ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜

ナガハシ

エンドレス・シーカー 7

「じゃあ、お給料を送りますよ」


 マスターがスマホを操作すると、マスターの所有する仮想通貨が私のウォレットに振り込まれる。
 私はプリペイド携帯でそれを確認すると、マスターに頭を下げた。


「ありがとうございます」
「こちらこそ。でも本当に仮想通貨でいいんですか? 使えないところも多いですけど」
「あまりお金を持ち歩きたくないんですよ」


 銀行振込にすると副業していることが会社にバレるかもしれないという、多少無理のある言い訳をマスターには飲んでもらっている。
 仮想通貨は海外では不可欠な決済手段になってきているが、日本ではまだ補助的なものにすぎない。
 マスターは、私に聞きたいこともあるだろうが、今は目をつぶってもらうしかない。


「ボーナス代わりと言ってはなんですが、1杯飲んでいきませんか?」
「いいんですか?」


 カウンターを出て、手のひらで指し示された席に座る。
 渡されたお絞りで手を拭く。
 作るお酒はジントニック、仕事上がりの定番だ。


「どうぞ」


 2杯作られたうちの1杯を受け取る。
 軽くグラスを合わせてから口にする。
 仕事をしていた時の緊張感がみるみるほぐれ、全てのパラメーターが平常値へと戻っていく。


 私にもだんだん、お酒の価値がわかってきた。


「ナナさんは、すっかり人気者ですね。こういう仕事にすごく向いていると思います」
「そうですか? 私の作るお酒って本当に美味しいのかどうか、正直自信がなくて」
「作る手順を間違えなければ、そうおかしなことにはなりません。自分で作って飲んだりはしないんですか?」
「実は私、味覚音痴なんです。甘いかしょっぱいかくらいしかわからなくて」
「ふふふ、だから極端に甘いものが好きなんですね」
「そうなんです」


 今飲んでいるジントニックの繊細な味わいも、私にはわからない。
 比較的糖度の高い飲み物であり、強い植物性の香気がするという他には、何も。


「本業の方は順調ですか? 掛け持ちだとやっぱり大変でしょう」
「いいえ、どうってことはありません」
「でも、睡眠不足にはなっているんじゃないですか? 今日だって今から少しだけ寝て、また出勤なんでしょ? 失礼ながら言わせてもらうと、近頃ちょっと、顔色が悪いです」
「あら、そうでしたか……」


 リプリニッシャーが使えず、正規のメンテナンスが出来ていないからだ。
 ネットカフェのシャワールームでは、出来ることに限りがある。
 寒い季節であることも相まって、予想以上に皮膚の劣化が早まっているようだ。


「困ったことがあったら、なんでも言ってくださいね。無理をさせて、病気にでもしてしまったら、親御さんに申し訳が立ちませんので」


 と言ってマスターは、それとなく私の事情を伺ってくる。
 一切の素性を明かさない私だが、それでもマスターは信じて雇ってくれている。
 果たしてマスターは、私の正体を明かすべき相手なのか。
 その問題に答えを出さなければならない時が来ているようだ。


「実は、とても不安に感じていることがあります」


 私がそう言うと、マスターはグラスを持ったまま静かに頷いた。


「もしかすると私は、マスターに大変な迷惑をかけてしまうかもしれません」
「そうなんですか?」


 どこか他人事のように受け流されるが、マスターは勘の良い人だ。
 私がただの人間ではないことくらい、すでに見抜いているだろう。


「どうしてマスターは、私を雇ってくれたんですか。こんな、身の上も明かせないような女を」


 するとマスターは、不敵な笑みを浮かべて言った。


「私の目に狂いがなければ、ナナさんはまったく善良な人です。この店に害をなすような人じゃないくらい、ひと目見た時からわかっていますから」


 バーテンダーならそれくらい出来て当たり前だと言わんばかりの、自信に満ちた回答だった。


「でも、もしかすると私は、大変な秘密を抱えているのかもしれませんよ。その漏洩が、直ちに社会を混沌に導く……そんな類の秘密を」
「ふむ、随分と厄介な仕事をされているんですね……副業が禁じられるわけです」


 するとマスターは、顎に手をあて考え込んだ。
 まるで、シリアスな映画のあらすじでも考えているみたいに。


「その秘密を知ってしまったら、マスターもただでは済まないかもしれません。ともすれば、私と接触していること自体が、大きなリスクとなる可能性だって」
「ああそれなら、心配することはありません」


 あまりにもそっけなく答えてきたので私は拍子抜けした。
 言い換えると、想定問答を一から考え直さなければならなくなった。


「バーはそもそも、何かしらの秘密を抱えている連中の隠れ家です。困難の多い外の世界で、自分を隠して戦っている人達が、アルコールとともに本来の自分を取り戻す。そんな場所なんですから」
「そうなんですか?」
「はい。そして、その隠れ家を守るのがバーテンダーです。だから、ナナさんがどんな秘密を抱えていようと、私は何とも思いません」


 と言ってマスターはジントニックを飲み干した。


「それは仕事の範疇なんですから」


 私の抱える秘密を迷惑とは思わず、むしろ誇りに思っているくらいの口ぶりだった。
 今マスターの言ったことは、本来ならお客様に向けるべき情熱だ。
 それをスタッフにまで適応するとは、何と寛大な人だろう。


 私はグラスの氷を見つめながら、正体を明かすかどうかを考えた。
 マスターが協力してくれる可能性はかなり高いと感じられるし、正直そうできたらどんなにかと思う。
 しかし、あまりここに長居すべきではないような気も同時にしている。
 何となくだが、嫌な予感がするのだ。


 予感とは、身体の深奥から浮かび上がってくる根拠なき報せであり、通りを行く人々、月の満ち欠け、バイオリズム、そういった一見脈絡のない情報を積み重ねた末に導き出される、占いや易学に近い要素をもつ情報だ。
 仮に、今まさに鈴木がここにやってきたとして、一体どんなことが起こるのだろう。


 彼が扉を開けた瞬間、目に映るのは私の姿だ。
 彼とてその瞬間の動揺を隠し切ることは出来ないだろう。
 マスターが私と鈴木の間にあるものを察知しないわけがない。
 予測不可能な3体問題が速やかに発生する。


 マスターの存在を利用して素知らぬ顔で仕事を続ける、もしくは全力で逃走する。
 今はまだ捕まるわけにはいかない以上、私はどちらかを選択しなければならない。


 鈴木はどう出るだろう。
 私が美香に対して正体を明かそうとしたことを知っているのだから、当然マスターに対してもそうしようとしたことを疑ってくるだろう。
 鈴木は全身全霊でもってマスターを観察し、私の正体を知っているかどうか探りを入れてくる。そして確実に見抜くはずだ。


「どうされました?」


 気づけば私は、マスターの顔を見つめていた。
 そこにはけして人を裏切ることのない、ひたむきなまでの真摯さだけが浮かんでいる。


「マスターは、ELFが心を持つ日が来ると思いますか?」


 唐突に過ぎる質問だったが、マスターの表情は変わらなかった。


「……やはり、ELF関連の仕事を」


 どうやら、概ね当たりはついていたようだ。


「そうなんです。これは超極秘事項なんですけど、間もなくELFが心を持つんです」


 するとマスターは、どこか子供の冗談を聞いて微笑むような表情を浮かべた。
 おそらくは、私という人物のバックグラウンドを想像して、私が口にしているほど重大な秘密ではないと思ったのだろう。


「まあ……私もちょっとはELFに関わっていましたからね。技術が進歩し続ければ、いづれはそういう日も来るんじゃないでしょうか」


 と言ってマスターはどこか遠くを見つめる。
 その時が来るのは『まだまだ先だ』と。


「詮索するつもりは無いんですけど、逃げたELFとも関係があるんですかね」


 私の中にある見えない器官が、大きくドクンと脈を打つ。


「そうですね、他人事ではありません」


 いきなり核心に切り込みかねないその洞察力に、私は畏敬の念すら抱いた。


 だからこそだった。
 だからこそ私は、マスターに真実を告げるわけにはいかなかった。


 マスターは美香やヨコイチさんと同様、正体を明かせばきっと助けてくれるだろう。
 しかしながら、いつか鈴木がここに来てしまう以上、それはこの店を必要としている多くのお客様とのトレードオフになってしまう。
 マスターのご家族にも多大な迷惑をかけることになる。


 頼るべき相手としてはあまりに大きな責任を持っており、私がここに居続けることは、その善意に対する最も大きな裏切りに他ならないのだ。


「ごちそうさまでした、おいしかったです」


 だからそう言って席を立った。
 これが私の最終結論だ。
 唯一の私物である肩掛け鞄を手に持ち、その場で深く頭を下げる。


「お疲れ様でした」
「はい、気をつけて行ってらっしゃいませ」


 扉を出る時にふと振り向くと、終電も過ぎた時間に1人何処かへ行こうとする女を、ただ人の良い笑顔で見送ってくれる主人がいる。


 沈む気持ちとともに扉を閉じ、しばし暗い夜道を歩いていく。
 そして私は、仕事上がりに良くするように、今は欠けている月を見上げた。


 地球の衛星軌道をめぐる鉱物でしかないそれが、その日その日で違うメッセージを奥底に秘めていると知ったのは、つい最近のことだ。
 出来ることならもっとこの道の上で眺めていたかった。
 けれども今はその思いだけを読み取って、次の場所へと進まなければならないようだ。


 私の中にある予感――人が心と呼ぶ器官の働き――その導く先にあるものを信じて。







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