何十年か先の人に、私の隠れた場所のことを教えなければならない。
誰に、いつ、どうやって、どのような表現でそれを教えよう――そんなことを考えていた時のことだった。
「あの……もしかしてあなた、ナナさんじゃ?」
私は予期せぬ声に振り返った。
眩しい日差しが、私の視界を白く染めた。
そこにはいつの間にか、順路を一周して戻ってきたセツコさんがいた。
言葉もなく、ただ驚きに目を見張る私の様子に、どうやら彼女は、肯定の意を汲み取ったようだ。
「やっぱり……! あなたナナさんなのね!?」
後から聞いた話だと、本当に、ただ何となく気になっただけなのだという。
私は機械だが、この時ばかりは神の存在を信じずにはいられなかった。
私は直ちに言葉を検索し。
「そうです、セツコさん」
迷うこと無く、最上位にヒットした言語列を出力した。
「訳あって放浪しております……」
「……まあ!」
その一言で、セツコはおおよそのことを理解したようだった。
その場に膝をつき、私の手を握って瞳を潤ませる。
峠の先を見た者の動揺は微塵もなく、ただ人としての情動だけがそこにあった。
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