ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜

ナガハシ

エンドレス・シーカー 1

「いらっしゃいませ」


 来る者をあえて拒むような重厚な木の扉を開けると、カウンターの奥でグラスを磨いていた壮年の男性が、思いがけないほど気さくに挨拶をしてきた。
 本格的な店の内装とは裏腹に、黒シャツとベージュのチノパンというカジュアルな装いだ。
 私は一枚板で作られたカウンターの前に立つと、その人に向かって話しかけた。


「こちらの席、よろしいですか」
「どうぞ」


 席につき、差し出されたお絞りで手を拭いていると、店主はメニューが必要かどうかを聞いてきた。
 私は首を横に振り、ただ一言「バナナトニックを」と呟く。


 店主がドリンクを作っている間、私は店内の様子を眺めていた。
 古いバーだった。
 開店直後なので私以外に客はいないが、カウンターの一枚板やスタンドチェアーの足元磨き込まれて黒く光っている木製の床などに、これまで訪れた無数の客の気配が、店の歴史のようにして刻まれている。


「おまたせいたしました」
「ありがとうございます」


 一口だけ飲んで、唇を湿らせる。
 トニックウォーターで割ったバナナリキュールはその殆どが糖分であり、エネルギー源としての評価はとても高い。


 店主は、使用した器具を時間をかけて片付けて、私が店に関する情報を摂取する余裕をあたえてくれた。
 椅子に座り、出されたものを飲む。ただそれだけで、随分と多くのことがお互いにわかるものだ。


「当店は、はじめてでしたね」
「はい」
「今日は、もうお仕事は終わりなんですか?」
「はい、いつもより早く終わったので、前から気になっていたこちらの店に入ってみようと思ったのです」
「それはそれは」


 店主はそう言って微笑むと、再びグラスを磨く手を動かし始めた。


「うちは入りにくくなかったですか?」
「そうですね、多少は。でもバーって大体そういうものですよね」
「ははは、他にもどこか、行きつけの店があるんですか?」
「いえそれが、バーに入るのは初めてなんです」
「そうなんですか。意外ですね、とても馴れていらっしゃるので」
「少しばかり、本で勉強したことがあるだけですよ」
「なるほど、そうでしたか」


 チェスの序盤を組み立てていくような、定石的な会話だった。
 おそらくは、機械同士でもできるだろう。


 しかし、このある種の様式美とも言える会話が、今の私には心地よかった。
 多少の嘘も、今はアルコールに溶かしてしまえばいい。
 実のところ、私のバー巡りはかれこれ20件目を超えている。


 美香とヨコイチさんの手を借りて、ここ愛知県に戻ってきてからはや1週間。
 資金に余裕がある内に、収入源を手に入れておきたい私は、何も聞かずにわけありの女を雇ってくれる場所を探している。


「実は最近、仕事が減ってしまって困っているんです」


 そして序盤を組み立てた後に打つのが、このお決まりの一手だった。


「最近はみなさん、同じようなことを言いますね」


 店主は軽くため息をつきつつ、慣れた口調でそう言った。


「機械に仕事を取られていくのはどこも一緒ですから。それに加えて、うちの会社は副業も禁止で、転職しようかどうか迷っているくらいなんです」


 ここで焦って声をかけてくるようなら、見込み無しだが。


「仕事が減っても、今ならBI収入もあるでしょう? 何か目標でもあるのですか?」
「私、働くことが好きなんです。本当に、一日中でも仕事をしていたいくらい」
「それはそれは」


 店主の手が一瞬止まる。
 店頭の看板にごく小さく『スタッフ募集』と書かれているのを私は見ている。
 店主はグラスを拭く手を止めると、小皿に柿の種を入れて出してきた。


「よければ」
「ありがとうございます」


 1つつまんで口に入れる。
 炭水化物の比率が高い優秀なおつまみだ。


 ここで性急に「じゃあうちで働きなよ」などど言われていたら、2杯目のオーダーはなかっただろう。
 確かに私はわけありだが、安い体ではないのだ。


「おかわりお願いします」
「同じので良いんですか?」
「はい、好きなんですよバナナ」
「ふふふ、それはそれは」


 アイスピックで氷を割る音の心地よさからも、ここが良い店であると判断できる。


 いつか機会があったら真司を連れてこよう。
 姉として、少しは大人の嗜みを教えてあげなければ。







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