夜をまとう魔術師
24 戸惑う心
滞在五日目。
その日も朝からテオの姿は見つからず、ようやく会えたのは夕刻間際だった。
調理場で夕食の支度をしているテオを見つけ、トゥリカはその少し後ろに立つと黒い背中をじっと見つめた。
ローブを脱いではいるが、全身黒ずくめで調理場に立っているテオの姿は何度見てもやはり違和感を覚える。
「夕食のあと、王宮まで送るよ」
テオが背中を向けたままそう言ったので、トゥリカはわざと無視してテオの手元を覗き込んだ。
「昨日といい、今日といいどこに行っていたの?」
「食糧の調達だよ。ま、それも今日で最後だけれどね」
「……それはなにをしているの?」
「スープ用の豆を剥いてるんだ」
「あなたって本当に腹が立つくらい色々なことが出来るのね」
「まあ、長く生きてるからね。初めて料理をしたときは散々だったよ。――食事が終わったら部屋においで」
「帰るなんて、私は一度も言ってないわよ」
トゥリカがそう言うと、テオは明らかに驚いた様子で顔を上げた。
見開かれた若草色の瞳を真っ直ぐ見つめ、
「私は帰らないわ」
もう一度、はっきりと告げる。
「――帰らないのはかまわないけど、僕は愚かな男だからね。君の態度を夕べの続きの了承の意に取るよ? 気丈なのか強がりなのか、ああ、無知とも言えるね。早いうちに今の言葉を取り消した方がいいんじゃない?」
テオの言葉が終わるやいなや、トゥリカはかぶりを振った。
「取り消したりしない。どんな意味に取ってもらっても結構よ。もう覚悟は決めたから」
トゥリカは懸命に足を踏ん張って、一息で言い切った。
それが空が白み始める時刻まで悩んで出した結論だ。
テオに説得なんて通用しないことは夕べ理解した。しかし、命を奪う行為は自分には無理だ。出来る、とどんなに思い込もうとしても、土壇場になったらきっと怯んでしまうだろう。
残された可能性は一つ。
身体一つ差し出してティルダが救えるなら安いものだ。どうせいつかは、世継ぎの姫として想っていない相手と結婚しなければならぬのだ。それが少し早まるだけのこと。目をつむって別のことを考えていればいい。大したことじゃない。
覚悟したというのに、トゥリカは何度も何度も自分に言い聞かせながら言葉を続ける。
「そのかわりティルダにかけた術は必ず解いてもらうわ」
そうトゥリカが口にすると、テオは微かに片目を細め、次いで小さく笑った。
「いい度胸だ。じゃあ、お楽しみは食後にとっておくよ。後悔しないように心の準備をしておくことだね……」
ふい、と顔を背けたテオの態度は取引が終わったことを告げていた。
トゥリカは緊張に詰めていた息をそっと吐き出し、あらためてテオの様子を窺った。何食わぬ顔のまま手際よく作業を続けるテオの横顔を眺めているうちに、理由はわからなかったけれど無性に悲しくなった。
トゥリカは自分の不可解な気持ちを誤魔化すために篭の中の豆に手を伸ばすが、そこへすかさずテオの制止の声が飛んでくる。
「ダメだよ」
「私が手伝ってはいけないの? なにもしないよりもいいでしょう」
「せっかく爪が治ったんだ。また怪我をしたら大変だよ? することがなくて暇なら部屋に戻っていてもいいよ。なにも僕のそばにずっと居続ける必要はないんだから」
気遣いの言葉を口にしながらも素っ気なく言ったテオに、トゥリカはますます自分の心が重くなっていくのを感じた。ぐ、と喉の奥が苦しくなる。
「刃物を使うわけでも火を使うわけでもないのだから怪我のしようがないわ」
「ダメだよ」
同じことを語調を強めて言われ、トゥリカは渋々手を引っ込めた。おとなしく後ろに下がりつつも、ここにいなくてもいいと言われたことが悔しい。黒い背中に恨みがましく視線を向ける。
しばらくそうしていると、テオが大げさに肩をすくめた。
「……仕方ないな。やってみる?」
そう言ってテオが場所を明け渡してくれたので、トゥリカは素直に調理台の前に進み出た。
「ここをこうして――」
隣でテオが豆を持ち、順序立てて丁寧にやり方を教えてくれる。トゥリカは見よう見まねで、おずおずと豆のさやについている筋を取った。さやを開くと、中にきちんと収まっていた豆がころんと出てくる。それを見て、自然と笑みが浮かぶ。
「ん、上手だね。じゃあ、ゆっくりでいいから残りも同じようにやっておいてくれるかな?」
テオが頬笑んだのを見て、トゥリカは小さく頷くと再び篭の中の豆に手を伸ばした。
簡単な作業だったけれどトゥリカの沈みかけた心は少しだけ浮上した。料理が初めてだということもあったが、なによりテオが満足げに笑って褒めてくれたことが嬉しかったのだ。
(え……?)
自分の思わぬ感情に気づいてトゥリカは手を止めた。ちらりと隣を窺う。
テオは別の作業をしているようで、鍋を火にかけている最中だった。
端正な横顔を見て、先ほどとは対照的にどきりと胸が高鳴った。
(どうして? 相手は敵よ。あんな取引をあっさり承諾するような人なのよ。昨日だってあんな――)
ふと脳裏に昨夜の出来事が蘇る。妖しく扇情的なまなざしをたたえたテオの姿を鮮明に思い出す。このあと、再びその情景を目の当たりにしなければならないのだと思ったら、顔がじわじわと熱くなった。すぐさま、慌ててテオから目をそらす。
(違う、違うわ。取引よ。感情なんていらない。動揺しているだけ。嬉しくなんてない。大嫌いなのよ! あの笑顔に騙されてるだけなんだったら!)
トゥリカはそう心の中で叫びながら、黙々と豆を剥く作業に集中しようとつとめた。その最中、真横にテオがやってきたため無意識に身体がこわばる。
「せっかくだから今夜のスープを作ってみる?」
「で、でも、出来るかしら?」
「大丈夫。教えてあげるよ」
「じゃ、あ、お願いするわ」
トゥリカはテオと目を合わせぬよう、豆だけを見つめて答えた。
その後、変に動揺していたせいか、トゥリカは香辛料の量を間違えたり煮立て過ぎたりと失敗続きであった。
* * *
「あのさ……」
夕食の最中、スープを口に運んだフランツが途中で手を止め、口を開いた。
「味付け変えた?」
フランツのその言葉に、トゥリカもぴたりと手を止める。
「それは――」
「今日は彼女が作ってくれたんだよ」
トゥリカが真相を話すよりも先に、テオがそう言った。
「ごめんなさい。おいしくないわよね?」
「んー。ちょっと辛いけど、いつもと違うのも新鮮でいいよ」
「そうだね。僕が作ってばかりじゃ単調になるから、またお願いしてもいいかな?」
フランツとテオが気を遣って否定的なことを言わないでくれたことがわかって、トゥリカも少しだけ頬笑んだ。
夕食後、トゥリカは時間を引き延ばしたかったこととお詫びを兼ねて、あと片付けをしているフランツの手伝いをすることにした。
「仲良くなったみたいだねー?」
フランツにそう言われ、トゥリカは棚に置こうとしていた食器を危うく落としそうになった。
「なにが?」
「テオとさ。一緒に料理するほど親密になってるとは知らなかったな」
そう言ったフランツがいたずらっぽく笑った。
その表情を目の当たりにして、なんだか夕べの出来事やこのあとに待っている出来事まで見透かされている気分になった。トゥリカは否定の気持ちを込めて首を目一杯横に振る。
「ち、ちが、違うわ。親密なんかじゃない。大嫌いよ、あんな人」
どもりながら言い返したところで、フランツのニヤニヤが増すだけだった。
「でも、俺の言ったとおりだったでしょ。信用されてるって」
「そうかしら? 違うと思うわ」
「そんなことないよ。だって俺だったら、信用出来ない人が作ったものは食べたくないもん。なに入れられているかわかったもんじゃないからさ」
いつもと変わらぬ軽い口調でそう言ったフランツの言葉に、トゥリカは苦笑いを浮かべかかったが、フランツを見てぎくりとする。
それまでにこやかに笑っていたフランツの顔から笑みが消えていたからだ。
今までに見たことのない彼の表情をトゥリカは凝視する。
「あっ! つまり、俺はトゥリカとテオのことは信用してるってことだよ」
トゥリカの視線に気づいたからか、フランツは再び笑って言葉を付け足した。
見てはならないフランツの素顔を垣間見てしまった気がして、トゥリカはそれ以上訊ねることは出来なくなった。
その日も朝からテオの姿は見つからず、ようやく会えたのは夕刻間際だった。
調理場で夕食の支度をしているテオを見つけ、トゥリカはその少し後ろに立つと黒い背中をじっと見つめた。
ローブを脱いではいるが、全身黒ずくめで調理場に立っているテオの姿は何度見てもやはり違和感を覚える。
「夕食のあと、王宮まで送るよ」
テオが背中を向けたままそう言ったので、トゥリカはわざと無視してテオの手元を覗き込んだ。
「昨日といい、今日といいどこに行っていたの?」
「食糧の調達だよ。ま、それも今日で最後だけれどね」
「……それはなにをしているの?」
「スープ用の豆を剥いてるんだ」
「あなたって本当に腹が立つくらい色々なことが出来るのね」
「まあ、長く生きてるからね。初めて料理をしたときは散々だったよ。――食事が終わったら部屋においで」
「帰るなんて、私は一度も言ってないわよ」
トゥリカがそう言うと、テオは明らかに驚いた様子で顔を上げた。
見開かれた若草色の瞳を真っ直ぐ見つめ、
「私は帰らないわ」
もう一度、はっきりと告げる。
「――帰らないのはかまわないけど、僕は愚かな男だからね。君の態度を夕べの続きの了承の意に取るよ? 気丈なのか強がりなのか、ああ、無知とも言えるね。早いうちに今の言葉を取り消した方がいいんじゃない?」
テオの言葉が終わるやいなや、トゥリカはかぶりを振った。
「取り消したりしない。どんな意味に取ってもらっても結構よ。もう覚悟は決めたから」
トゥリカは懸命に足を踏ん張って、一息で言い切った。
それが空が白み始める時刻まで悩んで出した結論だ。
テオに説得なんて通用しないことは夕べ理解した。しかし、命を奪う行為は自分には無理だ。出来る、とどんなに思い込もうとしても、土壇場になったらきっと怯んでしまうだろう。
残された可能性は一つ。
身体一つ差し出してティルダが救えるなら安いものだ。どうせいつかは、世継ぎの姫として想っていない相手と結婚しなければならぬのだ。それが少し早まるだけのこと。目をつむって別のことを考えていればいい。大したことじゃない。
覚悟したというのに、トゥリカは何度も何度も自分に言い聞かせながら言葉を続ける。
「そのかわりティルダにかけた術は必ず解いてもらうわ」
そうトゥリカが口にすると、テオは微かに片目を細め、次いで小さく笑った。
「いい度胸だ。じゃあ、お楽しみは食後にとっておくよ。後悔しないように心の準備をしておくことだね……」
ふい、と顔を背けたテオの態度は取引が終わったことを告げていた。
トゥリカは緊張に詰めていた息をそっと吐き出し、あらためてテオの様子を窺った。何食わぬ顔のまま手際よく作業を続けるテオの横顔を眺めているうちに、理由はわからなかったけれど無性に悲しくなった。
トゥリカは自分の不可解な気持ちを誤魔化すために篭の中の豆に手を伸ばすが、そこへすかさずテオの制止の声が飛んでくる。
「ダメだよ」
「私が手伝ってはいけないの? なにもしないよりもいいでしょう」
「せっかく爪が治ったんだ。また怪我をしたら大変だよ? することがなくて暇なら部屋に戻っていてもいいよ。なにも僕のそばにずっと居続ける必要はないんだから」
気遣いの言葉を口にしながらも素っ気なく言ったテオに、トゥリカはますます自分の心が重くなっていくのを感じた。ぐ、と喉の奥が苦しくなる。
「刃物を使うわけでも火を使うわけでもないのだから怪我のしようがないわ」
「ダメだよ」
同じことを語調を強めて言われ、トゥリカは渋々手を引っ込めた。おとなしく後ろに下がりつつも、ここにいなくてもいいと言われたことが悔しい。黒い背中に恨みがましく視線を向ける。
しばらくそうしていると、テオが大げさに肩をすくめた。
「……仕方ないな。やってみる?」
そう言ってテオが場所を明け渡してくれたので、トゥリカは素直に調理台の前に進み出た。
「ここをこうして――」
隣でテオが豆を持ち、順序立てて丁寧にやり方を教えてくれる。トゥリカは見よう見まねで、おずおずと豆のさやについている筋を取った。さやを開くと、中にきちんと収まっていた豆がころんと出てくる。それを見て、自然と笑みが浮かぶ。
「ん、上手だね。じゃあ、ゆっくりでいいから残りも同じようにやっておいてくれるかな?」
テオが頬笑んだのを見て、トゥリカは小さく頷くと再び篭の中の豆に手を伸ばした。
簡単な作業だったけれどトゥリカの沈みかけた心は少しだけ浮上した。料理が初めてだということもあったが、なによりテオが満足げに笑って褒めてくれたことが嬉しかったのだ。
(え……?)
自分の思わぬ感情に気づいてトゥリカは手を止めた。ちらりと隣を窺う。
テオは別の作業をしているようで、鍋を火にかけている最中だった。
端正な横顔を見て、先ほどとは対照的にどきりと胸が高鳴った。
(どうして? 相手は敵よ。あんな取引をあっさり承諾するような人なのよ。昨日だってあんな――)
ふと脳裏に昨夜の出来事が蘇る。妖しく扇情的なまなざしをたたえたテオの姿を鮮明に思い出す。このあと、再びその情景を目の当たりにしなければならないのだと思ったら、顔がじわじわと熱くなった。すぐさま、慌ててテオから目をそらす。
(違う、違うわ。取引よ。感情なんていらない。動揺しているだけ。嬉しくなんてない。大嫌いなのよ! あの笑顔に騙されてるだけなんだったら!)
トゥリカはそう心の中で叫びながら、黙々と豆を剥く作業に集中しようとつとめた。その最中、真横にテオがやってきたため無意識に身体がこわばる。
「せっかくだから今夜のスープを作ってみる?」
「で、でも、出来るかしら?」
「大丈夫。教えてあげるよ」
「じゃ、あ、お願いするわ」
トゥリカはテオと目を合わせぬよう、豆だけを見つめて答えた。
その後、変に動揺していたせいか、トゥリカは香辛料の量を間違えたり煮立て過ぎたりと失敗続きであった。
* * *
「あのさ……」
夕食の最中、スープを口に運んだフランツが途中で手を止め、口を開いた。
「味付け変えた?」
フランツのその言葉に、トゥリカもぴたりと手を止める。
「それは――」
「今日は彼女が作ってくれたんだよ」
トゥリカが真相を話すよりも先に、テオがそう言った。
「ごめんなさい。おいしくないわよね?」
「んー。ちょっと辛いけど、いつもと違うのも新鮮でいいよ」
「そうだね。僕が作ってばかりじゃ単調になるから、またお願いしてもいいかな?」
フランツとテオが気を遣って否定的なことを言わないでくれたことがわかって、トゥリカも少しだけ頬笑んだ。
夕食後、トゥリカは時間を引き延ばしたかったこととお詫びを兼ねて、あと片付けをしているフランツの手伝いをすることにした。
「仲良くなったみたいだねー?」
フランツにそう言われ、トゥリカは棚に置こうとしていた食器を危うく落としそうになった。
「なにが?」
「テオとさ。一緒に料理するほど親密になってるとは知らなかったな」
そう言ったフランツがいたずらっぽく笑った。
その表情を目の当たりにして、なんだか夕べの出来事やこのあとに待っている出来事まで見透かされている気分になった。トゥリカは否定の気持ちを込めて首を目一杯横に振る。
「ち、ちが、違うわ。親密なんかじゃない。大嫌いよ、あんな人」
どもりながら言い返したところで、フランツのニヤニヤが増すだけだった。
「でも、俺の言ったとおりだったでしょ。信用されてるって」
「そうかしら? 違うと思うわ」
「そんなことないよ。だって俺だったら、信用出来ない人が作ったものは食べたくないもん。なに入れられているかわかったもんじゃないからさ」
いつもと変わらぬ軽い口調でそう言ったフランツの言葉に、トゥリカは苦笑いを浮かべかかったが、フランツを見てぎくりとする。
それまでにこやかに笑っていたフランツの顔から笑みが消えていたからだ。
今までに見たことのない彼の表情をトゥリカは凝視する。
「あっ! つまり、俺はトゥリカとテオのことは信用してるってことだよ」
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