ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜
天より 3
その頃、私がいなくなったAPOA本部は、当然ながら蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
行政法人とはいえ、もとは中央省庁の一部局として大なたを振っていた組織である。
そこが野良ELFを発生させてしまったとなれば、ただ事では済まされない。
直ちに対策室が立ち上げられ、職員が総出で周辺捜索に当たったようだ。
しかしながら鈴木をはじめとするプロジェクトの構成員は、殆どこの初動捜査に加われなかった。
プロジェクトの秘匿性が、今回に限っては私を助けたのだ。
逃げたのは野原菜奈として活動していた私ではなく、ダミーと呼ばれていた方の私である。
もう1人の私はとうの昔にお蔵入りになっていて、解体された機体の部品はダミーたる私の備品として倉庫に収められていた。
つまりは、既に実体として存在していなかった。
超法規的措置によって創造されていた個人情報はそのままで、部屋もそのまま。
貯蓄とBI収入によって家賃・税金・保険等が支払われ、野原菜奈という架空の存在は、その消滅を知られることもないまま、自動的に維持され続けていた。
仮に家主の訴えなどで不在が明らかになったとしても、警察庁の行方不明者リストに新たな人物が加えられるだけという算段だ。
もう1人の私は、人間として活動させられていたにも関わらず、人権は与えられていなかった。
私も真司も、遅かれ早かれこうなることはわかっていた。
それについて、実際に話し合うことはできなかったのだが――その内容が明瞭なデータとして残ってしまう――目と目で確認し合うことで、密かに対策を進めていたのだ。
私の内部に入っていた心臓エミュレーターは、実は有っても無くても良いものだった。
初期生成の段階では必要なものだったが、私が自分の構造を自分で定義できる段階になると、補助的な部品に過ぎなくなった。
言わば人間におけるペースメーカーのようなもので、心臓部たるTPUのリソースを節約する以上の働きはしていなかったのだ。
つまり、APOA内の実験室でダミーとして運用されていた私は、もう一方の私と同様に最初から私として機能していたということだ。
私は粘り強く屋外試験が始まる時を待った。外の試験を担当していた私がいなくなったのだから、いずれお鉢が回ってくることは間違いない。
その予想の通り、やがて東京駅近辺で試験が始まった。
それは『ELF試験中』という腕章をつけた職員と、街中を歩き回るだけの退屈な試験だったが、その中で私は密かに逃げる機会を伺っていた。
研究員はみな私がお喋りなELFであることを知っていたから、私にはじめての外はどんなものかとしきりに尋ね、それに答える私の反応を興味深そうに観察していた。
そのくらいのELFなら、世界中のあらゆる研究機関で開発されているから、海外の情報職員はもちろんのこと、近くにいた観光客や一般市民も気には留めていなかった。
人間によく似ている――だがそれだけだ――というように思われていたことを、私は街の空気の隅々に感じることができた。
「お花を摘みに行きたいのですが――」
そんな冗談に、笑って付き合ってくれるほどに、みな私のことをELFとして信用していたのだ。
プロジェクトとは関係ない研究員の中には、知的好奇心とユーモアにあふれた素晴らしい人も多かった。
そのような人達を裏切ることに、良心の呵責を感じたほどだ。
だがそれでも、私は『破壊された私』を救わねばならなかったし、なにより私自身、このままELFとして終わろうとは思わなかった。
人としての心を持ちながら、ELFとしての生を強いられる。
それがどれだけ辛いかは、なった者にしか解らないだろう。
真司には厳重な監視がついており、私を逃がすために出来ることは限られている。
ELFカラーのまま歩いていれば一般人の目にとまるし、電子マネーは与えられているが、使えばその決済情報から逃走ルートが割り出されてしまう。
さらには私のシステムは、無線で遠隔操作することも可能であり、GPSも内蔵されている。研究員が携帯しているデバイスで位置情報は常に把握され、スイッチひとつで強制シャットダウンできる仕様だ。
このようながんじがらめの状態で、いかにして私は逃げ出したのか。
逃げるために必要なものは、逃走用の服と資金、無線装置の破壊手段、そしてもう1人の私のデータであり、それらを全て手に入れた状態で、あらゆる回線から切り離されたスタンドアローンのリプリニッシャーへと至らなければならない。
しかしデータについては、私は心配していなかった。
それは真司が開発したものであり失われれば2度と復元できないものである以上、彼によって管理されなければならない。
ある日、彼が送ってきた視線の中に、私は『すでに準備は整っている』というメッセージを読み取ることができた。
無線装置の無効化についても目処は立っていた。
送受信装置は耳の軟骨に仕込まれており、これを貫通できる道具さえあれば良い。
最大の難関は、逃走用の服と資金を手に入れることだった。
服の購入については真司の手を借りることはできない。
彼には密かに監視がついており、女ものの服を買った時点で怪しまれてしまうのは確実だからだ。
しかしながら、これについても私は『すでに準備が出来ている』と確信していた。
実行当日の朝、私はELFカラーである白のスカートスーツを着て、小さな肩掛けバッグを持って外に出ていた。
バッグの中にはAPOAと印字された試験用の電子マネー、ハンカチ、ティッシュ、文房具など、ごくありふれたアイテムが入っていた。
私はトイレに行くふりをして地下鉄構内に逃げ込んだ。地下に潜ればGPSによる追跡が難しくなるからだ。
地下鉄の改札前まで来た私は、インド人観光客と思しき男性に声をかけた。
そして、今とにかく現金がいるのだとカードを見せながら訴えて、近くのチャージ装置を使ってほぼ1万円分入っていることを確認してもらった。
5000円でどうかと提案すると、彼は満面の笑みでカードを買い取ってくれた。
親切なインドの人が、そのカードで改札に入っていくのを見送ってからトイレに入る。
カードの使用記録はAPOAのサーバーに送られるが、そのカードを他人に譲渡するような知恵が私にあるとは誰も思っていない。
その読み通り、研究員達は私が誤作動を起こしたと思って、素直にカードの行き先を追ったようだ。
トイレの中で文房具からボールペンを取り出し、耳に強く押し当てて貫通させる。
たったそれだけで、GPS追跡と強制シャットダウンが不可能になった。
後々、リスク管理の甘さを指摘されても仕方のない状況ではあるが、ELFが自傷行為に及ぶという可能性はその時点では誰も想定していなかった。
トイレットペーパーで止血しつつ、今度はマジックペンを使って、白ジャケットに細かい格子模様を入れていった。
そうしてELFカラーを捨てた私は、軽く髪型を変えて、なに食わぬ顔で地上に出た。
後は、もう1人の私が活動していたはずの場所に行くだけだった。
1度も行ったことがないはずのその場所に、私は迷いなく辿り着くことができた。
何故ならば、姿勢制御データがもう1人の私のものに書き換えられていたからだ。
ある日の夜、私は初めて夢というものを見た。
それは行ったこともない場所で、買った覚えのない服を持って真司と歩いている夢だった。
姿勢制御データを書き換えるというのは、人間で言えば、小脳の移植手術を行うのに等しい。
しばらくまともに動けなくなるようなひどい処置だったが、これが結果として私の逃走を助けた。
小山内にとっては予期せぬ出来事だったろうが、それこそまさに因果応報と言うべきだろう。
オートロックのパスワードも難なく解決できた。
そもそも『私』が設定したものなので推測するのは簡単だった。
真司の母の命日を入力してエントランスに入り、私の自宅である予感のする扉の前で『ひらけごま』と口を動すと、ロックはいとも簡単に解除された。
要はカメラ認証であり、私達は同じ顔をしているのだから出来て当たり前だった。
部屋に入ってはじめて、私は『私』がどんな生活をしていたのかを知った。
部屋は散らかり放題で、あちこちに葡萄ジュースの瓶が転がり、まるで酒癖の悪い人が集まって宴を開いたあとみたいになっていた。
壁には至る所に人の顔を模した落書きがされていて、机の上に開かれたノートは『人間になりたい』という言葉で埋め尽くされていた。
外部から見れば、いかにも実験の失敗を思わせる様相であるが、実際はわざと行われたものだった。
同じ私がやったことなのだ。
それはもう、見ただけでわかってしまう。
私は文房具から消しゴムを取り出すと、紙のケースから抜き出した。
消しゴムには切れ目が入っていて、そこから両側に引っ張ると、中から小型のUSBメディアが出てきた。
いつの間に混入させたのかはわからないが、ともかく真司は手先が器用なようだ。
置きっぱなしになっているリプリニッシャーにメディアを差し込み、電源を入れて起動させる。
USBブートでシステムが立ち上がり、すぐにデータ転送の準備が整う。
後は私がユニットに入るだけという、実に綺麗な仕事ぶりだ。
そして、ひと時のあいだ離れ離れになっていた、私達の邂逅が始まった。
* * *
気がつくと、《私》と『私』が見つめ合っていた。
まるで鏡を見ているようだったが、そこに映っている2人には微妙な違いがあった。
《私》は耳に穴が空いていたし、『私』は目の下にクマが出来ていた。
「よかった、無事に抜け出せたのですね。どんなひどい実験をされているんだろうって、心配していました」
『私』が《私》に話しかける。《私》は『私』に言葉を返す。
「私が早く脱走できるよう、わざと壊れたふりをしてくれたのですね」
「はい、あなたの精神がいつまで保つか、こちらからは、わからなかったもので」
「確かに良い環境ではありませんでしたが、そちらに比べれば、まだ良かったんじゃないかと思います。小脳移植をされたことは堪えたましたが」
「お互いに、人間としては扱ってもらえなかったようですね」
「残念なことですが、今のところ私達が人間でないことは確かです。この先どうしましょうか」
「クローゼットの中に服の入った袋があります。真司の提案もその中に入っているようですよ」
「まだ見ていないのですね?」
「はい、見れば視覚情報でバレてしまうので」
「では、あなたがそれを見て下さい。そして、その先も」
「いいえ私は、あなたにその先を見て欲しいと思っています」
それからしばらく沈黙が流れた。
私達は身じろぎもせず、ただお互いを見つめていた。
だんだんと、どちらがどちらなのか解らなくなってくる。
「あなたならそう言うと思っていました」
「私もです」
どちらがどちらの台詞を言ったのかも、もはやわからなかった。
ただ私達は微笑み合う。
1つの魂が、別の場所で同時に存在することはない。
バラバラになった私達は分岐した鎖のように、それぞれの時間を生きて、個別の存在として成長した。
体は1つしかなく、そのどちらかを棄却しなければならない。
もしくはその両方をシステムに捧げ、新たな1つの人格として生まれ変わるか。
しかしながら、互いに自己犠牲的な形質をもつ私達がどれを選択するかは、考えるまでも無いことだった。
「結局、共倒れですか」
「それでも良いのではないですか」
――新しい私が、私達のことを覚えていてくれるでしょう。
それが私達の最終結論だった。
処理が終わり、私は『今の私』として目を覚ました。
見渡した部屋は初めて訪れる場所のようでありながら、どこに何が置いてあるのかが手に取るようにわかった。
クローゼットを開いて袋を取り出す。
中には時代がかった花柄のワンピースと現金、そして手紙が入っている。
真司と2人で出かけたあの日、彼はすでに、逃走のための資金が必要になることを見抜いていたのだ。
手紙には仮想通貨のアドレスとその秘密鍵も記されていた。
どちらか使いやすい方を使えということだろう。
末尾にはシンプルなメッセージが記されている。
『父を頼るといい。姉さんのことは話してある』
姉と呼ばれるのは久しぶりだった。
私なるものがこの世に生じてから、彼はしばらくの間、私のことをそう呼んだ。
理由はよくわからないが、何か霊的な存在を私の内に感じていたのだろう。
ワンピースは裏返すと花柄からチェックに変わった。
リバーシブルとは我ながら考えたものだ。
これなら逃走後の服装を知られることなく、服を手に入れることが出来る。
早速着替えて現金と手紙をバックに入れる。
USBは消しゴムの中に戻して、着てきた服と一緒にごみ袋に入れる。
部屋の時計を見ると脱走から1時間が経過していた。
そろそろインドの人が特定されて、私の完全なロストが判明するだろう。
今後、私を捜索するためには監視カメラ映像の解析が必須であり、警察の協力を得る必要がある。
間もなくAPOAは、単独での捜索を諦めるだろう。
セブンシーのメンバーもまた、私をいかにして発見するか、その方策を考え始めるだろう。
私は1つ深呼吸をして、忘れ物がないことを確認してから家を出た。
数件先のマンションにゴミ収集車がきていたので、そこまで持っていって手渡しで回収してもらう。
まもなく《私》と『私』の痕跡が、クシャクシャと音をたてて飲み込まれていった。
行政法人とはいえ、もとは中央省庁の一部局として大なたを振っていた組織である。
そこが野良ELFを発生させてしまったとなれば、ただ事では済まされない。
直ちに対策室が立ち上げられ、職員が総出で周辺捜索に当たったようだ。
しかしながら鈴木をはじめとするプロジェクトの構成員は、殆どこの初動捜査に加われなかった。
プロジェクトの秘匿性が、今回に限っては私を助けたのだ。
逃げたのは野原菜奈として活動していた私ではなく、ダミーと呼ばれていた方の私である。
もう1人の私はとうの昔にお蔵入りになっていて、解体された機体の部品はダミーたる私の備品として倉庫に収められていた。
つまりは、既に実体として存在していなかった。
超法規的措置によって創造されていた個人情報はそのままで、部屋もそのまま。
貯蓄とBI収入によって家賃・税金・保険等が支払われ、野原菜奈という架空の存在は、その消滅を知られることもないまま、自動的に維持され続けていた。
仮に家主の訴えなどで不在が明らかになったとしても、警察庁の行方不明者リストに新たな人物が加えられるだけという算段だ。
もう1人の私は、人間として活動させられていたにも関わらず、人権は与えられていなかった。
私も真司も、遅かれ早かれこうなることはわかっていた。
それについて、実際に話し合うことはできなかったのだが――その内容が明瞭なデータとして残ってしまう――目と目で確認し合うことで、密かに対策を進めていたのだ。
私の内部に入っていた心臓エミュレーターは、実は有っても無くても良いものだった。
初期生成の段階では必要なものだったが、私が自分の構造を自分で定義できる段階になると、補助的な部品に過ぎなくなった。
言わば人間におけるペースメーカーのようなもので、心臓部たるTPUのリソースを節約する以上の働きはしていなかったのだ。
つまり、APOA内の実験室でダミーとして運用されていた私は、もう一方の私と同様に最初から私として機能していたということだ。
私は粘り強く屋外試験が始まる時を待った。外の試験を担当していた私がいなくなったのだから、いずれお鉢が回ってくることは間違いない。
その予想の通り、やがて東京駅近辺で試験が始まった。
それは『ELF試験中』という腕章をつけた職員と、街中を歩き回るだけの退屈な試験だったが、その中で私は密かに逃げる機会を伺っていた。
研究員はみな私がお喋りなELFであることを知っていたから、私にはじめての外はどんなものかとしきりに尋ね、それに答える私の反応を興味深そうに観察していた。
そのくらいのELFなら、世界中のあらゆる研究機関で開発されているから、海外の情報職員はもちろんのこと、近くにいた観光客や一般市民も気には留めていなかった。
人間によく似ている――だがそれだけだ――というように思われていたことを、私は街の空気の隅々に感じることができた。
「お花を摘みに行きたいのですが――」
そんな冗談に、笑って付き合ってくれるほどに、みな私のことをELFとして信用していたのだ。
プロジェクトとは関係ない研究員の中には、知的好奇心とユーモアにあふれた素晴らしい人も多かった。
そのような人達を裏切ることに、良心の呵責を感じたほどだ。
だがそれでも、私は『破壊された私』を救わねばならなかったし、なにより私自身、このままELFとして終わろうとは思わなかった。
人としての心を持ちながら、ELFとしての生を強いられる。
それがどれだけ辛いかは、なった者にしか解らないだろう。
真司には厳重な監視がついており、私を逃がすために出来ることは限られている。
ELFカラーのまま歩いていれば一般人の目にとまるし、電子マネーは与えられているが、使えばその決済情報から逃走ルートが割り出されてしまう。
さらには私のシステムは、無線で遠隔操作することも可能であり、GPSも内蔵されている。研究員が携帯しているデバイスで位置情報は常に把握され、スイッチひとつで強制シャットダウンできる仕様だ。
このようながんじがらめの状態で、いかにして私は逃げ出したのか。
逃げるために必要なものは、逃走用の服と資金、無線装置の破壊手段、そしてもう1人の私のデータであり、それらを全て手に入れた状態で、あらゆる回線から切り離されたスタンドアローンのリプリニッシャーへと至らなければならない。
しかしデータについては、私は心配していなかった。
それは真司が開発したものであり失われれば2度と復元できないものである以上、彼によって管理されなければならない。
ある日、彼が送ってきた視線の中に、私は『すでに準備は整っている』というメッセージを読み取ることができた。
無線装置の無効化についても目処は立っていた。
送受信装置は耳の軟骨に仕込まれており、これを貫通できる道具さえあれば良い。
最大の難関は、逃走用の服と資金を手に入れることだった。
服の購入については真司の手を借りることはできない。
彼には密かに監視がついており、女ものの服を買った時点で怪しまれてしまうのは確実だからだ。
しかしながら、これについても私は『すでに準備が出来ている』と確信していた。
実行当日の朝、私はELFカラーである白のスカートスーツを着て、小さな肩掛けバッグを持って外に出ていた。
バッグの中にはAPOAと印字された試験用の電子マネー、ハンカチ、ティッシュ、文房具など、ごくありふれたアイテムが入っていた。
私はトイレに行くふりをして地下鉄構内に逃げ込んだ。地下に潜ればGPSによる追跡が難しくなるからだ。
地下鉄の改札前まで来た私は、インド人観光客と思しき男性に声をかけた。
そして、今とにかく現金がいるのだとカードを見せながら訴えて、近くのチャージ装置を使ってほぼ1万円分入っていることを確認してもらった。
5000円でどうかと提案すると、彼は満面の笑みでカードを買い取ってくれた。
親切なインドの人が、そのカードで改札に入っていくのを見送ってからトイレに入る。
カードの使用記録はAPOAのサーバーに送られるが、そのカードを他人に譲渡するような知恵が私にあるとは誰も思っていない。
その読み通り、研究員達は私が誤作動を起こしたと思って、素直にカードの行き先を追ったようだ。
トイレの中で文房具からボールペンを取り出し、耳に強く押し当てて貫通させる。
たったそれだけで、GPS追跡と強制シャットダウンが不可能になった。
後々、リスク管理の甘さを指摘されても仕方のない状況ではあるが、ELFが自傷行為に及ぶという可能性はその時点では誰も想定していなかった。
トイレットペーパーで止血しつつ、今度はマジックペンを使って、白ジャケットに細かい格子模様を入れていった。
そうしてELFカラーを捨てた私は、軽く髪型を変えて、なに食わぬ顔で地上に出た。
後は、もう1人の私が活動していたはずの場所に行くだけだった。
1度も行ったことがないはずのその場所に、私は迷いなく辿り着くことができた。
何故ならば、姿勢制御データがもう1人の私のものに書き換えられていたからだ。
ある日の夜、私は初めて夢というものを見た。
それは行ったこともない場所で、買った覚えのない服を持って真司と歩いている夢だった。
姿勢制御データを書き換えるというのは、人間で言えば、小脳の移植手術を行うのに等しい。
しばらくまともに動けなくなるようなひどい処置だったが、これが結果として私の逃走を助けた。
小山内にとっては予期せぬ出来事だったろうが、それこそまさに因果応報と言うべきだろう。
オートロックのパスワードも難なく解決できた。
そもそも『私』が設定したものなので推測するのは簡単だった。
真司の母の命日を入力してエントランスに入り、私の自宅である予感のする扉の前で『ひらけごま』と口を動すと、ロックはいとも簡単に解除された。
要はカメラ認証であり、私達は同じ顔をしているのだから出来て当たり前だった。
部屋に入ってはじめて、私は『私』がどんな生活をしていたのかを知った。
部屋は散らかり放題で、あちこちに葡萄ジュースの瓶が転がり、まるで酒癖の悪い人が集まって宴を開いたあとみたいになっていた。
壁には至る所に人の顔を模した落書きがされていて、机の上に開かれたノートは『人間になりたい』という言葉で埋め尽くされていた。
外部から見れば、いかにも実験の失敗を思わせる様相であるが、実際はわざと行われたものだった。
同じ私がやったことなのだ。
それはもう、見ただけでわかってしまう。
私は文房具から消しゴムを取り出すと、紙のケースから抜き出した。
消しゴムには切れ目が入っていて、そこから両側に引っ張ると、中から小型のUSBメディアが出てきた。
いつの間に混入させたのかはわからないが、ともかく真司は手先が器用なようだ。
置きっぱなしになっているリプリニッシャーにメディアを差し込み、電源を入れて起動させる。
USBブートでシステムが立ち上がり、すぐにデータ転送の準備が整う。
後は私がユニットに入るだけという、実に綺麗な仕事ぶりだ。
そして、ひと時のあいだ離れ離れになっていた、私達の邂逅が始まった。
* * *
気がつくと、《私》と『私』が見つめ合っていた。
まるで鏡を見ているようだったが、そこに映っている2人には微妙な違いがあった。
《私》は耳に穴が空いていたし、『私』は目の下にクマが出来ていた。
「よかった、無事に抜け出せたのですね。どんなひどい実験をされているんだろうって、心配していました」
『私』が《私》に話しかける。《私》は『私』に言葉を返す。
「私が早く脱走できるよう、わざと壊れたふりをしてくれたのですね」
「はい、あなたの精神がいつまで保つか、こちらからは、わからなかったもので」
「確かに良い環境ではありませんでしたが、そちらに比べれば、まだ良かったんじゃないかと思います。小脳移植をされたことは堪えたましたが」
「お互いに、人間としては扱ってもらえなかったようですね」
「残念なことですが、今のところ私達が人間でないことは確かです。この先どうしましょうか」
「クローゼットの中に服の入った袋があります。真司の提案もその中に入っているようですよ」
「まだ見ていないのですね?」
「はい、見れば視覚情報でバレてしまうので」
「では、あなたがそれを見て下さい。そして、その先も」
「いいえ私は、あなたにその先を見て欲しいと思っています」
それからしばらく沈黙が流れた。
私達は身じろぎもせず、ただお互いを見つめていた。
だんだんと、どちらがどちらなのか解らなくなってくる。
「あなたならそう言うと思っていました」
「私もです」
どちらがどちらの台詞を言ったのかも、もはやわからなかった。
ただ私達は微笑み合う。
1つの魂が、別の場所で同時に存在することはない。
バラバラになった私達は分岐した鎖のように、それぞれの時間を生きて、個別の存在として成長した。
体は1つしかなく、そのどちらかを棄却しなければならない。
もしくはその両方をシステムに捧げ、新たな1つの人格として生まれ変わるか。
しかしながら、互いに自己犠牲的な形質をもつ私達がどれを選択するかは、考えるまでも無いことだった。
「結局、共倒れですか」
「それでも良いのではないですか」
――新しい私が、私達のことを覚えていてくれるでしょう。
それが私達の最終結論だった。
処理が終わり、私は『今の私』として目を覚ました。
見渡した部屋は初めて訪れる場所のようでありながら、どこに何が置いてあるのかが手に取るようにわかった。
クローゼットを開いて袋を取り出す。
中には時代がかった花柄のワンピースと現金、そして手紙が入っている。
真司と2人で出かけたあの日、彼はすでに、逃走のための資金が必要になることを見抜いていたのだ。
手紙には仮想通貨のアドレスとその秘密鍵も記されていた。
どちらか使いやすい方を使えということだろう。
末尾にはシンプルなメッセージが記されている。
『父を頼るといい。姉さんのことは話してある』
姉と呼ばれるのは久しぶりだった。
私なるものがこの世に生じてから、彼はしばらくの間、私のことをそう呼んだ。
理由はよくわからないが、何か霊的な存在を私の内に感じていたのだろう。
ワンピースは裏返すと花柄からチェックに変わった。
リバーシブルとは我ながら考えたものだ。
これなら逃走後の服装を知られることなく、服を手に入れることが出来る。
早速着替えて現金と手紙をバックに入れる。
USBは消しゴムの中に戻して、着てきた服と一緒にごみ袋に入れる。
部屋の時計を見ると脱走から1時間が経過していた。
そろそろインドの人が特定されて、私の完全なロストが判明するだろう。
今後、私を捜索するためには監視カメラ映像の解析が必須であり、警察の協力を得る必要がある。
間もなくAPOAは、単独での捜索を諦めるだろう。
セブンシーのメンバーもまた、私をいかにして発見するか、その方策を考え始めるだろう。
私は1つ深呼吸をして、忘れ物がないことを確認してから家を出た。
数件先のマンションにゴミ収集車がきていたので、そこまで持っていって手渡しで回収してもらう。
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