ユートピアver1.77 〜やがて《AI》は人と並び、その峠の先を見つめる〜

ナガハシ

ハロー・ワーク 7

 翌日、セツコは1時間分の残業申請をした。
 そして最寄りの農協に行き、観葉植物を1鉢購入してきた。


 卓上に置くのに丁度良いサイズだが、彼女はそれを大きく育て、挿し木にして株分けしたりして、いずれこの職場を緑一色に染めてしまおうと企んでいる。
 掃除はしづらくなるかもしれないが、そこは自分が補えばいいだけのことだ。


「どうかしら?」
「はい、とてもステキだと思います」


 入口近くのテーブル上に飾られた鉢植えをどう認識したかはわからないが、少なくともナナの回答に遅延はなかった。


 緑の小鉢は白で統一された室内に良く映えて、多くの来所者がそれに目を止めた。
 話題に登ることこそ少なかったが、それでもセツコは、不思議と勤労意欲が高まってくるのを感じた。


 安定所内の緑化が失業率の改善に寄与するという根拠は今のところ知られていない。
 いずれ人工知能がその価値を理解する日も来るのかもしれないが、それはまだしばらく先の話だろう。
 しかしながら人には、自分が信じる価値のために働く権利が付与されており、人工知能もまた人が必要性を認める行為を、法令に反しない以上は否定することが出来ないのだ。


「では、お気をつけて」


 良い仕事をした後のような爽やかな気持ちとともに、セツコは来所者を見送る。
 心なしか、お客さまの表情が明るくなってきた気がする。
 それが鉢植えの効果なのか、それとも単なる仕事の慣れによるものなのか。
 今のところはわからないのだが。


 昼休憩も取らずに働き続けたので、仕事を終えるころにはすっかりお腹が空いていた。
 セツコは近くにあるラーメン屋に向かった。
 昔からある人気店だが、遅めの時間ということもあって運良く空いていた。


「いらっしゃいませぇ!」


 狭い店内にはカウンター席が10席ほどだが、隅々まで磨き上げられており、意識の高さが伺える。
 ラーメンなんて久しぶりだなと思いつつ、高まる期待感を胸に席に着く。


 スマートフォンが店のオーダーシステムを認識し、画面内にメニュー画面がポップアップする。
 豚骨ベースのスープと、特注の小麦粉をつかった自家製麺が売りのようだったが、ついつい目移りしてしまうほどのバリエーションだ。


 ふと厨房に目を戻すと、見覚えのある人物がいるのに気付いた。
 最初の実地訓練の時にセツコを拒絶した女性――榊原梢江だった。


「あ……」
「あ……」


 目が合った瞬間、お互いに間抜けな声を漏らしてしまう。
 彼女はあからさまに目を泳がせながら、おしぼりとお冷の用意を始めた。
 仕事にはまだ慣れていないようだ。


――こちらにご就業されたんですね、おめでとうございます。


 セツコは、その言葉を伝えるためのシュミレーションを、反射的に脳内で行うが。


「どうぞ……」
「ど、どうも」


 結局口に出ず、気まずい雰囲気だけが流れてしまう。
 ラーメンが出来上がるまでの間、セツコはひたすら所在がなかった。


 もし自分がELFだったら、こんな気持ちにならなくて済むのにと、そんなことまで考えてしまう程だった。
 しかし大抵のELFはラーメンを食べない。
 そして人は、都合の良い時だけELFになったりは出来ないのだ。


 間もなく麺が茹で上がり、若い男性店員がテキパキと盛りつけを行っていく。
 職人技だなと感心して眺めていると、出来上がったラーメンを運ぼうとした店員の耳元で、梢江が何かを呟いた。
 店員は一瞬首をかしげたが、すぐに笑顔で承諾の合図を返した。


 何だろうと思っていると、梢江が自らラーメンを提供してきた。


「ごゆっくりどうぞ!」
「あああ、ありがとうございます!」


 一杯のラーメンとともに言葉にならない気持ちが届けられてきた。
 思わず返事が上ずってしまう。
 あくまでも客と店員の短いやりとりであるが、その中には、最高性能のELFですら有効時間内に計算しつくせない情報がこめられているようだった。


 気まずさが感激に変わり、仕事後の一杯を食すにあたり一切の憂いはなくなった。 


 まずは、器に顔を近づけ立ち上る香気を堪能する。
 うっとりするような魚介と豚のハーモニー。


 レンゲでスープを少量すくう。
 ポタージュのようなとろみを帯びたクリーム色の液体、その上に細やかな脂の粒が宝石のように輝いている。
 口に入れると柔らかな塩気があり、適度な野菜の甘さとあいまって、よく煮出された骨の旨味を強調していた。


「はふぅ……」


 これは当たりだ。
 セツコは全身を歓喜に震わせながら麺を手繰った。


 中細の麺には光沢感があり、全粒粉の粒が透けている。
 見た目からして風味豊かなその麺を、たっぷりとつけ汁に絡めて口に入れると、さらなる幸福感が全身に駆け抜けた。


 その後は時を忘れて箸を動かし続けた。
 あえて赤身の部位だけを使用したチャーシューは、低温調理でしっとりと仕上げられており、ほのかな柑橘の香りが付与されていて、その気になれば何枚でも食べられそうだ。
 細切りのメンマもシャキシャキと口の中に心地良く、口直しに添えられた生イチジクが何とも小粋な味の変化を演出していた。


 ああどうか、目まぐるしい時代の流れの中にあっても、この素晴らしい一品が失われませんように――。


 セツコは祈るような気持ちで麺をすすり、つけ汁をスープで割ってもらって、ゆっくり時間をかけ飲み干した。


 厨房の奥では他の店員と共に、梢江が満足そうな笑顔を浮かべている。







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